幕間 高貴なる者の務め
狭い狭いと嘆いていたこのリビングも、家具の一切が取り払われると途端に広く見えるから不思議だった。
「力及ばず……申し訳ありません」
執事服に身を包んだ紳士が深々と頭を下げる。
「何を言っているんですの? ラウルは充分に働いてくれましたわ」
エリスはそう言って振り返った。光輝く黄金色の髪が揺れる。金髪、碧眼、縦ロール。整った顔立ち、高貴な令嬢然とした出で立ちには深い疲れの色が見えていた。
「ラウル、よくぞここまで付いてきてくださいました。貴方の忠節に心からの感謝を」
エリスはラウルの手を取り、美しい双眸で見つめる。エメラルドグリーンの瞳には真摯な感謝の色が浮かんでいた。
オルランド王国北部の雄、ロンスヴォー辺境伯家はこのほど没落した。
原因は半年前、王国ばかりか大陸中で一斉に起きたスタンピードのせいだった。領内に突如として現れた魔物の群れ。千を超えるゴブリン、オーク、オーガといった悪鬼共が領内を荒らし回った。
何の前触れもなく起こったダンジョンの暴走に、領地は混迷した。近隣の領地はもちろん、王国全土で同じようなことが起こったそうだ。
絶望的な戦力差、援軍は期待できない。そんな逆境の中にあってエリスの父、エリオット・ロンスヴォー辺境伯は諦めなかった。領都に住まう衛士や冒険者を率いて――総戦力僅か二〇〇名という寡兵――魔物の群れに決戦を挑んだ。
戦いは熾烈を極めたそうだ。大地を埋め尽くすような魔物の大群。誰しもが逃げ出したくなる状況にありながらも討伐軍は勇敢に戦い続けた。愛する郷土を、そして何より、この地に住む愛すべき家族を守るために、男たちはその命を使ったのである。
そして彼らはとうとう魔物の群れを討伐した。代償は大きく、討伐軍の半数が死亡するという結果となった。
エリオットもまた帰らぬ人となった。
一人娘であったエリスはロンスヴォー家の後を継いだ。
悲しみに暮れる間もなかった。ロンスヴォー家の当主となったからには父の死を悼むよりも先に混乱する領地の建て直しこそが優先される。
そして凋落が始まった。
まず財政が傾いた。討伐軍に参加した兵士や冒険者達には当然ながら家族がいる。一家の大黒柱を失ったのだ。彼等の働きに報いるためにも残された家族の生活を保障しなければならない。
土地を追われた領民達の生活の保障も必要だった。王国北部は寒冷地であり、領民は貧しい生活を余儀なくされていた。そんな中で魔物に襲われたのだ。もともと厳しい環境で懸命に生きてきた人々は明日の食事にさえ困るほど困窮してしまった。
エリスは人々が安心して眠れるように屋敷を開放した。更に炊き出しを行い、暖かな食事を提供し続けた。
そして私財が尽きた。ロンスヴォー家は元々余計な財を持たず、慎ましやかな生活を送っていたのだ。それでも足りないとばかりに彼女は家にある宝石や調度品を商人に売り、食料を購入していた。
足元を見られたと思う。高価なはずの宝石類でさえ二束三文で買い叩かれた。
それでもエリスは人々の生活を守ることを優先した。執事であるラウルには慣れない商売の真似事を強いた。海千山千の商人達のと交渉は大変だったに違いない。
エリスは志こそ高かったものの、為政者としては無能だった。生活を立て直せなかった者を切り捨てるべきだった。小を切り捨てることで、大多数が救われるなら迷わずに断行すべきだった。
非情になれない為政者に傾いた領政を立て直せるはずがない。
「何もエリス様がここまでしなくとも……領民達は既にこれ以上の無理をして欲しくないとそう思っているはずです」
「民がどう思おうとも私は私のできることをするだけですわ」
きっと父なら同じことをしていたと思うからだ。<高貴なる者の務め>なんて時代錯誤な教えを最後の最後まで貫いていた人だった。
「ねえ、ラウル……お父様は褒めてくださるかしら」
不器用な親だった。他人に優しく、身内にはひたすら厳しかった。一人娘であるエリスは特に厳しく躾けられた。早くに母を失ったエリスに片親だからなんてレッテルを貼らせたくなかったのだろう。領地運営は元より礼儀作法や乗馬、ダンス、魔術や護身術に至るまで徹底的に仕込まれた。
貴族とは名ばかりの慎ましい生活、日々勉強漬けで、合間に厳しい訓練を課せられる。これではまるで奴隷ではないかと一人泣いた夜さえあった。
考えが変わったのは、王都の魔法学園に入ってからだ。華やかな都で、優美な生活を送る王侯貴族。彼らに媚びを売り、私腹を肥やそうと躍起になる商人たち。
反吐が出た。王都は虚飾と打算だらけの下らない場所だと思ったのだ。
父の偉大さが知れた。辺境伯という地位にありながら質素な生活を送り、浮いたお金で王都の学者を呼び寄せるなんてことをしていた。
領地を少しでも富ませようと作物の品種改良を行い、効率的な開拓方法を研究し、少しでも多くの民を生き残らせようと戦っていた。
故郷には虚飾も打算もなかった。正確に言えば、見栄を張る余裕なんてなかったというのが正しい。着飾る暇があれば働く。そして全員が手を取り合う。
さもなければ冬なんて越せない。
父の背中がとてつもなく大きく見えた。
学園を首席で卒業したエリスは、王宮のスカウトを断り、故郷へ帰った。そこに住まう父と、彼を慕う領民がどうしようもなく愛おしくなったからだ。
厳しい言葉よりも優しい言葉のほうが多かったように思う。それでも、事業のひとつを成功させた時、よくやったなと血豆の浮いた大きな手で髪をぐしゃぐしゃにされた時、全てが報われた気がしたのだ。
硬い革靴の音がして、エリスは部屋の入り口に視線を移した。
そこには一人の商人が立っている。黒い礼服をまとった穏やかそうな紳士。しかし柔和な雰囲気だが鋭い眼光までは隠しきれていない。
「エリス様、ですね?」
「ジャック殿でしたわね。遠路遥々ようこそお越しくださいました」
奴隷商ジャック。いや今は武器商人ジャックというべきか。元より業界では有名人だったこの男は半年前のスタンピード事件から頭角を現し始めた人物だった。
まるで王国の混乱を予期していたかのように、大量の戦闘奴隷を仕入れては売り捌き、どこから手に入れたものか希少な魔剣<フェザーダンス>を大量販売して財を成す。
最近では高品質な銀製武具を作り出す新進気鋭の鍛治師集団<メイズ工房>と独占契約を結び、販路を広げている。その勢いは留まる所を知らず、今では王国で知らぬ者のいない大商人にまでのし上がった傑物であった。
「<雪の聖女>を取り扱えるのです。これに色めき立たない奴隷商人はいないでしょう」
「申し訳ありませんが、その名はあまり好みませんの」
「おっとこれは失礼」
ジャックが小さく頭を下げる。<雪の聖女>とはエリスの尊称であった。敬愛する父を失いながらも、私財を叩いて残された遺族の生活を保障。困窮する民への施しを続けたエリスの人気はもはや天井知らずにまで高まっていた。
つまりこの二つ名は、時代錯誤な<高貴なる者の務め>を果たした彼女を称える言葉なのであった。
しかしエリスからしてみれば、亡き父に怒られないよう行動しただけである。別段、褒められるような真似はしていない。むしろ、もっと上手くやれたはずだと叱責されてもおかしくない。
「ジャック殿、こんな場所で申し訳ありませんが、条件のご提示を」
エリスは、客人を立たせたまま自身の販売交渉を始めた。
なにせ、ソファーの類は既に売り払っている。
*
「はい、まずこちらとしましてはエリス様の購入代金として一〇〇万ガイアを用意しております」
それは奴隷一人に付けられた価格としては破格のものであった。
「お嬢様、やはり納得がいきません! どうぞ、お考え直しを!」
執事のラウルが声を荒げる。
奴隷商人が商う物など人間以外にない。
エリスは身売りするつもりであった。何せロンスヴォー家には金がない。金庫はとうに底を尽きており、宝飾品や屋敷の家具さえ売り払っている。生まれ育ったこの屋敷でさえ抵当に入れたくらいだ。
しかしそれでも足りなかった。一〇万を超える領民を救うにはこの程度の財貨ではどうやっても足りなかったのだ。
ならば後は自分自身を売り捌く以外に他にない。
「ラウル、お黙りなさい。その話は終わったはずですわ……失礼、契約の続きを」
「この一〇〇万ガイアを使い、復興支援を行います」
「復興支援の内容を、詳しくお教え願えますわね?」
「はい、まずは領都ブルグスに家を一〇〇〇戸建設します。建設は我が商会が独占受注します。大量受注による大幅な値引きをし、五〇万ガイアを頂きます」
家を一棟建てる場合、普通は一〇〇〇ガイアぐらいする。計画書によれば、デザインや間取りを統一することで無駄や手間を省き、大量受注させることでスケールメリットを発生させ、販売価格を大幅に削減するとあった。
「そして建材には領内の物を使い、建設には困窮した領民を雇います」
領地から取れる資材を使い、木こりや鍛治師、そして建設に携わる人々にも仕事が回る。
「更に一年間、我が商会から食料や医薬品を優先に販売致します。復興計画の詳細、費用の内訳はこちらの書面をお読み下さい」
「……なるほど、素晴らしいですわ」
幼少の頃より領地運営を勉強してきたエリスをして唸らせるほどよく出来た復興計画であった。
復興計画の骨子は内需を高めることにあった。無策に施し続けるだけではいつか資金が底を尽く。まずは資金を投入して、困窮した領民には住まいを与え、仕事を与え、金をばら撒く。
更に食料や医薬品など不足しがちな物資を安定供給することで、領民の生活を安定させるのだ。
これらの施策により、領民の生活水準は上昇していくに違いない。
内需が高まれば商人が集まる。商人達と取引するために職人が集まる。彼等の生活を支えるサービス産業が復活する。こうして傾いた財政は整えられるという寸法であった。
「資金を回収し終えるまでおよそ五年を見込んでいます。そう考えると悪くない投資先ですね。もう少し投資額を増やしてみましょうか」
冗談めかしてジャックは言う。金があれば人々は物を買い始める。彼等はガイア商会から家を買い、支払われた賃金を使ってガイア商会で買い物をするのだ。ガイア商会はエリスの購入代金をおよそ五年で回収できると見込んでいた。
「しかし再びダンジョンから魔物が溢れ出ないとも限りません。その点はどうお考えで?」
「残った資金を使って近日中に近隣の冒険者達を集め、スタンピードを起こしたダンジョンを攻める予定です。幸いにも生まれたばかりのダンジョンのようですから、攻略は難しくともその規模を縮小することができるでしょう」
近隣領地から冒険者等を掻き集めれば、生まれたばかりのダンジョンぐらい攻略することくらいわけもない。
「また冒険者は大金を稼ぐ存在であると同時に、大量消費者でもあります。彼らを支援することで更なる内需を呼び込むことができるでしょう」
冒険者は荒くれ者で治安の問題なんかも出てくるが、同時によく食べよく飲みよく使う存在でもあった。宵越しの金は持たないなんてポリシーを掲げる冒険者も少なくない。
「……本当によく練られた復興計画ですわね。流石、飛ぶ鳥を落とす勢いのジャック商会ですわ」
内需を高めることで経済を回す。言うなれば領民自身に復興を任せてしまうというアイデアは、自分では絶対に思いつかなかったものだ。
エリスにとって民とは守る者、慈しむ者でしかない。
「いえ、この復興計画は、私が懇意にさせて頂いている賢者様による発案でして」
「そうですのね……その賢者様には心からの感謝を」
その後、エリスは何度も何度も復興計画書を読み直した。ことは領民に関わる。僅かな漏れも見逃すまいと目を皿にして確認を続けた。
「よいですわ。早速、契約を結んでいただいても?」
「お嬢様!」
「お黙りなさい、ラウル! この手段をおいて民を守る術はもう他にないのです!」
エリスはそう言って忠臣を黙らせると、左胸に手を置いた。
心臓に直接、呪いが刻み込まれていく。
胸が焼けるように痛んだ。エリスはその痛みを自らの誇りや魂といった大切な何かを他者に奪われる感覚として捉えた。
――これが奴隷に身をやつす感覚ですのね。
一流の魔法使いであるエリスは、自身に課せられた呪いの性質を本能的に理解できてしまうだけに余計に、ともすれば嘔吐しそうになるほど不快だった。
「ありがとうございます、ジャック殿……どうぞ、我が民をお救いください」
「必ずや」
エリスは最後に残った貴族としての矜持でそんな台詞を吐き出し、ジャックは奴隷商人らしからぬ誠実さで応えた。
契約は為された。
執事のラウルは目を瞑り、聖女の言葉をかみ締める。
「ジャック殿、私にも奴隷契約を。その代わり、お嬢様に無体を働かないと誓っていただきたい!」
「ラウルッ、取り消しなさい! ジャック殿も決して承諾しないように!」
エリスは目を見開き、声を荒げた。
「取り消しません。これが先代よりお嬢様を任された私の最後の務めです」
「なりませんわ! 絶対になりません! 貴方は最後まで忠節を尽くしてくれました。これ以上、付き合う必要はありませんの! 後は自らの幸せだけを――」
「貴女が幸せになれぬというのに、なぜこの私が幸せになれるというのかッ!」
「……ッ!」
老紳士が放つその迫力にエリスは口ごもった。ラウルは一転して穏やかな笑みを浮かべる。
「不遜なことを申せば、私にとって貴女は忠節を尽くす主人であると同時に大切な娘でもあるのです」
ラウルがそっとエリスの手を取った。
「幼い頃より貴女を見て参りました。腕の中にすっぽりと納まるほどだった頃からです。
知っておりますか? 親にとって、子供の笑顔こそが宝なのです。私はエリス様の笑顔に何度となく癒され、励まされてきました。
エリス様は雨の日も風の日も一日の休みもなく勉学に励まれ、厳しい訓練を課せられ、それに耐えておられました。
きっと辛かったでしょうに、それでも偉大なエリオット様の背中を追いかけ、苦しみ、嘆き、もがきながらも立ち上がって、前に前にと進んでおられましたな。
泣きつかれて眠る貴女を何度も見てきました。ただ見ていることしかできませんでした。
そんな辛い環境にあって貴女様は立派な為政者へと成長されました。民を想い、民に尽くし、その身を投げ打ってまで救おうとしている。
そんな貴女様をどうして見捨てられるでしょう。どうして切り捨てられるでしょう。
どうして代わってあげられないのか!
私は悔しくて仕方がない! 私は大切な愛娘を犠牲にして幸せなど得たくない!」
「何と……愚かなことを」
「ふふ、お嬢様には言われたくありません。貴女様が覚悟を決められたように、私も覚悟を決めたのです。エリス様が自らの幸福を捨てられたのなら、私だって捨てるだけ。落ちるなら、落ちるならどこまでも一緒ですとも。後は、地獄の先のその先までこの忠節を貫くだけ」
「馬鹿ですわ! 本当に馬鹿者ですわ!」
エリスは顔を歪ませるとラウルに抱きついた。ラウルはそれを受け止め、ガラス細工に触れるように抱きしめた。
嗚咽を漏らす二人を見て、奴隷商人ジャックは息を吐いた。
二人の販売先は既に決まっている。何としても売り込んでみせよう。例え二束三文の値しか付かなくとも構わない。
彼らの行く末を願うなら、あの場所以上はない。
「それではご案内いたしましょう」
こうして二人は、王都で活躍するとある賢者の元へと送られるのだった。
一旦、更新は中断させて頂きます。
ほんと中途半端なところで中断してしまって、申し訳ありません。




