40 新しいアリスになるために
休診日である水曜日。
初田は家でのんびりと読書をしていた。精神医学の研究書はかなりの数出版されているため、新しい物が出るたびに購入して目を通す。
そろそろ一冊読み終わるかというタイミングで自宅側のチャイムが鳴った。
普段はネルが応対に出てくれるのだが、あいにくネルは昼寝中だ。
ウサギマスクをかぶって応対に出ると、玄関の前に立っているのはアリスとコウキだった。
「先生アリスを助けて。俺じゃいい案が浮かばないんだ」
「落ち着いてコウキ君。話を聞くからクリニック側にまわっててくれるかな」
切羽詰まった様子に、初田は臨時でクリニックを開けて二人を中に招き入れた。
アリスとコウキが並んで患者用のソファに座り、初田はいつもの席におさまる。
アリスは重たそうな買い物袋を持っていて、中にはかたまり肉や鯖などがつまっていた。
母親に頼まれて買い物……なわけがない。皐月はアリスを毛嫌いしていた。買い物を頼むなんてことをするようには思えなかった。
「それ、どうしたんだい。アリスさん」
「……どこから話せばいいのかな。ええと、あたし昨日この近所に引っ越してきたんだ。あ、一人でだよ。
前の診察のあと、父さんと母さんが、さっさと出てけって言って即日アパートを決めちゃって。それで、お姉ちゃんがさっき、さしいれだってこれを持ってきた」
アリスのためにも家を離れた方がいいと皐月に話しはしたが、即日追い出すなんていう極端な真似をするなんて予想外だった。どれほどアリスを疎んでいたのか。
アリスは中学生以降サラダくらいしか食べなくなったんだと証言したリナが、アリスが絶対に食べられないものを持ってくる。
“アリスに差し入れをした”という事実だけあれば両親に褒めてもらえる、そんなリナの深層心理が透けて見えた。
アリスの言葉がそこで途切れ、コウキが口を開く。
「俺、さっき川辺でアリスと会って道案内してたんだけどさ、アリスの姉さん怖いよ。アリス、拒食症だし家具も家電もないって言ってたんだよ。それなのにこんな物渡すの? しかもスペアキー渡せって金を押しつけてった」
「コウキくん、落ち着いて。あの人は中村さんとは別の人だから、ね」
コウキは、元父親に似た狂気をリナの中にみたのだ。中村秀樹に追い詰められていたときも、こんな顔をしていた。
「鍵を渡さないと拒絶したら、もっとアリスさんを追い詰める行動に出ると思うんだ。だから下手に刺激しない方がいい。
覚えているだろうアリスさん。わたしがリナさんにもう来ないように言ったら、妙な嘘をついてわたしを陥れようとした」
初田に言い寄られたなんて口から出任せを言ったこと、アリスも忘れていない。
眉間にしわを寄せて、こくりとうなずく。
「とりあえず、食べ物はわたしが買い取るよ。そのお金でアリスさんが食べられるものを買うといい」
テーブルの上に並べると、目算で三千円分くらいの食材だ。
肉、魚、天ぷら盛り合わせに焼き鳥……どれもこれも日持ちしない物ばかり。これを善意で渡しているとしたらどうかしている。
初田は財布から五千円出して、アリスに渡す。アリスは申し訳なさそうにしながら、お札を受け取り財布に入れた。
「でも先生、助かるけど、お姉ちゃん絶対、この先何回も来るよ。あたし、鍵を渡すの嫌だよ。せめてよく似た偽物を渡すとか」
「偽物を渡すのは何より危険です。鍵を渡して、鍵穴に入るかどうかリナさんがその場で試したとしましょう。アリスさん、どんな目に遭わされると思いますか」
「……わからない、けど、ろくなことしないと思う」
本物の鍵を渡したら渡したで、まだアリスは自分の支配下にあると認識して、悪意ある贈り物をたくさん持ってくるようになるのは想像に難くない。
どちらにしてもアリスにとって地獄の展開。
アリスもコウキも黙り込んでしまう。
ぱたぱたと軽い足音が近づいてきて、扉が開く。パジャマ姿のネルが顔を出した。
起き抜けだから髪は下ろしたまま。寝癖がついてふわふわしている。
「あら、あららら。……私寝ぼけているのかな、にいさん。今日は水曜日だよね? アリスさんとコウキくんがいるように見えるよ」
「寝ぼけていませんよ。緊急で話があると言われたんだ。二人にホットミルクをお願いできるかな」
「はーい」
ぱたんと軽い音を立てて扉が閉まる。
足音が遠ざかり、コウキが口を開く。
「なんで休みの日なのに根津美さんがいるの?」
「ここに住んでいるからです。ネルさんはわたしの妹みたいなものですから」
「ああ、納得。根津美さんも変な人だもんね。ふたりは似てる」
相変わらずの歯に衣着せない素直な感想に、初田は笑ってしまう。
五分と待たず、ネルがホットミルクをいれて戻ってきた。
「今日は特別に、ハチミツたっぷりですよ~」
「どうも」
「ありがとう」
人肌よりやや熱めのホットミルクがテーブルに並べられる。
アリスとコウキは会釈して、それぞれホットミルクに口をつける。
毎回診察のたびに提供されるから、二人とももう違和感を覚えなくなっているようだ。
「にいさん、こっちのお肉やお魚は」
「アリスさんにいただきました。冷蔵庫に入れておいてください。お昼や夕ご飯で料理しましょう」
「そうなんですね。ありがとうございます、アリスさん。ありがたくいただきますね」
本当はアリスが買ってきたわけではないけれど、アリスは曖昧に笑ってうなずいた。
ネルが食べ物たちを持って退室し、初田は話を元に戻す。
「リナさんがもうアリスさんに会いに来ないようにすれば解決します」
「どうやって? お姉ちゃんはあたしの意見なんて聞いてくれないよ」
「リナさんにではなく、お母さんに話すんですよ」
「なにをどう言えっての? お母さんはあたしのこと嫌ってるよ」
困惑するアリスに、初田は両手を広げ、裏声で答える。
「あたし、ちゃんと生活費を稼げるだけのバイトを見つけたから大丈夫。お父さんとお母さんこれまでたくさん迷惑かけてごめんね。ありがとう。
お姉ちゃんにも迷惑かけたくないから、もうお姉ちゃんきてくれなくていいよ。そうすれば仕事に専念できるよね」
言葉の内容か、それとも初田が裏声を出したことにか、あるいは両方か。
アリスとコウキが口を開けてぽかんとしている。
元の声に戻して、初田は説明する。
「つまりですね。アリスさんのお母さんは、“聞き分けのいい優しい子”がお好き。
リナさんがそう演じてきたように、アリスさんもお母さん好みのいい子の演技をして電話すればいいんです。
お母さんはそれを信じて、“もう私のかわいいリナちゃんがアリスの面倒を見なくてすむのね”と騙されてくれます」
「バイト、決まってないけど」
「ちょうど目の前のセレクトショップが手伝いを募集しているんですよ。
変わり者の店主ですが学歴で人をはかるような人間ではないですし、アリスさんとは気が合うと思います。あとで紹介しますね」
初田に変わり者と言われるなんてどんな人なのか、とアリスの目が言っている。
それでも、姉の襲来を防げる上に仕事も決まるなら、アリスに損はない。
アリスは初田の提案を受け入れ、実行に移すこととなった。
明日も19:00頃更新です。
初田先生がよく読む本はビリー・ミリガンと23の棺(高校のときからの愛読書)
ネルさんが好きな本は14ひきのシリーズ





