33 大嫌いな存在と、大切な存在
本日最後の患者が帰り、初田はマスクを取って二階の居住スペースに移動する。
一足先に戻っていたネルが鼻歌をうたい、おたまで鍋の灰汁をすくう。
「初斗にいさん、お風呂沸いてるよ。ご飯ができる前に入ってきたら?」
「ありがとう、ネルさん。そうさせてもらうよ」
いつもならネルと手分けして夕食を作るが、今日はネルの厚意に甘えることにした。
浴室に入って向かいには鏡が備え付けられている。
初田は鏡から目をそらす。自分でも平也じゃないかと思うくらい同じ顔で、嫌になる。
ネルが駅前で平也と遭遇してから、かなりの日数が経っていた。
あのあと警察に目撃情報を提供したはいいものの、平也は全く捕まる気配がなかった。
どこにいるかもわからないのに、鏡を見ればいつもそこに平也の顔があるのだ。
我慢ならず、拳で鏡像を叩いた。
じん、と痛みが広がる。
シャワーのレバーを引いて、苛立った気分ごと洗い流す。
まだ両親が離婚していなかった頃、平也は初田にいつも言っていた。
「俺と同類のくせに、良い子のふりしやがって。自分は平也と違ってまともですとでも言いたいんだろ。ほんと、死んでほしいくらいむかつく」
良い子のふりではなく、迫害されないよう一般人の常識に合わせて生きているだけ。
平也はそんな初田のことを毛嫌いした。
そして初田も、平也の言動を不快に思っていた。
「それはよかった。ぼくも兄さんのことなんて大嫌いだから」
両親の離婚が決まったとき、母について行くと決めた理由はただ一つ。
平也が父について行くと言ったからだ。平也が母についていくと言ったなら、父について行った。
双子って一緒にいることが多いんでしょうとか、仲がいいんでしょうと、よく聞かれたがとんでもない。
初田は平也のことを心底嫌いだった。
平也の言葉を借りるわけではないが、消えてほしいと思うほど嫌いだ。
遊びで虫や小動物を解体するのは、正常な人間がすることではない。ましてや、平也は人間、それも父親を殺してバラバラにしたのだ。
そんな平也と同じ人種じゃないかと、顔を見ただけで判断される屈辱。誰が理解できるだろう。
だからアリスを見ていて、自分と正反対の鏡を見ているような気分になった。
殺人犯の兄がいるせいで蔑まれてきた初田。
美貌の姉がいるせいで笑いものにされてきたアリス。
アリスがどれだけ姉を苦手としているか、見ただけで分かってしまった。
鏡に映る自分をにらみ、初田は爪が食い込むくらい拳を握りしめる。
一人暮らしだったら、怒りにまかせて鏡を叩き割っていたかもしれない。
鏡を見ていたくなくて、さっさと髪と体を洗い浴槽に体を沈める。
浴槽の上に位置する出窓は奥行き十五センチほどで、物を置けるようになっている。
すりガラスの前には、ネルのお気に入りのバスボムから出てくる動物が並ぶ。
ネズミにウサギにインコ、カメ、ネコ。
手作りのテーブルも追加されていて、動物たちがティーパーティーをしているように見える。
ネルの中ではそれぞれに名前と役割設定があるようで、ちょっと前にいたずら心でメンバーを並び替えたらむくれてしまった。
初田にはとくに物を集めるような趣味もないため、ネルのこういう無邪気さは微笑ましく思う。
キッチンの調味料ケースに、ネコ耳やウサ耳のキャップがくっついている。
院内の観葉植物の根元に陶器の動物が飾り付けてある。
ネルがいなかったら飾り気のない、殺風景な家とクリニックだったんだろうと容易に想像がつく。
「ネルちゃんって、天然入っているけど話しやすいし良い子よね」と、来院する患者にも好評だ。
風呂上がりにダイニングキッチンに行くと、ちょうど料理ができあがるところだった。
牛のすき煮、浅漬け、焼きおにぎり。それからネギの味噌汁。
おにぎりしか作れなかった十五歳のときから考えると飛躍的に料理の腕が上がっている。
料理を任せてしまったから、後片付けは初田が引き受けた。
普段ならネルがお風呂に入る時間だが、今日ははんてんを着たままダイニングのテーブルについている。
もうとっくに箸使いは直っているのに、ひよこのトレーニングセットを出してきてひよこ一家を一羽ずつ並べている。
ネルが入浴をしないのは、生理がきているときだけ。
お湯を汚したくない、と数日間足湯と蒸しタオルで済ませる。
九年も一緒にいるから、ネルが口にしなくとも行動パターンで把握できる。
「ネルさん、お腹にカイロを貼らなくて大丈夫ですか。冷えは大敵ですよ」
「きらしちゃったの」
「ではこれをどうぞ。今朝母さんが持ってきたんです」
寝室にも暖房があるとはいえ、腹部や手足は冷えるもの。初音が編み物教室で学んだと言って、アームウォーマーとレッグウォーマーをくれた。ピンクと薄紫のボーダー柄。
初田が小学生の頃、「娘も欲しかったけれど、子宮の病気になって諦めるしかなかった」と言っていた。だからか、こうしてちょくちょくネルに手作りのものや服をくれる。
ウール百パーセントのもこもこをつけたネルは満面の笑みだ。
「かわいい。あったかい。あとで初音さんにお礼言わなきゃ」
「そうしてください。明日、仕事中に気分が悪くなるようなら、いつでも休んでくれてかまわないですからね」
「だいじょうぶ。白兎先生が痛み止めを処方してくれたから」
白兎は長い間主治医を務めてくれているだけあり、ネルの生理のタイミングを見越して薬を出してくれる。
コーヒーを勧めてきさえしなければいい医師でいい先輩だ。
アリスは、標準体重に戻れば生理が戻る可能性がある。今よりももっと痩せてしまった場合、更年期障害のような症状がでてきてしまう。そうなる前に、少しでも何か食べてもらわないといけない。
「ネルさんは、これまでダイエットをしたいと思ったことはありますか?」
「ううん。ナルコレプシーをどうにかするので精一杯で、それどころじゃなかったから」
数秒の間も置かずにネルは答えた。
病気と向き合うのを最優先にしてきたから、痩せて綺麗になりたいなんて考える暇もなかった。
「アリスさんのこと? お姉さんがモデルさんなら、劣等感をもつのも仕方ないと思うの。どうしたってくらべられちゃうから。アリスさんだってすごくきれいなのにね」
「そうかい」
「うん。鼻筋が通っているし、ミリタリージャケットとか、ダメージジーンズとか、かっこいい服が似合いそう」
初田には女性ファッションのことなどわからないが、ネルが言うならそうなのだろう。
リナと似合う物の方向性が違うだけで、アリスにはアリスの良さがある。
「それ、次にアリスさんが来たとき本人に伝えてあげてください。ネルさんの言葉なら素直に受け止めてくれそうです」
「にいさんだと駄目なの?」
「ええ。私の言うことに食ってかかってくるので。手負いの獣みたいで面白いですね」
「それ、絶対本人に言っちゃ駄目」
褒めているつもりで言ったのに、ネルに全力で止められてしまった。





