10 日の出はいつも不穏
織香は長い夢を見ていた気がした。夢を見るのはさほど珍しいことではない。しかしその内容を覚えていることが少ないのだ。
「……気にくわない」
もう八年ほど前だろうか。自分が急にこの広大な牢獄につながれたのは。それまでは、全く普通の女の子だったのだから。
母親が急にいなくなってしまった。天涯孤独になってしまった彼女を引取ったのは、妙齢と言ってもよさそうな、綺麗な叔母。だが、その体の中の心はまるで化物のようだった。
「織香ちゃんって言うの。母親を失ってかわいそうに……」
今でも、その人のことを恨まずにはいられない。自分にはその選択しかなかったのだから。拒否権なんてなかった。
「あなたに素晴らしい活躍の場を与えてあげる。女性としてのね」
言葉の内容は完全な狂気に満ちているのに、顔は一面、使命感。
異界生物という、この世のものではない命の欠片を染色体に埋込まれ、それを使いこなすためのあらゆる訓練を受けさせられた。普通の人間なら、絶対に体験しないような出来事の数々を。地上の人たちならもっとありふれた人生を送っているはずなのだ。学校に通って、いい男の子と出会って、結婚して、……けど私には、何もない!
そんな権利が、全く私には与えられなかった。私に与えられたのは、異形の生物の肉だ。血管の中で明滅して、今も心臓に空気を送り出して――
織香ははっとして自分の頭を叩いた。
こんな昔のことを蒸返した所で、何の利益があろう。問題なのは、これからどう生きるかだ。この会社への不満に順応するか、それとも。
「みーくん、ごめんね。こんなやつれた私で」
男の子のぬいぐるみを抱きながら、再び眠りについた。
◇
果たして、進藤貞之現社長の話がこの練兵場の大ホールで始まった。
部屋に籠っていてもマイクから聞こえる仕様にはなっているらしいが、ありさは同調圧力ゆえか、また外に出て一同の様子を観ることにした。
空一面に浮かぶ進藤貞之の顔。顔に反して声は勢いと若々しさがある。
これが写真で観た時は単に穏やかそうな人柄だったが、動くとまるでそれ以上の張が生じてくる。
「親愛なる進藤化学工業社員の皆様、おはようございます。今日もいい天気ですね」
それからの話の内容は、さして記憶に残らない。極めて形式的な、肉声の読取れない試練の伝説、それを乗り越えたことへの賞賛。
だが、話の内容が次第に深刻みを帯びて行った。
「魔法少女という技術はもはや進藤工業の、日本のものだけではありません。世界中に魔法少女が生まれ、日々鍛練を受けているのです」
ありさはそわそわした。世界中に魔法少女の技術が広がっているのか? 私みたいな境遇の人間がここ以外にもいる……!? とても座ても起ってもいられない。
それなのに弥良も栞もすでに社長の世界に没入しており、横を見ることもない。
栞は実に恍惚とした顔を浮かべていた。本当にこの会社に入れこんでいるらしい。「我々にも同業者がいるのです。そのためにはより進藤化学工業が一丸となって努力していく……と言うのが本来の流れなのでしょうが」
急に不安な顔と声で、貞之はゆっくり一節をしめる。
こればかりは真実だ、とありさは直感。
「ですが、どうにも意見が合わないようです。本来なら魔法少女はたった一つの目的と命令の元に造られねばならないのですが……どうも中央との間にずれが生じている。魔法少女は社会の公益に役立つ者であり、」
急にみんながそわそわし始めた。ぼそぼそと声が聞こえる。
意見が合わない? 一体どういうことだ? 今まで魔法少女は進藤化学工業の元に統率されてきたというのに……。
社長の意図は一体どこだ?
だが進藤貞之はこちら側の困惑など我不関、
「しかし、まだ分かり合える余地はあります。なぜなら、この程度の内紛は今までに経験したものですから。その度に、この進藤化学工業は偉大なものとなったのです」
「この私、進藤貞之としてはそのような事件が起きるのを喜んでいません。是非とも異界生物研究部門の指導層と話合って問題を解決したいと存じております」
それから、笑顔を絶やさず、右手を胸に置き、
「ご安心ください。私は魔法少女の味方でありますから」
社長の顔が一面の黒に沈み、数秒後、ゆっくりといつもの空が浮上。心なしか、雲の数がいつもより多いような。ありさにとっては、その雲はまるで疑念を隠すように見えてならなかった。一体、あの男は何をしゃべりたかったのだろう?
いや、それ以上に、芹奈や龍光の間に何があったというのだ……?
栞すら、茫然としていた。よほどこの宣言が衝撃的だったらしい。まるで大切な人に別れを切りだされたかのような衝撃。
だが、ありさの顔を見ると、色を一気に明るくした。
「会ったね、ありさ!」
ありさの顔を視て、栞は本当にうきうきしていた。あの口約束を本当に忘れてはいないらしい。
「ちゃんと、聴いてたの?」
「そりゃもちろん! つーか、聴かない方がおかしいよ、ありがたいお言葉なんだし」
皮肉じゃないらしい。
「何だか、すごく面食らった顔してたけど?」
「そんな顔、してた?」
首をかしげる栞。
「いや……滅茶うたぐってる顔してたから!」
図星を突かれた時みたいに、決まりの悪い顔。
「社長と芹奈様との間に何かあるなんて思ってなかったから。そんなこと考えてたなんて」
「でも、まあ私に変に考える権利なんてない。ただ上の命令に従うだけだから」
本当にそれでいいのか? と言いたかったが、これ以上自分の疑念を推しつけて危険人物と見なされるのは良くない。
まず栞の方から先に、ありさの両肩をつかんで、目立たない隅へと導かれ、
「それよりも、私との約束、忘れてないよね!?」
急に唇を波のように曲げて笑った。
その迫力に思わずありさは気おされ、先ほどまでの冷静さなど失ってしまう。
「えっと……確か、夜更かしして……話をする、みたいな?」
「そう! 部屋の中で私と一夜を共にするの!」
喜々として告げる。なぜ、この地下世界にこんな変人しかいないんだ。
まだ会って日数も経てないのに、過剰なまでの栞に気持悪さがあった。
「私は、まだ、栞さんの部屋をのぞいたこともないのに……」
「あ~、私の部屋って汚いからね、整理しなきゃいけない。でも今日話したい気持もあるし……」
「今日、話さなきゃならない理由が?」
「明日って言ったじゃない。違うの?」
異様なまでに、顔が近い。そして、表情から喜びがどんどん消えつつある。これは、拒否しておくとまずい。
「そ、そうだったね、今日じゃいけなかった」
再びぱっと微笑を浮かべる栞。身勝手なまでにありさを翻弄しようとする。
「分かってるじゃん。じゃあ、お風呂で語りあかさない?」
「う、うん……」 途方に暮れてうなずくありさ。
「よし! じゃあ、午後四時に集合ね」
時計と、液晶の空模様で確認するしかない時刻を告げて、約束を取付けさせる。
言った内容が定まってしまい、ありさは処刑の瞬間を待つ死刑囚だった。他に不満を訴える相手もいない。
駅のプラットフォームのような屋根の向こうにはいまだに太陽が照続け、空は淡い色に変じていく。
するとその横に織香が通りかかってきた。
「お、織香さん」
あの時は……、と言いかけて、そこからが出てこない。
「命令違反――」
話しかけようとした瞬間、いきなり口を塞がれた。全くおかしみなど存在しない、真摯そのものの視線。
「あなたの部屋で話したいことがあるの」
なぜ、ここまで自分は好かれる(ような態度をとられる)のだろう。まるで他の魔法少女たちがまともではない(実際そうなんだけど)かのような気がする。
「でも、今は何も言えない。ごめんなさい」
間違いなく、あの時のコトヨオオグモたちとの戦いについて言いたいのだとありさは思った。だが、それ以上にこっちが知りえないことをも言いたげな顔だった。
ありさはもうそれ以上何も話せず、織香がそっけなく通り過ぎるのを後ろから見つめることしかできなかった。そしてそんな二人を、遠くから密かに弥良がにらんでいた。
弥良は違和感を覚えずにはいられない。なぜ、あのような娘がこの練兵場にいるのを許しているのだ。よく、異界生物の討伐から生還してこれたと思う。私なんて、先輩の犠牲を尻目に逃出すしかなかったのだから。
栞はまた別の意味で厄介な奴だ。自分が一体どんな存在に対して従っているのか、まるで考えようとしない。まるで狂信ではないか。
私は違う。きちんと魔法少女としての責務を考えながらも、それが進藤化学工業の発展に弊害をもたらさないように心がけている。
あの進藤社長の言葉は人を惑わそうとしてのものではない。芹奈様や龍光様に対して何か不満を持っている。魔法少女の開発上での不満だ。不満とするなら……誰に対してか。