48 失敗を恐れて踏み出せない
診察のあと処方箋を受け取り、虎門は受付で次の診察予約をして帰ろうとした。
「あ、虎門さん。これをどうぞ」
「はい?」
ネルが受付内側に置かれていたネコ耳ガラス瓶を開け、中に詰まっていたイチゴ飴の包みを一つ、虎門に差し出した。
「疲れたときには甘いものがいいですよ。私が昔から好きなアメなんです」
普段飴や菓子の類いは口にしないけれど、虎門は気配りを受け取った。
レストランで会ったときもそうだったが、ネルはさりげなく気遣ってくれる。
先輩のおばさんに怒鳴られてばかりだし、後輩バイトにすら馬鹿にされる始末で、こんなにも優しくしてくれる人は久しぶりだった。
飴を渡してくれた左手には指輪がない。
嫌みな先輩パートですら既婚子持ちなのに、優しくて可愛い女性が未婚だなんて世の中不思議である。
「天気予報を見ていたら、そろそろ雨が降るらしいんですよ。もしよかったら、傘立てにさしてあるウサギ柄の傘を使ってください。次の来院の時にでも戻してくださればいいので」
「ありがとう、ございます」
虎門のあとの予約時間の患者だろう、少年と母親らしい二人が入ってくる。
ネルは笑顔で二人に声をかける。
「コウキくん、お母さん、こんにちは」
「根津美さん、こんにちは。はいこれ。ええと、保険証と診察券と、自立支援受給者証」
コウキが診察券と保険証、大きめの紙をカウンターに乗せる。
「はい、お預かりします」
もう少しネルと話したい気持ちがあったが、長居するのは気が引けて、傘を借りてクリニックを出た。
「せめてあれくらいスムーズに応対できたらいいのに……」
ネルが言ってくれたように、クリニックを出て数分もしないうちに雨が降ってきた。
薬局で処方された安定剤を受け取り、傘を開いて駅までの近道を歩く。
七夕が近いから、所々の商店の店先に笹が飾られていて、色鮮やかな短冊がつるされている。
けーきたべたい
ユーくんと両思いになれますように♪
せんたいのレッドになる
宝くじ百億円当たりますように
かわいらしい夢から欲望にまみれたものまで様々な願いがある。まだ高校卒業したばかりだった頃の自分を思い出す。
(いつから、こんな風になっちゃったんだろうな)
卒業文集には、ゲームプログラマーになりたいなんてばかなことを書いた。
ゲーム会社に就職するためにはPC関連のスキルを持っていなければならない。
やる気さえあれば未経験の飛び込みでも雇ってもらえるなんて思っていた。今思えば漫画の読み過ぎの痛いやつだ。
実際の虎門は遅いながらもタッチタイピングができるだけ。
なんの検定も資格も持っていない。現場で役に立つはずがない。
駅につく頃には雨足が強まり、スウェットの裾が濃い色になっていた。
これから駅を出ようとしている人たちは空を見上げ、幾人かは鞄から折り畳みかさを出しある人は空を睨んで駅の中に引き返していく。
松葉杖をついた女性もまた、空を見上げている。
左足が太ももまでギプスで固定されていて、左腕も包帯が巻かれている。
つばの大きなキャップをかぶってマスクをしているため顔は分からないけれど、傘を持っていないのは見て分かった。
「はぁ、最悪……」
女性はつぶやいて、松葉杖を持つ右手を器用にショルダーバッグに入れ、スマホを取り出す。
「アリス。駅まで来たんだけど雨が降ってきちゃったの。ちょっと傘持ってきてよ。……は? 無理? 来てくれてもいいじゃない。ここまで近いんだから、十分くらい仕事抜ければ来れるでしょ。……タクシー拾えって、それが姉への態度なの?」
なにやら電話の相手と言い合いになっている。
電話を切ってから深くため息をついてスマホをバッグにしまう。
虎門に気づいて声音を変えた。
「私は見世物じゃないんだけど。怪我人がそんなに珍しい?」
声は綺麗だが言葉がとげとげしい。バイト先の先輩を思い出して左胸が痛む。
「す、みません」
急いで駅に走った。
案内所のインフォメーションボードには近隣のイベント情報や駅構内のテナントの求人が載っていて、クリニックのある商店街のお祭告知ポスターも貼られている。
そして、虎門が働いているレストランの求人も貼られている。
他にも十八歳から三十代くらいまで、という年齢制限の厳しい服屋から、十六歳以上から六十歳まで元気な方募集というラーメン屋まで様々だ。
六月末で契約終了が決まっているから、早く次を探さないと生活が立ちゆかなくなる。
妹に生活費を借りるなんて真似、兄としてできるわけがない。
(接客、もうお客さんの前で怒鳴られるのは嫌だな。でも駅ナカって接客業しかない。スーパーの品だしなら接客しなくていいか? ああ、でも初田先生が就職時には障害のことを伝えるべきだと言ったな。おれ、障碍者だったんだな……)
認めたくはないけれど、何度言われても頭の中が真っ白になって焦ってしまい、教わったはずのことがわからなくなる。マニュアルにないことができない。
機転を利かせるなんて器用なことができないし、注文と違うものを運ぶこともあって、何度も客を怒らせて店にクレームが入った。
自分は障碍者に位置する人間であること、納得する気持ちと、認めたくない気持ちがない交ぜで、悲しいのか悔しいのかわからなくなる。
電車の座席に座り、揺られながらぼんやり考える。
これだけの乗客がいる中で虎門が精神疾患だと理解できる人がどれだけいるんだろうか。
虎門自身、初田に診断されるまでは不器用なだけの人間だと思っていたくらいだ。
利用者の多い路線だから席が埋まり、立っている人が目立つ。
次の駅で、腰の曲がったおばあさんが乗ってきた。
大きな荷物を持っているが、背が低いからつり革に手が届かない。
虎門の前に来て手すりに掴まる。
(譲るべきなのか、でもネットやテレビで『席を譲ろうとしたら、老人扱いすんな! ってぶち切れられた』って話をよく聞くし……。ああ、こんなだからおれ、空気読めないって言われるんだ)
席を譲ろうか譲らない方がいいのか悩んでいるうちに、虎門の隣に座っていた柄の悪そうな男が立ち上がった。
「ばあさん座れよ。俺、次が降りる駅だから」
「あらまあ、ありがとうねえお兄さん」
おばあさんは何度も頭を下げて空いた席に腰を落ち着けた。
男は癖のある黒髪を左に流し、黒いスカジャンに白いシャツ、デニムに革靴という服装。背は百八十センチメートルはあり、茶色がかったサングラスをかけていて、醸すオーラはライオンかサメ。
そんな人でも席を譲るのに虎門は譲らなかった。
(こんなだからおれは駄目なんだな)
男は自分で言ったとおり、次の駅で降りていった。
たった一度しか口を開かなかったが、男の声はついさっきまで病院で聞いていた声によく似ていた。





