ドラフトの風
プロ野球選手になるにはドラフト会議で指名されなければならない。高校や大学、社会人野球などで活躍してスカウトの目に留まり、選手の伸びしろやチーム状況などを判断した上で「君が欲しい」と伝えられる。大変名誉なことであり、プロを目指している選手にとってのとりあえずのゴールである。
毎年必ず一人か二人は大きく話題になる選手がいる。甲子園を沸かせたスターや最速百五十何キロの大学ナンバーワン投手などだ。そんな選手はたいていの場合ドラフト上位で指名され、獲得した球団は勝ち組などと言われ羨ましがられる。
俺がプロになったときのドラフトでもそんな選手がいた。志賀翼さん。志賀さんは当時大学ビッグスリーと呼ばれた大物選手のうちの一人で、二球団競合の末に我が名古屋ドーランズが交渉権を獲得した。期待は大きく、一年目から活躍し、将来は押しも押されぬエースへと成長することを多くの人が願った。本人も目標にしていたと何年か前の食事のときに寂しそうに笑っていたのを覚えている。
入団してからずっと、毎年必ず一勝はしている四つ年上の先輩に対して失礼を承知で言わせてもらえば、期待外れもいいところだろう。キャリアハイで七勝五敗。通算四十二勝。いまでは一軍の投手事情が苦しくなったときぐらいしか昇格しない立場だ。プロ野球選手としては決して若くなく、崖っぷちの状況と言ってもいい。
崖っぷちは俺も同じこと。五年前のシーズンだけレギュラーだったが翌年序盤に左足のアキレス腱を断裂してシーズンを棒に振ると、復帰してからも武器としていた俊足が『速い方』まで落ち、成績は急降下。去年は百四十三試合中、十八試合しか出場していない。ドラフト六位ということを考えれば一年だけでもレギュラーとして使えたのだから『当たり』だとネットで書き込まれているのを見たことがあるが、かつて夢見たプロ野球選手像からはずいぶんと距離ができてしまった。
プロになった選手が必ずしも華々しい活躍ができるわけではない、というのは志賀さんと俺の例でもわかってもらえると思う。
「第一巡選択希望選手、名古屋ドーランズ。奥秋秀哉、内野手。和瀬谷大学」
それでも期待を背負った新しい選手はやってくる。春キャンプからチームに加わるルーキーのなかで、こんな指名をされたのがいる。身長百八十五センチの大型セカンドだ。
我がドーランズは近年セカンドの層が薄く、明らかなウィークポイントになっている。去年セカンドで一番試合に出たのが今年三十六歳になる、峠を越えたベテランの永井さんだ。打率が二割三分七厘でホームランが五本。レギュラーとしては物足りない数字なのだが、残念なことにウチは永井さんを超える若手から中堅どころが出てこなかった。……俺も含めて。
「奥秋選手がホームランを放ちました。開幕スタメンも考えられるのでしょうか?」
「そうですね。断言はできませんが、開幕までいい調子を保っていれば。あのホームランは難しい球を粘ってから甘い球を打ったという、非常にいい内容だったので、期待してもいいんじゃないですか?」
紅白戦を終えたあとの記者と監督のやり取りと、練習から見る実力から考えると、奥秋が開幕スタメンを勝ち取る可能性は高い。スケールの大きいスター候補。しかもポジションはチームの弱い部分で救世主になり得る。絶対的なレギュラーは不在。条件が整いすぎている。
チームとしてもその方がいい。永井さんがバックアップ兼代打に回り、昨年永井さんに次いでセカンドでの出場試合数が多かった柴崎がユーティリティプレイヤーとしてベンチに控える。ウチの内野手事情を知る人間ならこれを望むに決まっている。俺は一軍にお呼びじゃない。
シーズン後、間違いなく俺は戦力外通告を受ける。
そもそも今年もプロ野球選手でいられるのが奇跡に近いのだ。契約してくれた球団には感謝しているが、一軍に上がるチャンスすら与えられなさそうなこの状況は恨みたくなる。
「……なんて言っても結果を出せない自分が悪いんですけどね」
「俺も似たようなもんだ」
練習後、俺は志賀さんと焼き肉屋に行って、情けなく愚痴り合っている。
いまでは唯一の同期となった志賀さんが残っていたビールを一気に飲み干した。
「はっ、でもお前はまだいい方だ。永井さんみたいなベテランは信じられないぐらい成績が落ちる可能性があるし、ルーキーは一年もつかわからんからな。俺はそうはいかねえ。他球団のエースと来日してからローテを守り続けてた外国人が移籍してきた上に社会人ルーキーが猛アピールしている先発には、もう俺が入り込める余地は一切ねえよ。リリーフも勝ちパターンは健在だし経験を積んだ若手が着実に実力をつけてきている。……ああ、くそ。どうしてこうなっちまったんだろうなあ……」
球団は明らかに今年に勝負をかけている。大補強からもわかることだ。それの意味するところは、俺や志賀さんみたいな二軍漬けの中堅どころにはほとんど期待していない、ということだ。二軍の試合を成立させるための人員としてしか存在価値がないと言ってもいい。
「……志賀さん、帰りましょう。飲みすぎですよ」
俺は志賀さんの腕を自分の首に回して立ち上がり、ゆっくりと歩いて店を出た。背後から陽気な声がしてくるが、とてもそんな声を出す気にはなれなかった。酒が入って火照っている体が、一歩足を進めるごとに確実に冷えていく。人工的な光も月の自然的な明かりも、やけに眩しかった。
「ラストーッ!」
ノックの嵐が終わり、監督直々に行われたノックの嵐でしごかれた奥秋が「アアーーッ!」とでかい体を大の字にしてセカンドの守備位置で空を見上げた。腹が空気入れのように上下運動する。見た目は情けないかもしれないが、充実の証である。
監督は監督で息を切らしながらベンチに下がっていく。
うちのキャンプはいまの監督になってから一軍二軍合同で行う。他球団より早い段階で紅白戦もやる。そこで俺はアピールすることができなかった。一軍の席は遠い。
だからなのか、俺には奥秋が眩しい。見上げればいくらでも美しい未来を見ることのできるあいつと違って、俺に見える未来はクビだ。「昔はよかった」と過去を見れば輝いているが、そのような心づもりで見る過去はもの悲しいだけであり、何の解決にもならない。
「おい山井、最近動きにキレがあるな。明後日の紅白戦、しっかりアピールしろよ」
グラウンドの隅でバットをふり込んでいた俺に、打撃コーチが声をかけてくれた。
「はい。ありがとうございます」
気のいい明るいコーチは一人ひとりに声をかけているようで、すぐに去っていった。
別の選手に一言かけてはまた違う選手に。きっと全員に俺と似たような言葉をかけているのだろう。
だからといってコーチが適当な人とは思わない。コーチが三年前にやってきてから成績が上がった若手が何人もいるし、前に所属していた球団でも一人の選手をメジャーリーガーになるまで育て上げたからだ。
どこの世界でも優秀な人間には働く場があって、役に立たない人間には肩身が狭いものだ。そして、無能はいずれ集団から弾かれる……。
ふうっ、と息を吐く。どうも最近はマイナス思考に陥りがちだ。コーチのいう通り動きにキレはある。アピールできる可能性はある。
……だけど、本当は気づいている。このままでは結局なにも変わらないことを。
なにかを変えなければ一軍に上がることはない。いまの俺はレギュラーだったころの劣化版の劣化版に過ぎない。プロ十一年目の峠を過ぎた男。それが俺だ。最低でもセカンド三番手であろう柴崎より『使おう』と思わせることができないといけない。
柴崎は俺より三つ若く、まだまだ伸びしろに期待できるやつだ。きっかけがあれば一気に成長するかもしれない。
対して俺は、脚力が戻る見込みもなく、ピーク時からしぼみつづけてきた。ほんのひととき柴崎より上に立てたとて、首脳陣が俺を使うとは思えない。『いまはよくても一年トータルで見れば柴崎の方が上』とか『まだ未来に期待できる柴崎を使った方がメリットがある』と考えられるのが関の山だ。俺が一軍に上がるには、相当な結果を残さねばならない。
そして、そんな結果を残すことができないのは、だれよりも俺自身が知っている。怪我をしてからの数年間、一時期腐っていた時期もあったが、おおむね一生懸命できるだけのことをしてきたと言える。それでも、この現状なのだ。
多少キレのある動きができたところで、一軍行きの切符はつかめない。
力いっぱいバットをふる。空気を切る音が耳に届く。ふり切った状態で脱力する。奥秋が目に入った。地べたに座って足を広げ、ストレッチをしている。遠くからでも満足そうな表情をしているのがわかる。
遠い存在だ、と思った。俺はプロ入り以降、あんな顔をしたことがない。満足を感じたことがない。レギュラーであったときでさえ……。
その日の夜、部屋に戻った俺はスマホで過去の映像を漁っていた。
はっきり言って、奥秋がうらやましかった。あの幸せを分けてもらいたいと思った。昔の、楽しく野球をやっていたころの自分を見れば、あのころの気持ちを取り戻すことができるのではないかと思ったのだ。
しばらく探していると見つけることができた。高校三年のときの春の甲子園、母校が出場し、三番を打っていたころの自分の映像が。
……これはだれだ。
いや、間違いなく自分なのだが、どうも頭が理解を拒んでいる感じがする。赤の他人であってほしい。そんな気持ちを抱いているからだろうか。
右足を高く上げ、力強く踏み込みんでフルスイング。歓声とともに打ち上げられた打球が外野の後ろに落ちてフェンスまで到達する。二塁にいたランナーは悠々生還して同点に追いつき、俺は俊足を生かして三塁に頭から滑り込む。
満面の笑みで空高くガッツポーズ。
それも拳を何度も高くつきだしている。
土で汚れたユニフォーム。はしゃぐ観客席。鳴り響く吹奏楽。青い空に入道雲。すべてが眩しかった。
「…………」
俺はスマホの電源を切った。
紅白戦の日になった。
与えられるのは二打席だと事前に通達されていた。一軍に上がるには、二打席とも塁に出ないといけないだろう。
首脳陣が見守るなか試合が始まった。
紅組の先発は志賀さん。予定しているイニング数は二。八番の俺は志賀さんが順調に打者を料理すれば当たらない。
だが、志賀さんは一回にホームランを打たれて失点すると、五番から始まった二回にもヒットを浴び、ツーアウト二塁の場面で俺に回ってきた。
やりにくさはある。だけど手を抜くことはない。結果を出せなきゃクビになるのはだれもが同じなのだから。
志賀さんがセットポジションに入る。
俺は体の重心を下げ、早めに始動に入る。ほんのわずかに右足を上げて反対方向を意識しながら、志賀さんの放ったストレートにタイミングを合わせてバットをふる。
乾いた音とともに三塁手の頭の上を超えた打球が三塁線をわずかに切れた。
フェアなら二塁打だったのに運がない。
二球目三球目は変化球でボール球。ツーボールワンストライク。バッター有利のカウントだ。
志賀さんの球種とそれぞれのボールの精度を考えると、次はストレートかスライダーでカウントを整えに来るはずだ。
このボールが勝負球。
志賀さんの右腕からボールが放たれる。予想通りのスライダーがやや高めに入った。
……よしッ!
バットがボールをとらえる。志賀さんが急いでふり返る。打球はショート正面のライナー。頭上を越えることはなくグラブに収まった。
読みもあってたし、スイングの形だってよかったはずだ。それでもヒットにはならなかった。野球にはよくあることで、これまでにも幾度となくあったことだ。
……終わったな。
だけど今回のは致命的だ。せっかくのチャンスの場面。相手は二軍がホームの投手。志賀さん相手にタイムリーが打てなかったら一軍の投手相手でも打てない。そう首脳陣に思われたに違いない。
ホームベースと一塁ベースの間、ライン上で空をあおぐ。白い雲を数秒間見つめた。攻守交替で自軍ベンチから選手たちがグラブを持って出てくるのが気配でわかった。
俺も早く守備につかなくては。ベンチに戻り、グラブを手にする。グラウンドに向かう足はいやに軽やかだった。
そして第二打席を迎える。
相対する投手は先発ローテーション当落線上の中堅どころ。俺よりもはるかに価値の高い選手である。
俺は自分が想像していたよりも現実を受け入れる能力があった。などと場違いなことを考えていた。いま考えるべきは相手の投げるボールをどのような形で撃ち返すかといったことであり、己の新たな発見をしている場合ではない。
頭ではわかっていても止められなかった。完全に生き残る道が閉ざされたにもかかわらずまったくといっていいほど絶望していないのだ。自分はこれほどまでに野球に対して思い入れがなかったのだろうか。積み重ねてきた敗北者としての時間が、いつの間にかクビを受け入れる準備を整えてきていたのか。だとすると、最初からチャンスをチャンスだなんて考えていなかったのではないだろうか。戦力外通告される前の思い出作り。その程度にしか思っていなかったのでは。
……最低だな、俺は。
契約してくれた球団にも、試合に出る機会を与えてくれる首脳陣にも、俺が試合に出ていることでアピールの機会を減らしている選手にも、キャンプ地まで足を運んでくれているファンの方々にも、失礼な姿を見せつづけてきたわけだ。こんな選手、クビになった当然だ。
いまからでもやり直したい。
思い描いたプロ野球選手になれなくても、一軍の選手じゃなくても、二軍漬けで一年を終えてプロの看板を下ろす選手でも、『こいつのプレーを見てきてよかったな』、『もっと見たいな』と思われる選手になりたい。
……かつてはそうだった。俺は『君が欲しい』とドラフトで指名された選手だったんだから。
戻ろう、あのころに。ひたむきに白球を追いかけ、眩しかった自分に……。
グリップの位置を高くし、必要以上に重心を落としたりせず、自然体に構える。高校生のころのフォームに近い。
プロに入ってから長打を捨て、コツコツ当てるスタイルで生き残りを図ってきた。結果は出たが、楽しさはなくなった。仕事なのだから楽しさうんぬんで語るべきではないのだろう。けれども、俺には必要なものだったように思える。わくわくしながら野球をする。俺はそうしてプロになったのだから、プロになってからもそれをつづければよかった。そうしていれば、たとえレギュラーになれる時期がなかったとしても、もっとまともな選手になれていたかもしれない。
いまの俺も、戦力外通告される前の思い出作りに励んでいる。否定できない事実だ。だけど違うぞ。俺は変わって見せる。
ランナーはいない。ピッチャーが大きくふりかぶる。
俺はタイミングを合わせて大きく右足を上げる。大きくスライドし、体をねじ切るようにふりぬく。
カァンッ!
おおっ、とどよめきが上がる。俺はバットを手放し、脱力してボールの行方を見守った。
高々と舞い上がる。あっという間に小さくなったボールが、ライトの後方、フェンスを越えて芝生に落ちた。
スタンドから拍手が響く。そのなかをゆっくりと俺は走った。ホームラン。三塁コーチャーの手を軽くたたき、ホームベースを踏む。ネクストバッターやベンチの監督たちに祝福され、俺はベンチにドカッと座った。
久々のこの感じ。わくわくと満足が心のなかで湧き上がっている。新しいスタートはこれ以上ないものになった。
時は流れて十月。戦力外通告を受けた。
「お世話になりました」
話が始まってから最後の言葉までおおよそ十分。あっけない最後だった。
これからどうするのか。ゼネラルマネージャーに聞かれたが、ユニフォームを脱ぐ以外のことは決めていなかった。この一年は野球のことしか考えないと決めていたから。とりあえず野球界に恩返しがしたい想いはあるけれど、どういう形でというのはまだない。
結局一軍に上がることはなかった。それでも充実した、最高の一年だった。
腰に手を当てて空を見上げる。ドーランズは見事優勝を果たし、消化試合を経てプレーオフに進むことになった。
奥秋は確実性には欠けたが、ホームランを十五本も放って優勝に貢献。未来のスター誕生を予感させた。永井さんは渋く活躍し、柴崎はユーティリティとして貢献した。
志賀さんは……。なにがなんでも現役続行を目指すらしい。
活躍する選手もいれば、ドラフトの風に運ばれる新しい選手に押し流される選手もいる厳しい世界、プロ野球。あと二週間ほどで、今年のドラフト会議が始まる。
心地よい風が吹き、スーツを揺らす。なぜだか唇の両端が上がってきた。