02 新しい家
「新入が来るそうね」
少女たちは、珍しく雑談に花を咲かせていた。
「ええ。それもかなり悲惨な姿でスカウトされたみたいで」
「芹奈さまのご意向は計り知れないね……まあ私も、生まれは結構悲惨だけど」
「悲惨って……悲惨にも色々な形があるものよ、弥良」
雑談は許されていない。というより、平穏な時には似たような毎日しか続かないこの閉じた牢獄では特異もない話題など見つけようがないのだが。
「名前は分かってるの、織香さん?」
「詮索するのはよくないよ。陰謀の疑いをかけられたらどうするの?」
その時チャイムが鳴り響き、音源に目を向ける一同。正午を報せる音が、それを察することさえできない深緑の天井に突きあたっては跳返る。
「食事の時間よ……急がなくちゃ」 それからは、誰もが無音で食堂へと進み、廊下には誰もいなかった。ただ、規則正しく並ぶ点灯が耿々とだけ。
武藤弥良は何か直感のような物を感じずにはいられなかった。もはや魔法少女がこれ以上増えることはあるまいと思っていただけに、またもやその魔法少女になる人間が新しく選ばれた事実に、胸騒を覚えずにはいなかったのである。
けどやはり、錯覚かもしれない。空と言えば、粒ほどの四角い窓からかろうじて覗くしかないこの世界では、予感とか憶測なんて役に立つわけはない。まして、新しい仲間が誰であろうと、それが結局は監視し合い、猜疑し合う関係に終わることは明白。
その通り、誰も元から友達などとは思っていない。
如月栞、坂本織香。見た目だけはあどけなくて、まるで純白な女の子とさえ見える。けれど、ここにいる以上、誰もが獣のような本性を隠している。
弥良自身すら。いや、彼女自身が、獣みたいな扱いを親に受けてきた。思い出す価値すらない。
弥良は、手で目を覆った。こんな過去に、思い出す価値はない。全部、目の前から消えてしまえ。過去ではなく、未来こそが私の全てなのだから。
◇
ありさは自分がとても寒い場所にいるとだけ理解できた。
事実、そこは知らない場所だったのだから。目をわずかにあけると、すすけた黒とまぶしい白が交互に差込んできた。ありさは、不意に目を閉じた。どうやら、担架みたいなもので運ばれているらしい。
一体、私はどうなってしまったんだろう。死んでしまったのか。死んだなら、ここは三途の川?
「私は……」
突然、動きが止まった。棒をにぎる人間が、ふとびくついたらしかった。
頭は、見えない。いや、目隠をされている。ただ、光だけが飛び越えて目に入ってくるに過ぎない。
不幸にも――彼らは、ありさに友好的な雰囲気ではなかった。何か質問したりすれば、叩かれるであろうことだけは理解できた。いや、もっと危険な眼に。それからはもう何も口を開かなかった。
次に目が覚めたのは、とても狭い部屋だった。ありさは、硬く厚いマットレスの上に臥していた。
まだ意識は朦朧としている。しかしずっと暖かく、空気は澄んでいた。先ほどが地獄ならここは天国への階段だ。
全く安堵したわけではないが、あの家から離れられたということだけで十分ふっきれた。
何があるか。机と、棚と、四角い扉。何かの寮だろうか。だが窓もなく、部屋の隅には四角いカメラがこちらを凝視している。
とりわけ、このしめった空気感が明らかに地下だ。
突然、扉が開き、少女はびくついた。
「安心したまえ。君はもう大丈夫だ」
黒い背広に身を包む、背の高い、年配の男がいた。
肩幅も大きく、屈強と言うべきであるか。しかし紳士的な笑みを浮かべている。
「君は選ばれたんだ。運命にね」
そこに邪な意思は存在しないと、直感で分かった。この人は、私を助けてくれたのだろうか。
「ここは……どこですか?」
老人は、顔をほころばせつつ、
「進藤化学工業、異界研究部門の地下、魔法少女の練兵所。異界研究の精を集めた、社内でも数人しか存在を知らない極秘の施設さ」
平然と答える。ありさには、途中でもはや全く聴取れなかった。その時から、ありさは老人への信頼を失ってしまっていた。
「魔法少女の卵たちが来るべき世界のために闘いの訓練に打明けているんだよ。まさに、君も魔法少女として選ばれた所なのだけれどね」
「えっ……?」
よく知らない単語が次から次へとやってきて、ありさはもはや理解が追いつかなかった。新しい情報が増えるほどに、ありさは老人への疑心暗鬼を募らせた。魔法少女って? 進藤化学工業? 異界研究……? 全てが異次元の語彙だった。
「心配してくれなくていい! 誰だって最初はそんな感じだった。でもすぐに慣れていったよ」
ありさがまだおろおろしていると、終に男はその目の前へと歩寄り、肩に手を。
「私の名は白川龍光! この進藤化学工業の練兵所の所長をやっている」
「私……これからどうなるんですか……?」
「心配は無用だよ。君はもうすぐそんな心配すらする必要はなくなるんだ。この進藤化学工業の忠実な僮僕としてね」
男は温和な表情をちっとも崩さないまま、後ろに振返って退出していく。
「進藤化学工業って、何なんですか!?」
「大いなる目的の、踏台」
停止もせず、ごく小さい声で。またもや、閉じる扉。
もはや目覚めた直後の、ほっとした気分は消えていた。今にでも消去りたくてたまらなかったが、この扉を開けてしまえば悪いことが起きる予感がした。
ありさはとにかく部屋を歩き回り、色々な備品を調べた。机には鉛筆箱や本が置いてある。本はノートほどに薄く、緑色の表紙。その題名は。
「進藤化学工業……社訓……?」
難しい漢字が色々使われていて全部読めたわけではないが、どうやらこの会社で守るべき色々な教を記しているらしい。棚の方にもいくつか文庫のような本が置いてある。いずれも、ごくつまらなさそうな本だった。
「わけがわからない」
それは、夢のような世界だった。つまり、現実感がなく、すぐにでも崩れて滅びてしまいそうな空間という意味での夢だ。
「お邪魔しても、いいかしら?」
今度は、妙齢の女性の声だった。
「菅ありさ、さんね?」
ありさは、ただ不安でたまらなかった。精神がおかしくなりそうな気がした。しかし、意外にも恐怖は感じなかった。そもそも、これまでの人生が悲惨この上ないものだったのだ。
今更、どんな目に遭ってもおかしくない。ただ、痛い目を見る雰囲気ではないので怯えていないだけ。人生の全てに興味がなくなっている。
もしかしたら、そう考えて平然としているありさが異常なのかもしれないが。
「……いいです」
ありさは答えた。選択することにもはや少女は倦んでいた。
「ここでお話するにはちょっと都合が悪いから別室に案内してもいいかしら」
私なんかを連れ去ってどうするつもりなんだ。
「なぜ私を……選んだのですか?」
動詞に、とても気を遣った。一歩間違えれば、逆上させると思った。
「仕方がなかったからよ。私たちの存在は、世間に知られてはならない。もし知られたら、二度とこの世に生きてはいられないんだから」
女の声は、怪談の語り口みたいに静かで、底が見えない。
はぐらかされたような気がして、ありさはいよいよ感情を高ぶらせる。
「何なんですか、魔法少女って? 私をどうするんですか!?」
「あなたのご両親はずっと昔に家を出て行ったそうね?」
「……へ?」
「菅ありさ。年齢は十二歳。もう数日ほど学校に通っていなくて……」
相手が知らないはずの、個人情報。理由を察することさえできない。
わずかな息づかいを察して、女はもう別の話を始める。
「ごめんなさいね。私たちは魔法少女の卵を探すために沢山の人間を前から品定めしているのよ。だから夥しい量の人間の情報を集めて、次の魔法少女を決めている」
好奇心にたぎった瞳で、芹奈はありさの困惑を無視し続け。
「その条件にあなたは適合している。女の子で、失うものがなくて、この世を恨んでいて、かつ不思議な力を持っている……」
「……黙ってください」
ありさは耐えられなかった。
「家に帰らせてください。こんな訳も分からない場所で、訳も分からない会話なんてしたくない!」
「あら、還っても地獄よ?」
ついに扉が開き、声の主。
ずっと背の高い、頬にほくろのある女だった。大人で、綺麗な顔をしていて、白い肌。
「いつからあなたはお姉ちゃんを好きになったの? いつも喧嘩ばかりしてるくせに」
奥まで聴きとれそうな、よく徹った声。まるで、一つ一つの発音に何かの魔力があるみたいだ。
「でも大丈夫よ……ここにはあなたをいじめる子なんて一人もいない。少なくとも、家よりはずっと」
ありさの前に座り、さしのべる手。
「さあ、私たちの所に来て。ここがあなたにとっての新しい家なの」
ありさは、導かれるままに女の手を取った。逃げることすら、ままならなかった。