36 頼ることと、依存するのは別のこと
皐月はズボンの布を強く握り、視線を落としながら話し始めた。
「アリスが中学一年、リナちゃんが中学三年のとき。夏休みあたりから、アリスが食事を食べ残すようになって。
私がいくら食べるように言っても全然食べてくれなくて、それで、アリスが二年になったとき、アリスにつけていた家庭教師が、リナちゃんに近づくのが目当てだったってわかって……中学三年に上がるころには、アリスの手首は傷だらけだった」
アリスが自虐的で他人を突き放すのは、それが原因だろう。
初田は口を挟まず、カルテに必要なところだけ書き込む。
アリス本人もいじめにあったと言った。中学生くらいの子どもなら、軽い気持ちで人の容姿を貶す。
さらに、家庭教師がアリスを利用していた事実がある。人間不信になるには十分すぎる理由だった。
「病院は、隣町にあるT診療所に行ったの。傷薬をもらったわ。先生にやめろと言われてもアリスは自分の腕を切るのをやめなくて。
高校受験に落ちてからはバイトもせず家にひきこもっていたの。
去年の春頃かな、リナちゃんが心療内科か精神科がいいんじゃない? って提案してくれたの。優しいわよね、忙しい私のためにいろんな病院を調べてくれて」
T診療所は外科・内科の個人病院だ。
傷を診ることはできても、なにが原因でストレスがたまり手首を切るに至ったのかまで調べないかもしれない。そこは心療内科や精神科の領域だ。
傷の手当てだけをされても、ストレスの原因が解消されたわけではないから何度でも自傷を繰り返す。
その結果、安定剤を大量に服用するODに至った。
初田の目には、皐月がリナに依存しすぎているように見えた。
五十八という年齢の割に、自分がないというか頼りない。
アリスは腕組みしたまま、冷ややかな目で母親を見据えている。
「お母さん、忙しいと理由をつけて、なんでもかんでもリナさん任せにしてはいけません。リナさんにはリナさんの人生を歩む権利があるのです。親なら自分で考えて、アリスさんと向き合ってください」
「な、なんでそんなこと言われなきゃならないのよ。反抗して迷惑をかけてばかりのアリスより、リナちゃんを可愛く思って大切にするのは悪いことなの?」
「限度というものがあります。例えばリナさんが結婚して家を出た後、自分の家庭を持った後にもずっとそうやってリナさんによりかかるつもりですか?」
皐月は迷子になった幼子のような顔で目尻に涙をためた。
おそらく皐月は、誰かに頼らずには生きられないタイプの人間だ。
そして、自己愛性パーソナリティ障害のリナとはある意味で相性がよかった。
愛され必要とされることを喜びとする気質のリナ、異常なほどリナに依存する皐月。
「リナちゃんが家を出るなんて、そんなことないはずよ。リナちゃんなら結婚後も家にいてくれるわ」
「本人たちがそうしたいなら止めないんですけどね。お母さんとリナさんがそのつもりなら、アリスさんは実家を離れた方がいいでしょう」
自分に話題が戻り、アリスが居住まいを正した。
「初田先生。家を出なさいって言っても、あたし、仕事してないしお金もないよ」
「大丈夫ですよアリスさん。今すぐにというわけではありません。……いいですか、お母さん。診察の結果、アリスさんは一人暮らしした方がストレスを抱えずにすむタイプの人だと判断しました。
そうすれば自傷行為は格段に減るし、食事をきちんと摂れるようになる。食事を摂って体が回復すれば、働きに出るだけの体力も作れます」
アリスに対してはリナほど執着してないようで、皐月はいやにあっさりうなずいた。
「そうね。とっても素敵な提案だと思うわ。ずっと家にいても駄目なら、アリスは一度働きに出て世間を知った方がいいと思うわ。
さっきは疑ってごめんなさいね先生。あなたいい先生ね。帰ったらさっそく夫にも話すわ」
その顔には、厄介払いできてせいせいしたと書いてある。
アリスもリナも娘だろうに、アリスの方はそんなに愛していないのだろうか。気に入りの片方にだけ愛を注ぐ……皐月の愛情はとてもゆがんでいた。
まるで幼児だ。
アリスも、母に愛されていないのを感づいていた。
リナが家を出るのは嫌だと言い張ったのに、アリスのことを簡単に手放そうとする皐月の態度を見て、母親から視線をそらした。
「ご家族から話を聞くのはこれで最後です。アリスさん、次回からは一人で来てください」
「……わかった」
「お母さんのお話は聞き終わりましたので、これで退室していただいてけっこうです。アリスさんにはまだお話があるので残ってください」
皐月が退室してから、初田は緊張の糸が切れたように、ソファに崩れ落ちた。足を伸ばして、背もたれにだらりと体を預ける。
ぬるくなった紅茶をあおってマスクを取る。
傷なんてない、整った顔が現れた。
「はー、アリスさんのお家はお母さんも大変癖が強い人なんですね」
「先生もじゅうぶん癖が強いから安心しなよ」
秒速で切り返される毒舌に、初田は腹を抱えて笑う。
「そうでしょう、そうでしょう。わたし、三歳の時点で変と言われていましたし、研修医時代のあだ名はマッドハッターだったんですよ」
「精神科医でも自虐ってするものなの」
「自虐じゃありません。事実です。わたしは特徴のないその他大勢ではないでしょ」
「誰もが振り返る変人だね。ウサギ頭だし」
ひとしきり笑った後、初田はアリスに言う。
「家族がいない環境のほうが、アリスさんは自分らしく生きられるというのも事実ですよ。世帯が分かれてしまえば、有沢なんてありふれた名字ですからね。有沢リナの妹という重荷を背負わなくてよくなります」
「そう、かな」
「そうですとも。根津美さんが言ったでしょう。アリスさんがすごくかっこいいって。姉のオマケでなく、アリスさん単品で見てくれる人と付き合えたら、あなたの人生はよい方向に動きます」
母親に見限られたばかりなのに、アリスは絶望しなかった。
もうリナの引き立て役にならなくていい。その事実を喜んだ。





