45 壊れたあとも手放せないもの
ゴールデンウィーク間近の金曜日。
クルタ姿のアリスが診察室に入ってきた。
歩御用達のヘアサロンで黒に戻し、十分なケアをしてもらった髪は、ツヤがありなめらか。
ここ最近は固形物も摂取できるようになってきたため、体の調子も良好。
初めて来院した日と比べたら、別人のように生気にあふれていた。
「やあアリスさん。最近顔色がいいね」
「そう言う初田先生はなんかまだ声に元気がないけど、大丈夫?」
「まだ貧血が治らないんだ。女性は月経で毎月こんな感じになっているなんて恐れ入るよ」
「うん、先生は相変わらず意味が分からないことを言うね」
リナの手術のために五百ミリリットル血を失い、ようやく半月が経過したところだ。
造血作用のある食べ物を献立に多めに取り入れるようにしているものの、血液の再生は一日二日ではできない。
最近の初田は貧血気味で、横になっている時間が増えた。
ハチミツ多めのミルクティーに口をつけつつ、初田はアリスの腕を診せてもらう。
「だいぶ治ってきている。もう自分を痛めつけるような真似はしていないね」
「うん。ありがとう。もうしない。歩さんも、悲しくなるからしちゃ駄目だって言うし」
「吐き戻すこともしていないね」
「してない。歩さんがまかないを出してくれるから、ちゃんと食べないと」
きちんと食事を摂取するようになり、アリスの体重は少しずつ正常値に近づきつつある。こけていた頬も適度な肉がついた。
手の甲の吐きタコも、新しい物はない。
「歩の店はアリスさんにすごく合っているんだね。よかった。歩はあの性格だからね、これまで何人かバイト希望がいたけど、一人も定着しなかったんだ」
「そう、なの? 歩さん、すごく話しやすいし面白い人なのに。外国のお客さんが来ても普通にその国の言葉で応対できるのすごいよね。休憩の時にもいろんな国の話してくれてさ。あたし、トルコに行ってみたいかも」
「みんながアリスさんみたいな感性だったら、歩も苦労しなかったろうにね」
テレビでオネェタレントという人が増えたので、最近では息をしやすくなった方だろう。学生時代の歩は本当に生きづらそうにしていた。
変わり者同士で馬が合うのか、初田とはよく話をしてくれた。
初田の感覚は一般人の感覚と違うため、生き物を殺すなどの間違えたことをしそうになると止めてくれる。
大人たちが目を背ける初田の異常性に向き合ってくれた、数少ない人間だった。
可愛い物や美しい物を愛する歩の嗜好、女性のような言葉遣いは同級生たちから揶揄いの対象になった。
男女、気持ち悪い、男のくせに……と言われ続け、歩は学校を休みがちになった。
初田は毎日歩に会いに行き、歩と話をした。
歩も、初田とは違う意味でまわりと感覚が違っていた。
高校を中退して、旅に出て、色んなものを見て、歩はようやく自分らしく生きる道を見つけた。
歩と過ごした日々は、初田が精神科医を目指す一端になっている。
学歴が何であっても、歩もアリスも楽しそうに毎日店をやっている。
「アリスさん。これからも歩と仲良くしてやってくださいね」
「そんな、頼まれなくてもするよ。あたしは歩さんにお世話になりっぱなしだから、ちゃんと恩返ししたい」
「それはよかった」
「初任給が入ったから、歩さんと初田先生にお礼をしたいんだ。初田先生、歩さんが好きなもの知ってる? 高校からの友だちなんでしょ。贈るなら喜んでくれるものがいいから」
人生初の給料を自分のためでなく、初田と歩のために使おうとするあたりがアリスらしい。
「それはアリスさんが自分で考えて選んでください」
「なんで?」
「そうですね……たとえばアリスさんに恋人がいたとして、自分の彼氏が他の女の子に選んでもらったものをプレゼントに持ってきたらどう思います?」
初田のたとえ話に、アリスはピンときていないような顔をする。
「ううん、……普通は嫌、なのかな? あたしモテないし、彼氏なんてできたためしがないから、よくわかんないんだけど」
「一般的には嫌がるそうです」
「あ、そうなんだ。じゃあ自分で歩さんが好きそうなものを考えてみる」
実はワンダーウォーカーは、アリスが働くようになってから若い男性客が増えた。
アリスに言い寄ろうとする男性客がいるが、誰かさんが片っ端から阻止しているため、アリスはまったく気づいていない。
「アタシの目の黒いうちは、娘に近づく不届き者は許さない!」だそうだ。
初田もネルに言い寄ろうとする男がいたら同じようにするので、そこはまあ似たもの同士。
これはおそらく年頃の娘を持つ父親の心持ちだ。
初田はアリスの怪我の治り具合、食事の様子など聞いて書き込み、カルテを閉じる。
「喉も問題なさそうですし、適正体重になって生理が通常通りにくるようになったら、もう来院の必要はないです」
「そっか。先生にはたくさんお世話になったな……。最初はいろいろつっかかってごめんね」
「いえいえ。慣れっこですからお気になさらず」
いきなり一人暮らしが始まってしまったときはどうなることかと思ったが、アリスは楽しそうにしている。
歩がいれば自分を傷つけるような真似はしないし、アリスはもう大丈夫だ。
「そうだ。お姉ちゃんからショートメッセージが来たんだ。五月末には退院できるんだって。落ち着いたら先生に血液提供のお礼、しにくるつもりらしいけど」
「リナさんと、メッセージのやりとりをするようになったんですか」
「うん。顔を合わせるのは嫌だけど、短い文章でなら、感情的にならず落ち着いて打てるね」
ずっとアリスが利用されるだけだった姉妹関係は、リナの事故以降は少しずつ形をかえている。
いがみ合うような憎しみに満ちたものではなく、皐月とリナのような依存する形でもない。
有沢姉妹にとっては、これが一番適度な距離なのかもしれない。
診察が終わって帰り際、アリスはふと振り返って初田に聞いてきた。
「初田先生、お姉ちゃんが病院に運び込まれたときに新しい自分を作るようにいったけれどさ、なんかすごく実感こもってる感じだった。先生も、なにか新しく始めたことがあるの?」
「そうですね。……全部壊れても残ったものが、今ここにあるものです」
平也が殺人事件を起こしたせいで、初田は無名な新米医師から、殺人鬼の弟になってしまった。
元々住んでいた家に投石や張り紙をされ、近所の誰も口をきいてくれなくなった。
母も引っ越しを余儀なくされた。
名字が嘉神から初田になっていても、初田の顔は平也そのもの。双子である事実からは逃げられない。
当時全て理解した上で雇い続けてくれた総合病院の院長には、今も頭が上がらない。
多くの人が初田に石を投げる中、歩は初田の友であることをやめなかった。
顔が同じ人間なんて、世界を探せば三人はいるでしょ? となんてことない風に言う。
アリスを見送り、ネルが空いた紅茶のカップを片付けにきた。
「にいさん、アリスさん元気になってよかったね」
ネルはまるで自分のことのように、アリスの回復を喜ぶ。
もうすぐネルと出会ってまる九年になる。
最近はナルコレプシーの症状も軽くなってきたし、十年経たずとも、ネルはネルの人生を歩める日が来るかもしれない。
回復して、ネルが独り立ちして、医療事務以外の仕事をしたいと言い出したら、初田はそれを止めるすべを持たない。
初田はソファに座ったまま、ネルを見つめる。
もしもこの町の人々に、初田が殺人鬼の弟だと知れたなら、かつて住んでいた地のようにクリニックに石礫を投げ込まれることになる。
こうして穏やかに暮らせるのは、ほんの一瞬の幸せだ。
これが夢ではないと確かめるために、初田は右手を差し出す。
「ネルさんは、いま、ここにいますか?」
ネルは幸せそうに笑い、初田の手に自分の手のひらを乗せる。
「私はずっとここにいる。初斗にいさんが嫌だと言ったって、何度だって言うの。帽子屋と眠りネズミはずっとずっとお茶会をするんだって、初斗にいさんが言ってくれたんじゃない」
ケース3 有沢アリスの場合 ~自傷癖のアリスと美貌のロリーナ~ 終
明日明後日は閑話を更新します。
また19:00頃お会いしましょう。
明日は閑話4 不思議な出会いの連鎖
歩とアリスのお話です。





