47 おかしくも頼もしい帽子屋
ネルから虎門の話を聞いていた初田は、時間を切り詰め、六月中に虎門の初診となった。
虎門は受付を済ませ、診察室に入ってすぐ硬直した。
「わたしが医者の初田です。虎門ケンゴさん。そのまま入ってください」
初田に呼ばれたが、無言で扉を閉めた。
「……え、あの。根津美さん。変なウサギ男がいたんですけど」
「初田先生はウサギをかぶってますけど、ちゃんと医者ですよ」
ネット検索して口コミ40件、☆4.5という驚異の数字をたたき出していたので、どれだけ素晴らしい精神科なのかと期待してきたが、診察室にいたのはウサギ頭の男。
口コミはサクラだったのか、いや、二十件以上が「先生は変だけど腕は確か」という主旨のコメントだった。
変人はこういうことだったのかと知った虎門である。
「大丈夫。初田先生なら必ず力になってくれます」
ネルに背中を押され、虎門は意を決して診察室に入った。
虎門は猫背気味で、癖のある黒髪に黒縁メガネ。前髪は目を隠してしまうくらい長い。
Tシャツにスウェットのズボン、サンダルというゆるい格好をしている。あまりおしゃれに頓着するタイプではないようだ。
初田にうながされてソファに座る。
「それでは、どんなことで困っているのか話してもらえるかな」
「……どれから言えば……」
虎門は困ったようにつぶやき、目を細める。
虎門ケンゴ 年齢三十。一人暮らし。
高卒後はバイトを転々としている。
親は二月に故人となっていて、たまに一歳下の妹ナナが様子を見に来てくれると書いてある。
「根津美さんに、“ミスをしてパニックになった後、過呼吸を起こした”と聞いているんですが、それは普段からよくあるのですか?」
「……いつも、先輩に怒られてて。間違えたら怒られるから、メモを取ろうとすると怒られる。同じこと三回も言わせるな、何で怒られているのか分かってないでしょ、分からないくせに謝るなって言われて。だって分かるわけないじゃないですか。何で怒っているのか理由を言ってくれないんだから。普通それくらい察しろって。こうかなって思って聞くと違うんです。だったら怒っている理由を言ってくれればいいのに自分で考えろ、そんな当たり前のこと聞くなって。いまのレストランも、試用期間より先はないと思えって言われている」
虎門はため込んでいた不満を吐き出す。
三十歳で正規雇用経験がないとなると、就職活動はかなり苦労していることだろう。
初田は虎門の悩みを聞きながら、カルテにペンを走らせる。
人の機微を察するのが不得手。
「二つ前のバイトだってそうだ。学生バイトが二週間で仕事内容をマスターできたのに、おれは二ヶ月経っても無能で、学生はお客様の希望を察して動ける。お前も見習えって言われるんですけど、その学生はおれと別の人なんだから、あいつはできるのにって言うのおかしいと思いません? 毎日ひっきりなしに人が来るんだから一度にあれこれ言われても顔を覚えきれないし」
「……つかぬ事を伺いますが、虎門さん。学生時代の成績はどうでしたか?」
「ええと、だいたい平均かそれ以上。一位は取れたことないけど、最下位や赤点になったこともないです。英語なんて高二の中間89点取れたんです」
学力、知能に問題はないが対人コミュニケーション能力が著しく低い。
初田は棚に納めていたファイルから一枚のプリントを取り出し、バインダーに挟む。
それから鉛筆をバインダーのクリップ部分に挟んで虎門に渡す。
「この設問に正直に答えてください。あなたの傾向を知ることで今後の方針が決まりますので」
「これ書いてなんになるんです」
「あなたを知るために必要なんです。自分に当てはまると思ったら1、まあまあ当てはまると思ったら2、あまり当てはまらないと思ったら3、当てはまらないと思ったら4と、設問横の欄に記入してください」
・会話をしていて相手がどう感じているのか理解するのが難しい。
・集団行動やグループ活動が苦手だ。
・言外の意味を理解するのが難しい。
・状況を読み取って行動することができない。
・好きなことへの集中力はある。
・作業の手順が変わると対応できなくなる。
・大きな音(掃除機や大声など)が苦手だ。
こういった設問が十五問ほど記載されている。
虎門はいぶかしげにしながらも数字を記入していき、五分ほどで初田にバインダーを返した。
初田はチェックシートに目を通し、虎門の様子を見て口を開く。
「虎門さん。過去に精神科か心療内科、メンタルクリニックなどに通ったことはありますか」
「薬を飲んだら、おれ、まともに働けるようになりますか。バイトでもいいからしないと、住民税とか、保険料の支払いとか」
「パニックを起こしにくくはなるだろうけど、完全には無理です。世の中に、性格を変える薬はないから」
「それじゃ困る。そういうの治せるのが医者じゃないのか」
微妙にかみ合わない会話をしながら、初田は診断結果を伝える。
「虎門さんは、ASD……自閉スペクトラム症の中でも、アスペルガー症候群である可能性が限りなく高いです。これは先天的なものなので、症状とうまく付き合って生きていくしかありません。今後お仕事を探される際は、障害の特性を職場に伝えた上で雇ってくれる場所を探した方がいいです」
「……おれは障碍者扱いになるってことか? 職場に言わずに済ませられないのか。薬を飲めば症状が出なくなるんじゃ」
これまで健常者として生きてきたのに、障碍者として扱われることになる。
どうにもならない現実に、虎門は泣きそうになった。
「抵抗があるかもしれませんが、必要なことです。
対人コミュニケーションがとても苦手でしょう。相手の望むような臨機応変な対応ができない。抽象的な言葉をくみ取れない」
指摘されて、虎門は反論の言葉を飲んだ。これまで数多のバイト先で言われたことそのものだ。
「新しい職場を見つけたとして、パニック症状を起こしたら、精神科通院のことを話さなければいけなくなります。そうなると職場の人は虎門さんを責めるでしょう「なぜ面接の段階で言わなかった」って」
怒鳴られてクビになるまでが用意に想像できてしまい、虎門は初田の顔を見ることができなかった。
軽いノックの後、ネルが紅茶を運んできた。レモンの輪切りと砂糖ポットを添えてある。
「どうぞ。今日の茶葉はニルギリちゃんなんですよ〜」
「ど、どうも」
ネルが微笑むと、虎門は頬を赤くして縮こまり、ネルが退室してからティーカップを手に取る。
虎門はレモン汁を垂らして紅茶を飲み、表情のこわばりがいくぶん和らいだ。
「まあ、あまり深刻に考えないでください。走るのが得意な人、運動神経が鈍い人がいるのと同じような感じで、対人が苦手な人がいると言うだけの話です。医療においてそれが障害という分類にされているだけのこと。わたしも子どもの頃は異常な子って言われていました」
「異常って、そんなものかぶっているからでは」
わりと辛辣な突っ込みを聞いて、初田は笑いながら紅茶を飲む。
「あははは。さすがに幼い頃からウサギをかぶっているわけじゃないですよ。
わたしとしては普通に生きているつもりなのに、どうしてか、異常だって言われちゃうんですよね。高校のとき、学校の花壇の花をむしってお説教されました」
「流石に、おれでもやっちゃいけないってわかる」
「母の日の贈り物にしようと思っただけなんです。母さんにも学校から話が行って怒られました」
初田はふざけているのではなく、本気だ。虎門は呆れるほかなかった。
「そんなんで医者になれるのか……」
「よく言われます。まあ、こんなわたしでもなんとか社会で生きているんです。
大丈夫です。アスペルガー症候群の特性に向いた仕事とというものも世の中にはあるので、そう悲観することはありません」
頼もしい言葉に、虎門は顔を上げる。
ウサギマスクの向こうがどんな表情をしているかは分からない。けれど、初田が大丈夫だというのなら信じてみてもいいのかもしれないと思った。





