文明開化の足元 志津香の手紙
芳乃様
芳乃様、覚えていらっしゃるでしょうか、私達が初めて言葉を交わした日の事を、あれは藤の花たおやかな初夏の日でございました。白い光を受けて微笑む、音楽の女神の覚えめでたき芳乃様、予てから敬愛して止まないその可愛らしい笑窪を浮かべる芳乃様に計らずもお声をかけていただいたあの日。
あの日私に降りかかった怪奇を初めてお伝えいたします。どうかどうか、気味の悪い子だとお嫌いにならないでくださいまし。
私は、舞い上がっておりました。お美しい芳乃様とお話できて、それまでは音楽室のドアの小窓をこっそり覗くことしかできなかったのですから。芳乃様にお声をかけていただいて、少女歌劇の贔屓が同じだと知って、私がどれほど胸高鳴らせたか、きっと芳乃様にはわからないでしょう。
芳乃様との法悦の時間は光のようにすぎ、私達は夏の長い日が暮れそうな中急いで帰らねばなりませんでした。芳乃様は馬車にお乗り込みになられて、私はそれを見送らせていただいて、私のお美しい芳乃様を乗せた馬車は、春を奪う神馬のように感じたものです。
私は、自宅まで歩くのが常ですが、時間も遅いので路面電車を使うことにいたしました。一昨年の末に乗合馬車から変わったころりとした木作りの可愛らしい電車です。
珍しく他にお客はなく、二つほど後の駅で白髪のお婆さんが乗り込んできました。
その時期には珍しく日中はからりとした爽やかな暑い日でしたのに、その時間、電車の外は嫌に靄が出ていて車掌さんも前を見にくそうにしていました。暫くすると、窓が曇ってしまって、次の駅で電車は止まってしまいました。私は時間も遅いし天気も悪いとくれば、うちの爺やかお手伝いさんかが迎えに最寄りの駅まで来てくれているのではと期待して、電車が出るのを待ちました。
ふと、一緒に乗っていたお婆さんを見ると、乾いた唇に朽木の枝のような指をあてて、しぃ、と合図をするのです。私、なんとなく両手で口を塞いでしまって、それに一拍おいて曇った窓ガラス一面に人の顔型が浮かび上がりました。本当に今思い出しても鳥肌が立ちます。あの時、口を塞いでいたとはいえ、叫びださなかった自分を褒めてあげたいくらいでございます。壮絶と言うのでしょうか、一瞬にして浮かび上がった数々の苦悶の表情。怖ろしいのなんの、例えようもございません。叫ばなかったものの、すっかり腰を抜かしてしまった私は震えるばかりでしたが、気づけば白髪のお婆さんは数珠を擦りなにやら経を読んでいるようでした。そうすると顔型はゆっくり見えなくなっていき、靄も晴れ薄明かりの夕焼けの太陽の残り日が柔らかに辺りを包んでおりました。
怖ろしくて怖ろしくて、お婆さんに肩を叩かれるまで放心しておりまして自分が泣いていることにも気が付かなかったくらいでございます。お清めの塩を手や肩や膝に振られ、お婆さんの手を借りてそっとその電車を降りました。
まともに歩くこともできない私は、待合室に座り人力車を待っていました。若い駅員さんに近くに空いている車夫さんがいないか呼んできてもらうことにしたのです。
その間、お婆さんはなにやら駅長さんと話し込んでいて、駅長さんはずいぶん困ってしまっているようでした。
少しすると、若い駅員さんが車を手配してくださり、私は駅員さんに手伝ってもらい、人力車に乗り込み、家の前まで走ってもらうことにしたのです。私が靴を脱いだのは、辺りがぬばたまの闇に飲み込まれるほんの少し前でございました。
あとから聞いた話では、その駅は基礎工事の不備と理由をつけて、線路の下を深く掘り返したとのことです。そこからは、されこうべが山のように出てきたそうで、なんでも昔々、江戸の初めの頃にはお寺があったとか、そのお寺は無縁仏も供養していたとのことです。
時代が巡っていつもいつも重たい電車に潰されては、故人もさぞ窮屈な思いをしていたでしょう、お骨は然るべきお寺に移され、然るべき供養がされたとのことです。けれども、私は二度と路面電車で乗るような勇気はございませんでした。
あぁ、芳乃様、こんな話をごめんなさい。怖がらせてしまったかしら、けれどもまたあの季節が巡ってきます。百合も薔薇も美しく輝かしい季節ですのに、思い出して胸騒ぎがするのです。どうかどうか、芳乃様はあのような怖ろしい思いをしないよう私は願っております。
志津香