03 命名、ミラクルありさ
松阪芹奈の後を、ありさは静かについていった。部屋の中の時とは違う、妖しげで危険な香が彼女からは漂っていた。新たに刃物みたいな鋭さを加えたような雰囲気だ。
やはり何の変りばえもない風景が続いていた。全体的に薄暗いせいで、一体どこまでこの廊下が続いているのか見当もつかない。ただ、どうやらこの建物が想像よりずっと広大であろうことだけは推測できる。
ありさは終始無言だった。ありさのことをずっと以前から、それも何でも知っているらしいこの女に対し、自分から言えることなど皆無だった。ただ、死ぬようなことにはならないだろうという甘い期待を恃んで、ありさは芹奈の言うことを聴いたのだった。
ありさが最後に導かれたのは、さっきのよりもっと飾り気のない、それこそ牢獄同然の部屋。
二つの椅子が置かれている以外は、完全に天井も床の壁も黒色一色に統一されている。
「……ここで話を聴こうかしら」
芹奈は相変わらず落着いた顔付でありさを見つめている。ありさは、その顔に安心感を抱いていたわけではなかったが、次第に自分から何か発言してもいいらしい余裕があることに気づき始めた。
「何の話ですか?」
なぜか、気の立った声になっていた。
そして質問だったのが、自分でも意外だった。
「私があなたの過去を知っているのは事実だけど、その内面まで知悉してるわけじゃないからね……ほらほら、座っていいから!」
ありさは、ほとんど無意識に芹奈に従った。
「あなたは家に帰りたいって言った。けどあなたはずっとこの地獄から出ることを切望していたんじゃないの?」
そうか、これは苛立なんだな。私は、腹が立ちかけているんだ。徐々に怒りめいた感情を自覚する。
「な、何を……」
「何と言われなくても、あなたには死ぬ権利なんて最初から存在しないのよ」
ありさはそれでも、深く座りこんでいた。別に座り続けるつもりでいたわけではない。どんな行動に出るべきか、見当がつかなかったのだ。
何より、たった今出会ったばかりの芹奈という人間が、自分の存在を掌握されていることに、この上ない屈辱を覚えた。姉に対する不満とは、また別の不快感。
「ずっとあなたはこの世から逃げたいと思っていた。毎日毎日が逃げたくて逃げたくて仕方ない災難の連続。生きてたって仕方がない。死ねば全てが解決する。そんな人生をあなたは送って来たんでしょ?」
うなずくことも、否定することもできなかった。
芹奈はこの狭い空間を旋回しながら、我が物顔に語り続ける。
「あなたは生まれる場所を間違えたのよ。もしかしたらいい人生を送ることができたかもしれない。けれど、残念なことに最悪な場所を割当てられた。正しい運命に修正してあげる」
ありさは何も言うことができなかった。
「私たちはあなたに本当にふさわしい生き場所を提供してあげるのよ。あの忌まわしい娑婆なんかよりずっとふさわしい場所を」
「い、言うな……言うな!」
ありさの理性の中に何か得体の知れないものが忍びこんだ。認めてはならない存在が自分の理性の内側に進出しつつある。
ありさは両手で頭を抱え、自分の衝動に抗おうと。無意識、脚を静かに立てて。
それから、絶叫。
突然、照明が明滅し始めた。一陣の嵐が牢獄にさしこみ、芹奈は壁に激突した。部屋自体が小刻に揺動き、立ち上がることすらままならない。
芹奈がありさの顔を見ると、その瞳は光を失い、人間以外の何かに憑依されているような顔。
虚空を見上げ、ふらつく脚。
「くっ……仕方ないけど……」
冷汗を流しつつ、芹奈はありさに向かって手を伸ばし、向こうへと力をこめる。
ありさは壁に打付けられ倒れた。すると、部屋中の風もすっかりやんだ。
顔をぬぐいながら、にやついた笑顔。
「今、私自身どうなるかと思ったわ」
芹奈の手に、蜃気楼みたいなゆらぎが集まっている。
「ふふっ……そう! その力よ! その力があなたの最大の魅力。あなたには不思議な力がある……私はそこに目をつけた!」
少女は、数秒の記憶が飛んでいた。だが、その間に起きていた出来事について予測はつく。
ありさは全く嬉しくなかった。姉と共に、生まれついたその体質はずっと姉妹が周囲から隔離され、嫌悪され続けた最大の原因。
超能力。自分ではそう考えている。
唐突に目撃したものは、知らない女の嬉しくない賞賛。賞賛と言うには、
「今のあなたが持つ力と魔法少女になる十分な素質があるのよ。そしてあなたが持つ力と魔法少女技術が合体すれば、偉大な業績を悠久の歴史に残すことができる!」
「……そんなことして、何のためになるんですか」
気だるい顔、肩をすくめて。
「あのねえ……私たちはあなたに生きる目的を提供してやってんのよ。ちょっとは感謝する心を持っても、可いんじゃない?」
この人は一体どこまで自己中心的で、あちらの都合しか考えていないのだろう。
堂々とした振舞に、ありさは、もはや反抗する意志すら失われていた。
「今からあなたも、魔法少女。我が進藤化学工業の繁栄の象徴として、活躍する運命を与えられているの!」
……自己中心どころではない。この人にとっては、私の全てが利用する存在でしかない。
でも、私にはこの人しかいない。この人に、私を活かす権利は奪われてしまっている。もう私は誰でもない。誰かであるためにはこの人に頼る他、ない。
優しく手を差伸べる芹奈。
「はい。私は……あなたに従います」
屈辱だった。この言葉に順うことが。しかし、その屈辱から逃れるには、降伏するしかなかったのだ。
それが、あまりにも暖かくて。気持よくて。なぜか目頭が熱くなり、下へと涙がしたたっていた。
「最初からそう言ってくれれば良かったのよ。私はあなたを信じている……はるかに多くのものを心の中に隠しているってこと!」
さしてうれしいわけでもないのに、ありさにはその言葉が褒めているように思えた。
◇
ありさは鉄板に横たえられ、四肢を部屋の隅まで続く鎖につながれている。意識はすでに遠のき始めていた。夢にいるのか、現実にいるのか判別しがたい意識。
「……異界生物第十一号の細胞……」
「第十一号……猫の生物ね! 猫はかわいいんだけど、この猫又は本当に凄まじいわね~」
白い服に身を包んだ男女十人前後。
ありさはほとんど身動が取れなかった。抵抗しようともしなかった。
「ずっとその力については未解明ですが、よいので……」
一人が何か瓶のような物を持っている。中に緑色の液体。芹奈の姿。
「他の魔法少女だって同じよ……元からどんな力があるかなんて分かってない」
誰かが注射針を持っている。瓶から抽出した成分だろうか。
特別処理室、の看板。
注射した。この感覚だけは鋭敏だった。しかしその直後、もっとはっきりした痛みが全身をかけめぐり、ありさは痙攣を起こした。自分以外の何物かが腸に収まっている……!
前からずっとありさの中にいる化物とも違う、もっと別の何かが血管に浸透して、ありさを人ではない物に造変えようとしている。
視界がじわじわとぼやけていった。
誰の顔も見えない。誰の声も聞こえない。ただ、周囲がおびえ、距離を取っているのは分かる。自分の体に明らかに異変が起きていて、本来なら体が壊れていてもおかしくないはずなのに、まだ意識があるというおかしさ。恐怖を感じながら、それを言葉に出すこともできずおびえていると、
「美しい……これこそ、あなたにふさわしい姿なのよ!」
芹奈が甲高い叫びを挙げ、両手を振上げ。
ありさはその言葉で、自分がもはや死んだ人間であることを悟ってしまった。
「魔法少女……ミラクルありさ!」