31 心優しくて、誰からも愛される姉
アリスは自分の手を伸ばそうとして、ためらった。
「ほんとうに、あたしはちゃんと生きられるの?」
「あなたが望むのならば」
アリスの顔色は青白く、腕も骨の形が分かるほどに細い。手の皮膚はひびとあかぎれでガサガサ。爪は紫がかっていて、ところどころ割れていた。
「生理がこなくなった以外に、自覚している症状はあるかな」
「さあ?」
「階段を上ったり、ちょっと走っただけで息苦しくならない?」
「ふん。……見てきたみたいに言うのね。腹立つわ」
素っ気ない態度だが、一応初田の質問に返事はしてくれるので治療に応じる気は少なからずあるようだ。カルテにアリスの状態をつぶさに書き込む。
初田に勢いで言い返したことも考えると、栄養失調ゆえに苛立ちやすい状態になっていることがわかる。
「アリスさん。綺麗になりたいという気持ちを否定はしないが、今の君は生命を維持することすら危うい状態なんだ。これ以上痩せてはいけない。生命活動維持に必要な栄養を取ってほしい」
「でも……」
「お姉さんと自分を比較して劣等感を抱いてしまうのもわかるけれど、人は人。アリスさんは自分の道を進めばいいんです」
自分は自分、と言われてもそう簡単に長年抱えてきたコンプレックスを消し去るなんてできない。アリスは傷だらけの手を見下ろして、顔をゆがめる。
「あたしは、こんなの嫌よ。もっと、きれいになりたいって思うのは悪いこと!?」
「あなたがやっているのは、きれいになる方法ではありません。自分の体を痛めつけているだけです。これまでの病院で処方された薬も全部処分してください。持っていると絶対、また一気飲みするでしょう。あなたの症状に合わせて、必要な分だけ処方しますから」
初田は自分の腕にペンを当てて、アリスに説明する。
「リストカットや自分の腕にたばこの火を押し当てる行為はね、ストレスを吐き出す先が他にないからやってしまうものだと言われている。結婚して伴侶に大切にされることで、自傷が減ったという例もある。
アリスさん、悩みを相談できる友だちはいるかい? 一緒にカラオケに行くような人でもいい。自分を傷つける以外の方法で、胸の内に抱えたものを解消できるなら、それが望ましい」
「こんな女に友だちがいるように見える? あたしならこんな愛想なしで心も不細工なやつと友だちにならないわ」
アリスは自分を手のひらで示して嘲笑う。その顔は、心底自分が嫌いだと言っている。
コンプレックスを抱えて生きる時間が長かったから、かなり思考がネガティブだ。
「まずは自嘲する癖を直そうか。アリスさん。言霊って知っているかい」
「なに、それ? もしかしてここってスピリチュアル系で変なものを売りつける場所だったりする?」
かなり偏見があるようなので、初田は苦笑する。
「なにも売っていませんよ。ようは、“自分はやればできる子、すごい”と自分に言い聞かせるんです。自分は駄目だと思い込むと、本当になにをやってもうまくいかなくなるものです。わたしだって誰もほめてくれないなら、自分に言いますよ。『朝ご飯を残さず食べていて偉い』って」
「気合いでなんとかなるなら病院って存在しないんじゃない」
「ははは。アリスさんはへりくつが好きなんですね。童話のアリスとおんなじだ」
アリスの口からは次々と否定する言葉が飛び出す。
「かわいげが無いって言いたいんでしょ。お姉ちゃんは優しくて素直で良い子なのにねって耳タコよ」
「外見は痩せて綺麗になりたいのに、内面は綺麗になりたいって思わないんですね」
「あたしの心は綺麗じゃないって?」
「さっき自分で言ったんじゃないですか。心が不細工だって」
辛辣な初田の返しに、アリスもムキになる。
アリスが言い返すのを、初田は割と楽しんでいた。
ずっと無言で反応がないより、言いたいことを言ってもらえた方が内面を見ることができるし、治療が捗るのだ。
とはいえ、初田にここまで食ってかかる人間はかなり珍しい。大体の人間は、「変なやつだ」と呆れて会話をやめてしまう。
これまで腹の内をぶつける先がなかった分を、今こうして初田にぶちまけている。
「ほんっとサイテー。ふつう、患者に向かって心が綺麗じゃないってハッキリ言う? 変人って噂は本当だったのね」
「お褒めにあずかり光栄です。わたし、素直なところが取り柄なんです」
「褒めてないわよ」
こうして対話をすると、アリスは本来ハキハキとものを言える性格だとわかる。リナの前だとかなり縮こまっているが。家ではどのような生活を送っているのか気になった。
「それじゃあ、次はお姉さんから話を聞こうか」
「なんで?」
「アリスさん本人の口からじゃわからないことを聞かないといけません。アリスさん自身が気づけていないような症状が、同居している家族にならわかるでしょう。話を聞く間、アリスさんは待合室に出ていてください」
初田はウサギマスクをかぶり直して、待合室に声をかける。
「リナさん。普段のアリスさんの症状を聞かせてください」
雑誌を読んでいたリナは、顔を上げて応じた。
入れ替わるように、アリスが待合室に出た。
リナは診察室のソファに腰を落ち着けて、まっすぐ初田を見る。
「それでは、教えていただけますか。アリスさんの自傷行為や嘔吐癖が始まったのは何歳の頃からでしょうか」
「中学二年に上がる頃には、もう腕に傷があったように思うわ。あの頃アリスはぽっちゃりさんでね。アリスは自分はお姉ちゃんみたいに綺麗じゃないからって、サラダ以外なにも食べなくなっちゃったの。私は、ちゃんと食べるようにって何度も言ったんだけど、聞いてくれなくて。今ではあんな感じで。姉さんは心配よ」
心配だという言葉に反して、顔に浮かぶのは微笑み。
本当に家族を心配する人間は、コウキの母、礼美のように「薬を飲めば治りますか」「どうすればよくなりますか」と畳みかけるように聞いてくるものだ。
リナはアリスの具合がよくなるかどうか、なにも聞いてこない。
「中学生の頃、病院には連れて行かなかったのですか」
「さあ。アリスが中学生の頃は、私もまだ高校生ですからそのあたりの決定権はありません。両親が連れて行ったんじゃないかしら」
「そうですか。では次回来院するときには、ご両親のどちらかに同行していただきたい」
たしかに、二歳差なら当時のリナはまだ学生。もっと詳しく当時のことを聞くには両親でないといけない。初田の提案を、リナはやんわり断った。
「いいえ。アリスの通院で父さんと母さんの手を煩わせるなんて可哀想よ。二人とも働いているの」
「なら、なぜあなたは今日、アリスさんの付き添いをしているのですか。あなたにもお仕事があるのでしょう」
初田の疑問に、リナは微笑みを浮かべたまま返した。
「だって、一人で来たら可哀想でしょう。だから今日だけお休みをもらったの。先方も理解してくれたわ。妹さんを大切にしていて優しいですねと言ってくださって」
言葉の裏に潜むものを、初田は感じ取った。
リナという女性は、「病んでしまった可哀想な妹の身を案じる、美しくて心優しいお姉さんだ」と、賞賛されたいのだ。初田に対しても褒めてほしそうなそぶりが見え隠れしている。
リナは、自己愛性パーソナリティ障害と呼ばれる人格障害だと、初田は判断した。
自分が愛され賞賛されるために、自分より格下だと判断したものを利用する傾向がまさにそれだ。
このままリナがいる環境で暮らすのは、アリスにとって毒にしかならない。
初田はもう一度繰り返した。
「お父さんでもお母さんでもかまいません。仕事がお忙しいのなら、仕事が休みの日に通院日が来るよう調整します。本当にアリスさんの身を案じるのなら、次回の同行は親御さんにお願いします」





