銀のしずく☆二百三高地
☆1☆
山と畑以外は何も無い。
貧しい寒村に生まれたわたしは、十になると花街に売られ、芸妓の元で作法を教わり、十三で初めて客を取った。
控えめで従順なわたしは上客に気に入られ、そのツテで京の遊郭で働くことになった。
店の姐さんの薦めで、わたしは舞妓の道に進んだ。
芸妓を続けても夜鷹になるのがオチだ。
と、姐さんにさとされたからだ。
従順そうに見えて、頑固なわたしは、師匠の厳しい稽古にも音をあげず、歯を食いしばって耐えた。
不味い芸をしようものなら、すかさず扇子で叩かれた。
青アザの一つや二つは当たり前だった。
努力の甲斐あって、少しずつ舞妓としての名があがった。
名指しする客も増えてきた。
虚しくも、軽やかな日々が続いた。
そんなある日、桜の咲く穏やかな春の夕暮れ時に、一人の風変わりな客が店に迷い込んできた。
☆2☆
真新しいカーキ色の軍服に身を包んだ日本兵だ。
細身の身体に綺麗な顔つきをした、軍人らしからぬ若者だった。
彼はわたしを名指しした。
わたしは彼を東の小部屋へ案内し、二人で火鉢を囲んだ。
四月にしては肌寒い日が続いていた。
わたしは冷やにするか熱燗にするか尋ねた。
少しの間を置いて、彼は冷やを注文した。
京の遊郭でも格式高い、一見さんお断りのこの店も、時勢には逆らえない。
清に勝利し、日の出の勢いの軍人様を無下に扱うことは出来ない。
彼の端正な横顔が、ほんのりと紅く染まる。
繊細な指先がつまむ徳利に、わたしは酒を注いだ。
やがて、ぽつりぽつりと、自分の身の上を語りだした。
☆3☆
彼は京都画学校の学生で、日本画を専攻していた。
年は三つ上だった。
二月にロシアとの開戦に踏み切った帝国陸軍は、兵力増強の為、広く民間から徴兵を行った。
学卒の彼は、上等兵として五月に日本陸軍・第二師団と合流し大韓国の南山を目指すことになった。
一週間後に出発する予定だが、その前から帝国軍人として、兵服の着用を命じられていた。
道理で軍服が似合わないわけだ。
およそ、軍人くささが欠如している。
欠片も感じられない。
その姿のまま、舞台に上がったほうが、よっぽど様になると思った。
☆4☆
彼がわたしを見初めたのは画題を探しに京川の土手を散策した折りだった。
わたしは琴の稽古の行き帰りに、その道を通っていた。
琴の師匠、遥先生にしごかれて、疲弊しきったわたしは、さぞや、ぼんやりしていただろうに。
なぜか、ふらふらしたわたしも、彼にとっては蝶か花のように見えたらしい。
徴兵が決まってからは居ても立ってもいられなくなり、一目でもわたしに会いたいと、兵服のまま遊郭に飛び込んだらしい。
客の中には時折そんな客がいる。
恋に恋する客だ。
ただ、画学生上がりの上等兵は初めてだった。
☆5☆
わたしはそれほど口数が多いほうではない。
自然と話を交わすより肌を交わすほうが多くなる。
客によっては、芸事を求める場合もあるけれど、それは稀だ。
彼は後者だった。
わたしに舞妓としての舞いを求めた。
お囃子は必要ない、と言った。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、大和撫子、とまではいかないが、それなりにわたしも修練は積んでいる。
夜桜の下、踊るのも悪くない。
そう思ったわたしは、窓を開け放った。
すると、降りしきる桜の花びらが、風に乗って室内に舞い込んできた。
しだれ桜だ。
遊郭の外堀に植えてある。
その先には、妖艶な三日月が赤い口を広げていた。
わたしは滑らかに動きだした。
桜の花びらとともに、舞い踊る。
そうしたら彼は、もっとゆっくり踊ってくれ、と注文を付けてきた。
そうでないと覚えられない。
とか何とか。
眼に焼き付けていつでも思い出せるようにしたい。
と言った。
彼の瞳がジッとわたしを見る。
普通に踊っていても、実は見た目以上に気力と体力を消耗する。
踊っている当人は優雅でも、美しくもない。
かなり必死だ。
けど…時には我がままな客もいる。
わたしは舞い散る桜より、ゆったりと、もったりと、踊った。
正直、普通に踊るよりきつい。
腰がくだけそうになる。
二の腕、指先、太もも、ふくらはぎ、すべてが引きつってツリそうだ。
苦悶しながら彼に笑みを浮かべ、流し目を送る。
いい加減満足しろ。
もう充分だろう。
その晩わたしは疲れてぐっすりと眠りこけてしまった。
画学生というのは、みんなこうなのだろうか?
☆6☆
目覚めると赤襦袢が激しく乱れていた。
すでに兵服の詰襟をきっちりと着こなした彼が、白手袋をはめた手で、はだけたわたしの胸元を合わせてくれた。
同じく、寝癖で乱れた髪にしなやかな指先を通して、くしゃり、とからめ、優しくすくい上げた。
わたしの前髪を撫で、額を露にすると唇を押し付けてきた。
ありがとう、と囁き、音も無く立ち上がった。
彼はこんなに上背があっただろうか?
こんなに広い背中だっただろうか?
何故か、わたしの胸の動悸が早くなった。
顔がほてって熱っぽかった。
きっと風邪だ。
窓を開けて踊ったせいに違いない。
☆7☆
夜毎、彼の夢を見た。
別の男と寝ている時も浮かんでくるのは彼の優しげな眼差しだけだった。
☆8☆
一週間後。
京都駅は徴兵された兵士と見送りの民間人で溢れかえっていた。
至る所にカーキ色の軍服が目立った。
その一人に彼の姿があった。
汽車に乗り込む彼を、わたしは遠くから見詰める他なかった。
彼の親類縁者が日の丸の旗を振りかざし、声高に万歳、万歳、と叫んでいた。
やがて列車は軋む車輪とともに汽笛をあげ、走り出した。
同時にわたしも走り出した。
汽車に並んでわたしは走った。
生まれて初めて全力疾走した。
わたしは叫んだ。
上等兵、上等兵、と、上手く声が届くか分からない。
でも、前方の窓が開いた。
彼が半身を乗り出し、わたしに手を振った。
わたしも両手を上げて手を振った。
おかげで盛大にバランスを崩し、わたしは派手に転倒した。
汽車は速度を増して、煤煙をたなびかせながらレールの彼方へと消え去った。
☆9☆
日清戦争、日露戦争、どちらもわたしには関係ない。
男が勝手に起こした勝手な戦争だと思っていた。
領土を広げ、富を吸い上げ、世界を我が物とする?
本気で言っているのか?
今までその手の野望を抱いた国、世界に覇を唱えた国家は幾万あっても、一時的に栄えはしても、最後は全て衰退し滅んでいった。
千年王国、王権?
そんなものはありはしない。
ローマ、イタリア、イギリス、アメリカですら、いつかは新たな国家の支配下におかれる時がくる。
老いた虎は若い虎に決して勝てはしない。
世代交代は必ず起きる。
それに気付かず、いつまでも戦えると錯覚するのは、狂気の沙汰だ。
☆10☆
わたしは戦争のことを調べ始めた。
世界のことを調べ始めた。
彼は今、世界の何処かで戦っている。
わたしも、わたしの戦いを始めるのだ。
遊郭に入った時から稽古の一つとして、わたしは書道を学んでいた。
難しい漢字は無理でも新聞程度なら難なく読める。
が、徒労に終わった。
新聞は戦勝記事しか載せない。
戦意高揚の美辞麗句を並べたてているだけだ。
クソの役にも立ちはしない。
軍部の手の平の上で踊る繰り人形。
あるいは、鎖で繋がれた猿同然だ。
一部の雑誌が真実をすっぱ抜いても、大半は発禁処分、もしくは大逆罪で編集者はみんな逮捕され獄中で獄死した。
軍部によって全ての情報が統制下に置かれた。
☆11☆
幸い遊郭には大物の政治家、官僚、軍上層部の連中が頻繁に訪れた。
普段口の固いこういった連中も、酒に酔って、ねやをともにすると急に口が軽くなる。
わたしは慎重に、相手に怪しまれないように、密かに戦争について尋ねた。
やがて、驚愕の事実が次々と明らかになった。
☆12☆
1904年(明治37年)2月8日。
ロシア旅順艦隊に日本海軍が奇襲攻撃を仕掛けるも戦果は無かった。
同年、5月までの旅順港閉塞作戦は失敗に終わった。
同年、5月26日、南山の戦いで日本陸軍・第二軍が死傷者4000の損害を受け、大本営も一桁間違っているのでは?
と驚愕した。
さらに、にわか造りの陣地、南山とは違い、本格的な要塞である、旅順要塞を日本陸軍・第三軍が、9月19日、10月26日の二回に分けて総攻撃を行ったにもかかわらず、失敗に終わった。
加えて、ロシア旅順艦隊の主力が引きこもる旅順港の海域を一望出来る203高地の無謀な攻略を始めようとしていた。
203高地は戦略的意義は毛ほども無い。
攻略の問題点は、
移動に時間がかかり迎撃を被る不利な地である。
ロシア旅順艦隊は黄海海戦、コルサコフ海戦で出撃出来ない損害を受けていた。
すでに港を観測出来る地点は他にいくらでもあった。
艦隊を殲滅しても旅順要塞は降伏しない。
降伏しない限り要塞正面からの消耗戦しかない。
などの理由による。
満州軍総司令官、大山巌。
総参謀長、児玉源太郎。
現地軍、第三司令官、乃木希典らは、203高地攻撃要請を却下し続けた。
にもかかわらず、大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針変更を即し、圧力に屈した乃木は11月28日に203高地攻撃を開始した。
一進一退の激戦を繰り返し多大な犠牲と引き換えに、12月5日、ついに203高地を陥落。
翌年、1月1日に旅順要塞が降伏した。
☆13☆
彼との別れから一年が過ぎた。
戦争は徐々に収束に向かっている。
ロシア軍バルチック艦隊が本土を目指している。
不穏なニュースはそれぐらいしか無かったはずだ。
目の前に座る、この負傷兵を除いては。
右足を失い、右目も潰れている。
隻足隻眼、四十がらみの男だった。
男が懐から何か取り出した。
床にそれを置く。
御守りだった。
わたしはそれを受け取った。
男が彼の最後を語った。
御守りは203高地、突撃前に男が彼から渡された物だった。
生きて帰れたら、京の遊郭にいる彼女に渡して欲しい、そう彼は言った。
男が203高地に突撃した際、敵の榴弾砲、つまり、大砲が男の右方前方で炸裂し、吹き飛ばされた。
朦朧とする意識の中、男を引き摺り、見方の陣地まで運び塹壕に放り込んだのは彼だった。
すぐさま敵地に向かおうとする彼の胸元に、赤紫色の火花が散った。
そして、壊れた人形のように塹壕に転がり落ちた。
倒れた彼を調べると、胸元に赤黒い血がべっとりと広がり、すでに事切れていた。
即死だった。
赤い夕陽に染まる遊郭の一室に、わたしを残して男は去った。
御守りの中には、生き写しのような、わたしの似姿が描かれていた。
あの晩、彼の前で踊った、わたしの姿がそこにあった。
☆14☆
今夜は美しい三日月だった。
わたしは京川の土手の桜並木を散策した。
立ち止まって空を見上げる。
満開の桜の花びらが、ゆっくりと周囲を舞っていた。
わたしは気息を整える。
深く吸い込み、長く吐く。ゆったりと拍子を取る。
中腰から、すり足で円を描く。
ゆっくりと、彼に言われたように、ゆっくりと、舞い始める。
今日の桜は、わたしに合わせるかのように、ゆっくりと花が散っていた。
わたしは花の隙を縫うように、ゆっくりと軽やかに踊りながら、緩慢に歩を進める。
緩やかに指先を伸ばし、流麗に優しく旋回する。
口許の扇を胸元に、可憐に落とし、優雅に、典雅に、艶然と微笑む、流し目を送る…。
銀のしずくが、ゆっくりと、ゆっくりと、わたしのほほを伝い流れ落ちた。
☆完☆