閑話5 初田ハートクリニックに法度が追加されました。
初田がリナの手術のために血液を提供した日。
初田はふらふらの状態で帰宅した。
病院に向かう際は車だったけれど、運転できる状態ではないと本人が判断して運転代行サービスを利用して帰ってきたのだ。
『初田先生、お姉ちゃんを助けて』
数時間前アリスが震える声で電話をしてきて、リナが事故に遭ったことを知った。
運が悪いことに、同日早朝に大けがをした患者が運び込まれていて、その人もまたAB型だった。
リナに輸血するには、病院の血液在庫だけでは足りなかった。
ネルが電話応対しているのを聞いてすぐに病院に駆けつけ、今に至る。
初田はおぼつかない足取りで、玄関扉をくぐった。運転代行の人が帰ってすぐに布マスクを取り、深くため息を吐く。
顔は青白く、呼吸も荒い。
「初斗にいさん、大丈夫?」
「リナさんなら、一命を取り留めましたよ。憎まれ口を叩く元気はあるようなので、大丈夫でしょう」
「それもあるけど、そうじゃなくて……にいさんが」
普段からどこかぼんやりした表情をしているけれど、今の初田はぼんやりというより虚ろだ。
献血もほとんどしたことがないため、血を抜かれることに慣れていない。そんな人間が献血の四百ミリリットルを超える血を失ったのだ。貧血の症状が顕著だった。
「だいじょうぶ、わたしは体が丈夫なのが取り柄……」
一歩踏み出してふらつき、ネルによりかかるように倒れ込んだ。
標準体型とはいえ、初田の身長は一八〇。ネルは重さを支えきれずによろけた。
手を繋いだり手首で脈をとったり、初田に触れられることには慣れている。
けれど、まるで抱きしめられているような感じで、ネルの心音が早くなった。
ネルは父を早くに亡くしているし、恋人もいないから、男性とこんな形でスキンシップをとったことがない。
唐突に、高校の頃同級生から言われたことを思い出す。
『年上の男性と二人暮らしって、意識してドキドキするものじゃないの?』
ネルは初田を恋愛対象として意識したことがなくて、初田もたぶんネルのことを異性として意識していない。
(これはびっくりしただけで、そういうものじゃない、うん)
ネルの戸惑いなどまったく気づかず、初田はのんびりした口調でつぶやく。
「ああ、ネルさんは温かいですね。やっぱりネコみたいだ」
「ネコじゃないよ。初斗にいさんの体温が下がっているだけだよ」
「よしよし。ネコちゃん、お魚食べますか?」
「たべませんーー!」
少年みたいに屈託ない笑顔で、ネルに触れる。
ひんやりした手が、ネコをなでるようにネルの頭や背中をなでる。
くすぐったいしはずかしいし、でもふらふらの初田を突き放すなんてできないし。
ネルはいっぱいいっぱいになった。
二階に上がるのは無理なので、肩を貸して、クリニックにある仮眠室に連れて行く。かなり疲れているみたいで、初田はすぐ眠りについた。
室温を保つため、オイルヒーターの電源を入れる。
医師がこんな状態では新患の応対もできないし、ネルはクリニックの玄関にCLOSEの札を下げ、初田の体調がよくない旨を書いて貼った。
今日はもう予約の患者がいないのが救いだ。
ネルは深呼吸して気持ちを落ち着けながら、夕飯の支度にとりかかる。
心臓に悪いから、早く元気になってもらわないと。
イワシの梅肉煮や牛のしぐれ煮、肉じゃがなど、日々鉄分多めの食事を心がけてもらい、鉄分の吸収を阻害するリン酸を含む食品の摂取はしばらく禁止。
そして紅茶に含まれるタンニンも鉄分吸収の妨げになるので、控えてもらう。
紅茶党の初田は残念そうにしていたが、貧血で頭が回らないのは困ると本人も思っているようで、鉄分強化メニューを受け入れた。
血液提供から一ヶ月経つ頃、ようやく完全なる通常モードの初田に戻った。
ネルをネコ扱いしてなでまわしたことなど、記憶の片隅にすら残っていない様子だ。そもそも血を失ったばかりで頭が回っていなかったから、酔っ払いみたいなものだ。
初田はふだんから一切アルコールを摂取しないけれど、お酒を飲んだら誰彼かまわずネコ扱いしかねない。
理性が働いていない状態の初田が、こんなにたちが悪いなんてネルは知らなかった。
「初斗にいさんは大きな怪我しちゃだめ。お酒を飲むのもだめ」
「出血するような怪我をしたことなんてないですよ。お酒はおいしくないからいらないです」
ネルの判断で、怪我をしてはいけない、酒を飲んではいけないという法度が追加された。
そんなわけで、初田は今日も今日とて患者たちに変だ変だと言われながら、ウサギマスクをかぶってミルクティーをおかわりしている。
閑話5 初田ハートクリニックに法度が追加されました。 終
ケース4 虎門ケンゴの場合 〜失敗だらけのトランプ〜 はASD、アスペルガー症候群のお話です。
社会人になってから判明した場合どうするのかを描いていきます。
本家サイト【森のちはや工房】で終幕してからこちらに持ってきます。
連載開始までしばらくお待ちくださいませ。





