17 静かな昼に
「任務に赴くまさにあの場所で……」
ありさの顔が、青白くなる。
二人との相談は、まだ続いた。
「容器を奪って私たちが立てこもる……でもそんなことをして、いいの? 異界生物が暴れたらどんなことになるか」
「少しの間だよ。魔法少女と会社は運命を共有しているんだから、向こうにだってそう厳しい措置はとれないでしょ」
人が死んだという事実に対する関心が薄れていくことに恐怖を感じながら、ありさは栞と言葉を交わす。
「でも、そのせいで外の世界が混乱する可能性は考えないわけ?」
ありさは、不思議なほど、この練兵所の環境に自由がありそうな錯覚を感じた。多分自分がそれほどにまで会社の雌犬になり下がっているというわけで、それがまた重苦しさを加えるのだが。
弥良は、
「それはもちろんある。けれど私たちにとってはこの会社の環境の方が遥かに重大なのよ。ここは外の世界とは守られているから」
最初は不服そうだった弥良がいつの間にか饒舌に。
「今こうしてるうちにも、社長と私たちとの精神的な距離はどんどん遠のいてる。時間なんてない」
だが、まだ時間がない。それに当てもなかった。
◇
留美子はありさたちがそういう密議を交わしているなどとは露知らず、いつものように図書館で籠りきっていた。人と話すのが好きな性格ではない。
魔法少女になりたくなかったのだ。
ある親友がいつもそのことを口にしていた。だがもはやその親友もいない。だからこの思いはもはや誰とも共有できない。いるかもしれないが、気づけばあまりもはや自分だけの日々を過ごすようになっていた。
その時、少し近くに誰かの顔。
手を振って、栞が遠くから招く。何かしゃべって欲しそうに。向こうから声をかけてくれれば、とも言い難い、何か秘密のある雰囲気だった。
「栞……?」
あまり言葉を交わさないだけに、
「あんたはありさと一緒にいる性格だと思ってた」
「今回の騒動、どう思う?」
「そんなこと尋ねて、私を危険にさらすつもり?」
「今や社長の監視下にあるというのに」
社長……。無論栞にとっては社長は忠誠の対象だ。それは間違いない。しかし魔法少女としての責務を果たす上ではやはり身近な人間の方が好感が持てた。
栞にとっては社長というのは雲の上の存在で、どんな意思を持っていようがそれは興味もなかったし、それがどう影響するかなんて、実感がなかったのだ。
「でもね、龍光様や守春様がまだここの職務に当たってるじゃない」
「そうじゃない。社長が直接干渉してきたのが問題なんだよ。今までは芹奈様」
留美子は栞の言うことのほとんどが理解できなかった。
「それを聴いてると、まるであなたは進藤化学工業じゃなくて芹奈様の方が大事って感じだけど」
「あんたがそうじゃないのか?」
今にも、姉妹に出てきてほしい気がした。本当なら、あの姉妹をあぶかはえ位にしか思っていないはずなのに。
「もちろん私だって命が惜しいよ。冗談で言ってるわけじゃない」
栞の顔は幼さを感じさせながら、それでもどこか覚悟した風格に満ちている。留美子はいよいよ、栞がおかしくなっているのではないかと思う。
「もしかして、あんた、盾突くつもり?」
それしか言えなかった。
ただでさえ例の姉妹がこの地下世界をうろついているのに、この会話がばれたらどうなるか見当がつかない。
「安心してよ。私だってそういうことがしたいとかできるとか思ってないから」
かっとなって、
「この後、あの二人に密告してやる」
「ならしてみせてよ。あいつらは織香さんが逃出さないように見張ってるんであって、どうせ私たちが魔法少女になれなきゃいくら計画を練っても意味はない」
留美子は思わず本を机に叩きつけた。
「いい加減にして。私にいらない陰謀で関わらせるのか?」
「その織香さんよ。井尻姉妹はまず何よりもあの人を監視していて、」
「ありさから聴いたんだよ。織香さんがもう魔法少女でいたくないって話」
硬直したままの留美子を叩きながら、自分の態度を押しとおす栞。
「だからさ、確信なのよ。このことを知ってしまった以上私たちは関わりを持たないわけには行かない。その織香さんを守ることで、私たち自身も危険にさらされるってこと」
留美子は何か異様な現象を目撃した時の眼で、栞が去った扉の方を眺めていた。
一体何を考えているのか、さっぱり推測できない。元から栞は表裏のない性格で、いつも言葉も明るい時が多いが、その逆に関してはほとんど想像できない。この世界ではむしろ自分のことを偽らない人間の方が稀なのだ。
しかし、ありさが織香からそんなことを聴いたとは。よく考えてみれば、ありさも魔法少女であることをどこか嫌がっているような性格だった。もしかしたら、似通っているのかもしれない。だとすれば……ここには、私が思うより味方がいるのかもしれない。
それは、手放しで喜べることではなかった。
なら、姉妹はそういう人間をも狙っているのでないのだろうか。そしてたった今、自分が狙われる対象になったのだと栞は告げた。
なら私も、動くしかないのか。何のために動くのか、それは自分でも分からない。だが間違いなく、もはや住んでいる世界がこれまでとは違う物になってしまったことは察知できた。
織香は、一人で悶々と。
姉妹がいること自体はさして苦痛ではない。間違いなくこの私を消そうとしているが、その時には私はこの地下牢にいないだろう。
こんなむさ苦しい場所、今すぐにでも脱出してやる。
日々回されてくる回覧板によれば、芹奈は裁判にかけられ、現在その処罰が議論されている。間違いなく、数年は異界研究部門から外され、閑職に回されるだろうと。
織香にはどうでもいいことだった。生きている限、どんな手段を使っても魔法少女の生産に尽力するはず。狂気を収めるには、死ぬしか道がないではないか。
今まで芹奈が、龍光が我が物顔でここを支配していた頃は、どう、いつ逃れられるか、ずっと注意深く考えていたのである。
だがこの混乱状態。願ってもない好機ではないか。まして魔法少女たちが姉妹たちに疎外感を感じ、私に対する興味をなくしている間は、心置なく別れを告げることができる。
それからなんて、何も考えていなかった。逃げること自体が、彼女の生きる目的と化していた。
こうした所で、結局、何も変わりはしない。
突然、足音が鳴った。織香がびくっとしてその方向を向くと、白川龍光の姿があった。驚きよりも、恐怖が先行。なぜだ? 扉には鍵がされているのに?
「龍光……様」
だが、織香にとっては、この男は芹奈と同じか、それ以上に見ているだけで不快感を催す男だった。常に会社のことだけを考えていそうな鋭く、隙のない目つき。過酷な経験によって刻まれたであろう顔のしわ。彼の表情自体が、一つの刃。
「翌日、井尻姉妹がお前を消しに行く」
龍光は突拍子もなく、打明けた。だが、織香には疑うことも許されなかった。
この男の言うことが、虚偽であるはずはない。口調といい、音色といい、この会社の本当のトップと言っても良い威厳にあふれている。
織香は、龍光を呪おうとした。だが、呪う言葉を考えようとしても、賞賛するような文句しか出てこないのだ!
「これで奴らに対抗しろ。私はお前と共にある」
お礼を言うべきなのか。そんなこと、及びもつかない。結局、自分は――全ての魔法少女は――大人たちの汚い欲望の道具に過ぎないのだ。私自身のこの衝動さえ、この男には計画を進める都合のいい機会に過ぎない!
織香は口を真一文字、黙っていた。
やはり、こいつも人の娘だ。龍光は身動きのできない織香の手に、無理やり容器を握らせ。
「全ては人類の進歩のためだ。お前もその道を行く」
この時、織香の頭が一瞬真っ白になった。
容器に視線を注いでいると、龍光は消えていた。織香はただうなだれて、後先を憂えた。
……ありさに何か言っておくべきかもしれない。いや、自分が二度と後戻りできない時のために、その準備が必要だ。なぜか、ありさのことが急に頭に浮かんだのだ。
明日は、久々に地上に出られる日だ。最も、一人で出ていいわけではない。監視や連帯責任もあって、他の魔法少女と一緒でなくてはならない。その時にありさを連れていこうかと。無論、単なる思い付きでしかない。
なぜか、それが必要不可欠に思えてならなかった。それくらい精神的に追いこまれているということなのかもしれない。だからもう私はもう覚悟を決める。