孤独な頃
「主様、主様!」
目を覚ますとそこには心配そうな顔でこちらを見つめる黒豹族の少女が居た。灰色ががかった黒髪に浅黒い肌、薄暗い寝室の中で金色の瞳だけが浮かんで見える。
「おはよう、クロエ」
ヒロトがそう答えれば暗がりでクロエはほっと胸を撫で下ろしているのが分かった。
「主様、大丈夫? なんかうなされてた」
「ああ、大丈夫だよ」
既に解決した話である。あの後、八戸弁護士――ショウの父は手前勝手名な主張を繰り返す親戚共を法律の専門家として捻じ伏せてくれた。
それでもなお執拗な電話攻撃、連日にわたる自宅への押し掛けが続いたが、ヒロトは既に八戸家で匿われている。結局、家主の許可なく勝手に家に入り込んだという理由で不法侵入罪で親戚共に訴訟を起こすと脅しもかけてからは一切連絡も来なくなった。
程なくして唯一の味方であったはずの祖母まで亡くなってしまったヒロトに、一人でも生活に困らないようにと全寮制の学校を紹介してくれたのも八戸弁護士だった。
「主様……」
「本当に大丈夫だから。ちょっと夢見が悪かっただけだって」
ヒロトが笑って上半身を起こせば、クロエがぎゅっと抱きついてくる。
「ちょっと、クロエ……?」
「嘘だよ、主様。まだちょっと震えてる」
ふと視線を下げれば彼女の言う通りだった。
「大丈夫、心配、要らない。私が、守る。ウォルターおじいちゃんもルークもキールも居る。だから主様は絶対に大丈夫」
震えた声で、今にも泣き出しそうな声でクロエは言った。
「うん、ありがとう……クロエ」
ヒロトはそう言って頭を撫でた。
――僕はもう独りじゃない。
心がそう理解した瞬間、体の震えはすっと消えていたのだった。
「あー!」
玉座の上、天を仰いだ。コアルームはいつもの如くじめっとしていて薄暗い。まるでヒロトの心情を表しているかのようだった。
コタツの天板にべろんと寝そべり、一人悶えた。悶死しそうである。
いい歳して悪夢に怯え、それをよりにもよって年下のクロエに見られていたのだ。しかも慰められてしまったなんて恥ずかしいったらなかった。なんかこう狭い穴とかに隠れたい気分だ。コタツとか丁度いい塩梅である。早速ヒロトは亀になった。
うつ伏せに寝そべり、目を瞑る。
じゃあ誰だったらあんな醜態を見せられたたのかといえば実際には誰にも見せられないだろう。奴隷達は論外、ジャックは他人、キールやウォルターならいいのかといえばそれはそれで男の矜持が許さない。
ふと一人の女性が脳裏に浮かぶ。
雪原のように輝く銀髪、凪いだ湖面を思わせる碧い瞳、生真面目で誠実、少しだけおっちょこちょいで、食い意地の張っている麗しき女神。
「ディアさんかなぁ……って、なんでだよ、そんなの一番見せられないじゃないか……」
「私が、何か?」
「うひゃぁあぁ!?」
視線を戻せばすぐそこにはぴしっとしたビジネススーツに身を包んだ神族女性が立っていた。高貴なる神の一柱だというのに太ももに食い込んだ黒いガーターベルトが妙に生々しくていやらしい。ちょうど角度的にも際どくてそこまで考えてヒロトはぶんぶんと頭を振った。
「あ、いや、何でも……本当に何でもないんです……そんな事より、今日は早いんですね?」
ヒロトが強引に誤魔化すと、これ以上追求するつもりもないのかディアは応じてくれた。
「担当するダンジョンマスター達は皆、ダンジョン進攻やその準備に大忙しですから」
今日は一二月二五日。すでに<クリスマス大作戦>は決行されている。更に六日後には<初日の出暴走>も始まるはずだ。他のダンジョンマスター達は玉座に張り付いて進攻部隊へ指示を出したり、進攻ルートを考えたりで忙しく相手にされないそうである。
スタンピードの状況はダンジョンのモニターから確認出来る。モニター映像はリアルタイムだが、こちらからの命令は伝わるまでに一時間ほどが必要となるし、指揮官から配下に伝わるまでに更に時間が必要となるため、常に見張っていないといけないのだ。何せ指示を出す時というのは大抵、激しい戦闘が行われている最中か、指揮官でさえ判断を下せない状況に陥った場合なのである。
「ところでダンジョンバトルの準備は終わっているので?」
「うん、もちろん。あんまりやる事ないし。今は<迷路のメイドさん>達がパーティーの準備をしてるはずだよ」
奴隷達のほとんどに休暇を与えている。スタンピードの進攻具合によっては年明けから<メイズ抜刀隊>に再び出兵してもらう可能性があった。今のうちに少しでも体を休めておいてほしい所であった。
「それは無用心が過ぎるのでは?」
「いやいや、大丈夫ですって。相手はショウだよ?」
親友であるショウが攻めて来るはずもない。ヒロトは久しぶりの――家族がなくなって以来だから五年振りとなる――クリスマスパーティーを心待ちにする単なるパリピと化していた。
ヒロトの中でこれはダンジョンバトルじゃないのである。親友との再会であり、これから二四時間、適当にだべって時間を潰すだけだ。防衛もへったくれもない。
コアルームに来てもらって、コタツに入ってミカン――この世界ではオレンジしかないが――でも食べながら昔話に花を咲かせるのもいいだろう。そのままコンロを持ち込んで鍋パもいいかも知れない。既に夕飯の食事メニューまで考えていた。
これは重傷だとディアがため息を吐く。
「ほい、主、オレンジと籠、持ってきた。でも本当に小さいのでよかったの?」
「おお、いい感じだ。ありがとうクロエ」
コタツの中央に籠を置き、オレンジを積み上げる。
「クロエさんまで……」
「ディア、大丈夫。心配しなくたって皆ダンジョンに居るから。今は総出で装備の点検や物資の搬入をしてるはず」
クロエの言葉に、ディアはほっとしたように息を吐いた。
「クロエ、今日は皆に来なくても大丈夫だよって伝えておいてよ」
「お休みだからこそ主様と一緒に居たいだけ。気にしないで。私も主様の友達に会いたい」
「そっか。じゃあバトルも一緒に行こう。ショウを紹介するよ……ショウだ――」
「待って、主様。それ以上はいけない」
クロエは戦慄する。普段は物静かな――根暗といった方が正しいかもしれない――ヒロトがこんな下らない冗談まで飛ばすほど浮かれている事にだ。
「……やはり少し油断しすぎではないでしょうか。確かにそのショウという男は確かにヒロト様の親友だったかも知れません。しかし今はダンジョンランキングを競い合うライバルですよ」
「いや、ライバルってなら学校に居た時だって同じだよ」
各学期で行われる中間テストの順位や期末テストの結果は毎回廊下に貼り付けられていた。ヒロトの通っていた学校は結構な進学校だったのでそういった意味ではダンジョンマスターになる前からライバルだったといえる。
「違います、これはダンジョンマスター同士の生存競争なのですよ! 一体、どうしたのですか……いつもは慎重で柔軟で準備に準備を重ねて動く貴方が、どうして今回はこんなにも無防備で無用心で頑なで……」
ディアは小さく息を吐く。それはまるで怯えた仔熊が立ち上がる事で虚勢を張っているように見えた。
「今の貴方はまるで誰かに脅されているように見えます」
「――違うッ! 僕は!!」
「主様、落ち着いて」
クロエが興奮している主人に抱きついた。薄い胸で口をふさいでしまう。
「……お前、もう黙ってろ」
主が意図して――頑ななまでに――油断している事は認めよう。しかし、そんな事を指摘してどうしろと言うのか。ダンジョンバトルまでもう数時間もない。そんな短い時間で主の負った心の傷を癒せるとでもいうのか。
だからクロエは適当に話を合わせる。一緒に油断してあげる。その上で、信頼する仲間達と連携して迎撃準備を完璧に整えておけば何の問題もない。
「行って。私が取り成しておく」
「……すいません、クロエさん。また後ほど」
ディアは獣人少女に頭を下げると、コアルームから出て行った。
半ば追い出されるようにコアルームを辞したディアはダンジョン上層のとあるエリアに向かった。
この一画はヒロトが許可した者――奴隷達の他にはディアのみ――だけしか入る事が出来ないようになっている。言うなればスタッフオンリーの関係者専用スペースみたいな扱いだった。
主人が油断しているからと言って、部下までそうなっているとは限らない。クロエのある程度は態度から察していたもののやはり自分の目で見たほうが納得出来る。
そしてディアは胸を撫で下ろした。
ドワーフ奴隷達が鎚を振り、高価な銀製装備を創り、子供達がシルバースライムを屠っていく。
総員二〇〇〇名の戦士達が勢ぞろいしていた。ヒロトが僅か二年足らずで作り上げた頼もしき軍勢であった。構成員のほとんどが一五歳前後の子供達だが、今では三ツ星冒険者と同等の実力を持つ戦士にまで成長した者さえいる。
奴隷達は素振りをしたり、連携訓練をしたり、あるいは胡坐を掻いて静かに精神統一を図っている者もいる。
それぞれが出来る準備を黙々とこなす姿はたくましく、その横顔は少しだけあどけない。幼くて頼もしいそれがヒロトの軍勢の特徴であった。
「おや、ディア殿ではないか。珍しいのう。いつもは主にべったりじゃというのに」
ディアがその大きな胸をひっそりと撫で下ろしていると、白髪の偉丈夫が声を掛けてくる。元竜殺しの英雄ウォルターであった。
「申し訳ありません、ウォルター殿。目障りであれば去ります」
「誰もそんな事は言っておらんじゃろうに。それにディア殿は身内であろう? 気にする事はあるまい。そもそも今回は主が悪い」
「……えっと、あの場に居られたので?」
「クロエも主の様子がおかしいと言っておったからな。真面目なディア殿のことじゃ、大方今言わんでもいいような忠言でもして怒らせてしまったんじゃろう」
「……ご慧眼で」
恐ろしいほどに鋭い洞察力だった。ディアは密かにウォルター老への尊敬の念を強くする。
「気にすることはないぞ。むしろ助かっておる。子供達はちと主を好きすぎるでな? 妄信といってよいじゃろうよ。誰も主の間違いを指摘できない。少し危うい状況じゃないかとワシは思っておる。お主がおらなんだら、ワシが口煩く文句を言わねばならんところじゃ」
「……恐縮です」
ウォルターには奴隷紋による拘束が効かない。奴隷紋による命令は気の弱い者ならショック死するほどの激痛を与えてくるのだが、かの竜殺しは平然とその苦痛に耐えてしまう。
凄まじい胆力だ。痛みなど我慢すればいいだけだろうとばかりに彼は自分を貫く事が出来る。そして必要とあらば命を賭してでも諫めるであろう。
人間は愚かだ。だか同時にウォルターのような傑物も生み出す。ディアが人間を見捨てられないのは、きら星のような人格を生み出す可能性を愛しているからなのだ。
「まあ、むさ苦しいところじゃがゆっくりしていっておくれ。誰か……メイサが良いか、ディア殿にケーキと紅茶でも振舞ってやってくれ」
「……はい、お師匠様」
素振りをしていた少女は渋々といった風に答えた。そのまま厨房へと駆け出していく。
「ウォルター殿、構いません。皆さん忙しいでしょうし」
「遠慮なさるな。身内じゃろうに。実はメイサは甘いものに目がなくてな。一緒にケーキが食べられると心の其処では大分喜んでおる。お主と一緒じゃな」
「なっ!」
ウォルターは穏やかに笑いつつ、奴隷達の指導へと戻っていった。いつの間にか戦闘準備を終えた者達が揃っていた。
「よし、今日は調整だけじゃぞ」
「素振り一〇〇本! 開始!」
ルークの号令と共に子供達が一斉に鍛錬を開始する。
「よいか、鍛錬は決して裏切らぬ。技を体に染み込ませよ。いざという時、頭よりも先に体が動いてくれる。助けてくれる。何せ体とて死にたくはないし、怪我だってしたくないからの」
ウォルターの指導には的確で丁寧だ。剣先が鈍れば原因を指摘し、的確な修正方法を提示する。体が覚えるまでそれを根気よく続ける。その丁寧な指導者っぷりには戦神の一柱であるディアでさえ舌を巻いた。
「はい、師父!」
ルークが声を上げた。この二年弱、誰よりも真摯に訓練してきたのがルークである。そして強くなり成果を挙げた。今は眷属という特別な位置にいる彼の背中を、子供達は必死になって追いかけている。
――なるほど、これは強くなるわけです。
特殊な環境に置かれているにも関わらず、<迷路の迷宮>の子供達には驚くほど素直だ。それは主人の穏やかな性格に豊かな食生活や整えられた住環境が与えられている事も理由にはあるだろう。しかし急に力を得ると暴走しがちなのが人間という生物の特徴である。それがしっかりと抑えられている背景には間違いなくウォルターが存在している。
「メイサ、そんなに食べたら後で気持ち悪くなりますよ?」
「あ、ごめんなさい、ディアさん……おいしすぎて……」
少し素直すぎるのも問題だな、とディアは微笑む。よほど甘い物が好きなのだろう口の回りにべったりと生クリームを付けている少女を見てふと思う。
頬を触ると自分にも付いていた。
――私もこんな風に見られていたのでしょうか。
ディアは言いようのない不安感に駆られるのだった。




