50 目を逸らしても現実は変わらない
虎門はアパートに帰ると、汗臭くなったTシャツを脱いで、蓋を開けっぱなしの洗濯機に放り込んだ。
六畳の1K、家賃四万円という安アパートは、西日が差し込むせいで夜もかなり暑い。落ちているエアコンのリモコンボタンを足の親指で押して窓際まで歩く。
部屋干ししていたTシャツが乾いていたから、ハンガーからとってそのまま着た。
処方された薬が入っているレジ袋を足元に投げてベッドに倒れ込む。
枕元にある求人情報フリーペーパーを開いて見るけれど、情報が頭に入ってこない。
「障碍者枠、なんてここに載ってないんだよなぁ」
週刊求人情報は、様々な職種の募集が載っている。けれど特別に記載がない限り、健常者のための求人、という大前提がある。
障碍者枠で働くにしても、馬鹿にされたりハブられたりしやしないか。
昨日までこんな心配しなくてもよかったのに。
何年通院しなければならないんだろう。薬も処方されているから、薬の費用もかかる。
なかなか定職に就けない身には、この定期通院費だけでかなりの負担だ。
きちんと治療すれば健常者になれるのか。
いや、なれない。生まれ持ったものであり、特性と向き合って生きるしかないと初田に言われている。
わかっていても、受け入れたくない。
スマホが鳴り、画面を見るとナナからだった。
『兄貴。今日病院行くっていってたよね。大丈夫だった?』
「……大丈夫、では、ないのかな。俺、アスペルガー? ってやつなんだって。精神障害者手帳の申請と、障碍者枠での就職を視野に入れた方がいいって言われた」
面と向かって告げる勇気がないから、電話越しでよかったのかもしれない。
取り乱すでもなく、ナナは冷静に聞いてくる。
住宅街の喧噪、車が通り過ぎる走行音がBGMになっていて、忙しいのに心配して電話をしてきてくれたのかと思うと申し訳なくなった。
『そっか。兄貴は、どうするの』
「わからない。でも、大丈夫だ。ナナに迷惑かけるようなことだけはしないから。兄が障碍者なんて世間体悪いもんな」
考えないようにしていただけで、無意識にあちら側にはなりたくないと考えていた。
自分は偏見なんて持たないよ、と理解があるようなことをいいながらも、心のどこかに差別意識があった。障碍者と呼ばれたくない。
(おれはまだ、普通でいたい)
障害者手帳の申請は任意であり強制ではないと初田は言っていた。
手帳の交付さえ受けなければ、健常者。
虎門の言葉に、ナナが声を荒らげる。
『は? ばっかじゃないの!? うちがいつ嫌だって言ったよ。そういう考え方された方がよっぽど迷惑だっての!』
電話が切れて、同時に玄関のチャイムが連打された。
「開けなさい馬鹿兄貴!」
「ま、待て待て待て!」
急いで玄関を開けると、腕組みして角を生やさんばかりに怒り狂っているナナが立っていた。兄の虎門と正反対でおしゃれに余念がなく、虎門が名前を知らないような大人女子向けアパレルブランドの服で身を固めている。
ナナは虎門の返事を聞かないうちから、パンプスを脱いで上がり込む。投げ出してあったレジ袋をめざとく見つけて、適当な場所に座りながら中身を取り出した。
「これが病院の薬? 初田ハートクリニック・精神科」
「そ、そうだよ。そこが今日行った病院」
「ふうん。それで、なんでうちが兄貴の障害者手帳申請を嫌がるって話になるの?」
目尻をつり上げ、ナナは問い詰めてくる。昔から気が強い子で、兄として気圧されてばかりだ。兄妹喧嘩で勝てた試しがない。
ナナの言うことはきついが、いつも正論。すごく耳が痛い。
虎門はうつむいて、必死に説明する。
「嫌じゃ、ないか、普通。だって申請して手帳が交付されたら、おれはこれから先、障碍者になるんだぞ。親父とおふくろにだって顔向けできない。仕事だって障碍者枠なんだぞ。テレビで見たことがある。障碍者は最低賃金を下回るようなところで働かされるのが現状だって。おれ、ナナの足かせになっちゃうだろ」
ナナは貯まっていたチラシの山の一番上にあったピザ屋のお知らせを筒にして、虎門の頭を叩いた。パコンと気の抜けた音が部屋に響く。
「バカ。障碍に偏見持っているのは兄貴自身じゃん。うちの働いている店にそういう枠採用の子が一人いるけど、自分にできる範囲で一生懸命働いてくれているよ」
「う……」
正論すぎて反論が思いつかなかった。
障碍を持っていても立派に働いている人はいる。それはわかるが、どうしても長年持ってきた意識は簡単には拭えない。
「まったくもう。次の通院はいつ? うちも休み取って通院に付き添うから。そんで兄貴がしなきゃならないことを先生に聞くから」
「え、それはちょっと」
「しなきゃ兄貴いつまでもうだうだうじうじしてそうなんだもん。ちゃんと先生の言うとおりにしたら少しは働きやすくなるんじゃないの?」
ナナは薬のレジ袋に一緒に入れていた診察券を見つけて、裏に書かれていた予約日時を手帳にメモした。これはどうあがいても次回の診察についてくる流れだ。
障碍者の兄なんて嫌! と言われなかったのは幸いだけれど、妹に世話を焼かれっぱなしで自分が情けなくなった。
「診断をされる前とされた後で兄貴が別の存在になったわけじゃないでしょ」
「それはそうだけど」
「……とにかく。うちはこれで帰るけど、兄貴は次の診察までに冷静に考えた方がいいよ。障害者手帳の申請をするかどうか、障碍者枠雇用を利用するかどうか。どっちもしないのって現状維持でしかないのわかってる? 三ヶ月以上バイトできたことがない現実、ちゃんと見えてる? しっかりしなよね」
ナナは虎門が逃げたい現実を全部突きつけてくる。
玄関扉が閉まり、足音が遠のく。
これ以上試用期間で切られる日々を繰り返せば、五年後十年後、就職がさらに厳しくなる。必ずナナの負担になってしまう。それは避けたい。
わかってはいるけれど、障碍者と呼ばれたくはない。
簡単に割り切ることができず、うまく寝付けないまま次の日の朝を迎えた。





