氷の彫像
「何て強大な魔法……」
上階から感じた恐ろしいまでの魔力の奔流に<真祖吸血鬼>シエルは思わず足を止めた。
「シエル様……」
もしも自分一人ならこの場から逃げ出していたかも知れない。
「大丈夫。参りましょう、そしてマシロちゃんを守るのよ」
しかし、この螺旋回廊の更に上には命よりも大切な主人が居る。むしろあれほど強大な敵に襲われていると思えば馳せ参ぜぬには居られないと心が熱く燃え滾る。
走る。階段を昇るたびに気温が下がっていくのが分かった。吐息でさえ瞬時に凍りつく極寒の世界に突入する。
そこは戦場にあるまじき美しい光景だった。
螺旋回廊は氷で出来た薔薇園へと変貌している。白んだ空気の中、透明な氷の荊が蔓を伸ばす。そこかしこに真紅の薔薇が咲き乱れ、見た者の心を揺り動かす。
しかし優れた魔術師でもある<真祖吸血鬼>シエルには、この光景がおぞましくて仕方がなかった。蔦の一本一本が、荊の一つ一つが、咲き乱れる薔薇の花弁の一枚一枚が濃密な魔力を封じた凶器である事が分かってしまうからだ。
「<火炎結界>!」
シエルは結界を展開する。<火壁>の上位魔法に、血色の花弁が殺到する。
「後退しながら結界を!」
貫通。シエルは後ろに跳び退りつつ結界を形成する。反応が遅れた部下が氷の刃に切り刻まれて絶命する。
「何という威力……」
結局、花弁の刃はシエルが作り出した三枚目の<火炎結界>を突破し、背後の部下が作り出した一三枚目の<火壁>を破壊した。
逃げ遅れた部下は三分の一ほど。その内の半数は即死しており、残りも半死半生の重傷を負っている。
「救助を! いえ、その場で結界を維持してください!」
シエルが言い切る前に、荊の蔓が伸ばされ、傷ついた仲間達を引き摺り込んでいった。部下の命を触媒にして再び満開の花が咲く。
シエルの前に立ち塞がったのは敵の命を糧にして成長する古代魔法だった。それはある種の魔法生物といっていい代物であろう。
「強行突破します。総員、<火炎槍>の準備を。一斉掃射の後、突貫します! 三、二、一!」
シエルがカウントを終えると同時、頭上を三〇発もの火炎槍が飛び越えていく。
<連鎖>が発動する。地獄の業火と化したそれが棘の生えた蔓を焼いていく。
――これだけの大魔法、どこかに核が存在しているはず!
シエルは単独で突撃する。これだけの魔法を前に、一般兵は足手まといにしかならないからだ。
迫り来る荊の嵐を躱しつつ進む。シエルの進行方向へ割り込むように銀色の人形が躍り出た。
「キシッ!」
三ツ星級<ミスリルドール>。<シルバードール>から進化したゴーレム系モンスターだ。その膂力や耐久性は大本である<ゴーレム>ほどではないがその分、恐ろしいスピードを持つに至ったモンスターだ。
「死になさい!」
同等級ではトップクラスの性能を誇るそれも<真祖吸血鬼>にとっては足留めにしかならない。突撃の勢いをそのままに刺突を繰り出す。
細剣は掲げられたミスリル盾ごと敵を串刺しにした。
「キ!」「シッ!」
左右から回り込んだ別の<ミスリルドール>から槍による突きが繰り出される。
シエルはすぐに飛び退いた。再び突撃。更にもう一体を屠る事に成功する。
「一〇体以上の護衛、そして強力な魔法……中々、骨が折れますわね」
襲撃は失敗した。ただ攻撃の度に一体ずつでも護衛は排除出来ている。この意味は大きい。この突撃を後、一〇回繰り返せば護衛を倒しきる事が出来るという事なのだ。
――あの魔術師さえ手を出さなければですが……。
螺旋回廊の上層階には純白のローブを纏った魔術師が立っていた。凄まじい魔力の持ち主だった。四ツ星級<真祖吸血鬼>たるシエルをして、格が違うと確信してしまう。
不意に魔術師が腕を振った。
――何かが来るッ!?
シエルは魔術師へと全神経を集中させ――膝を付いた。
「なに、が……」
シエルは衝撃を受けた背中を見る。
そこには三本の爪痕が刻まれていた。
「シエル様!」
「おのれ、魔術師め!」
吸血鬼の部下が翼を広げ、回廊から飛び出した。螺旋回廊の中央は吹き抜けになっている。氷の荊の勢力圏から逃れつつ、術者を直接討とうという算段のようだ。
「お止しなさい!」
シエルの制止も空しく悲鳴が上がる。
「何だ、うごけな、ぎゃあぁあぁぁッ!」
部下は魔法使いの元へ到達する前に何かに絡め取られてしまっていた。
突如として虚空に浮かび上がる魔杖――その柄頭に埋め込まれた獣の爪が、剣が部下の心臓を抉り出していた。
「蜘蛛の糸、ミスリルか何かを編みこんでいるようね」
「勝手に通り抜けられたら困るからね。網を張らせてもらったよ」
魔術師は回廊を降りながら言った。再び虚空から魔杖が現れ、魔術師はそれを掴むと優しく撫でた。
「そして……<転送>の魔法を使って武具モンスターを瞬間移動させた……わたくしの背中を傷付けたのと同じ手口というわけですわね」
シエルは敵の策を看破する。
「その通り。転送を使ったコンボです」
知られても何の問題もないといった風に魔術師は答えた。事実、問題ないのだろう。この転移スキルさえあれば致命的な一撃を好きな場所に好きなタイミングで送り届ける事が出来る。
吹き抜けの回廊に風が吹いた。フードが解けるように取れる。そこにあったのは女性と見紛うほどの美貌の少年の顔がある。
シエルが息を呑む。作り物めいた造形美、光を吸い込む黒い瞳が少年から現実感というものを奪い去っているように思えた。
ダンジョンマスター。しかも彼女の主人たる魔王に匹敵するほどの魔力の持ち主。敵対しているギルドの中でこれほどのレベルにまで到達しているダンジョンといえば一つしかない。
「貴方がかの有名な<迷路の迷宮>のダンジョンマスターというわけですね……」
何色にも染まらない漆黒の瞳が魔力を帯びて怪しく輝く。
「何故、貴方がここへ? ギルドバトル中であるにも関わらず。まさか直接、マシ――魔王陛下を害そうとでも?」
「はい、その通り。僕はケンゴ君のおまけみたいなものですけど」
「<王の剣>ッ!? 奴も一緒に来ていると言うのですか!?」
シエルが激しく動揺する。かのダンジョンマスターが口にした名前こそ昨年末に行われたダンジョンバトルにおいて<魔王城>を追い詰めた存在だったからだ。
ダンジョン<王の剣>。<魔王城>が誇る四天王を筆頭に一〇〇を超える精鋭部隊でようやく撃退し得た正真正銘の化け物だ。
魔王たるマシロは強い。古の魔法までを習得した神代の魔術師である。ダンジョンレベルは既に四〇を超えている。今の彼女はその気になれば下級神でさえ殺し得る存在へと進化している。
――でも、アレは不味い。特に相性が悪すぎます。
しかし、最強を誇る<魔王>とて人間だ。弱点の一つや二つは存在している。<王の剣>はシエルが知る中で唯一、魔王を殺し得る存在として認識されていた。
「迷路の主よ。その道を通しては頂けませんか?」
「悪いけどそれは無理かな。僕の役割は君達、増援部隊の足留めだから」
「なれば押し通ります……貴方を殺してでも」
「どうぞ、やれるものなら」
ヒロトは断ると魔杖を構えた。少年を取り囲むように次々と氷の精霊が生まれていく。
――精霊の召喚……温存して勝てる相手ではありませんね。
シエルは懐から血色の石を取り出し、口元へと放り込んだ。牙を突き立て噛み砕く。
「うおおぉオオオォォオォォォ――ッ!」
飛び掛る理性を、湧き上がる破壊衝動を咆哮によって押さえ込む。
シエルの美貌が変わっていく。金色の眼は瞳孔が縦に割れ、鼻は膨らみ、耳が伸び、一対の牙が伸びる。背丈が伸び、手足は膨張し、長い爪は刃の如く磨かれていく。
怪物。
そう吸血鬼は怪物なのだ。彼等は人間の血を啜り、力を高める生粋の魂喰らい。
別に血液でなくても構わないのだ。たまたま血液が吸収率がいいだけに他ならない。魂を含んでいるのならどんな形だって構わない。
シエルが先ほど口にしたのはこれまで倒した敵の命そのものだった。奪った魂を体内に取り込む前に特殊な宝石の中に移し封じ込めたのだ。
過剰供給。<真祖吸血鬼>といえど一度に消化できる魂には限度がある。しかし大量の魂を一度に取り込めば吸収できない余剰分がそのまま肉体強化に使用される。
「その不遜、死して償え!」
人の形をした化物が飛び出す。無数の氷の蔦がシエルに殺到するも、彼女は爪の一薙ぎでそれらを切り払ってしまう。
「ギシッ!」
「遅い!」
それは正に黒い暴風雨。内圧に耐えてきた漆黒のドレスが千切れ飛ぶ。迫る<ミスリルドール>を単純な怪力で以って叩き潰す。
「凄い力だ……下手したら巨人も凌ぐんじゃないかな」
ヒロトが呟く。ミスリル製のゴーレムを素手で叩き潰すその膂力は凄まじいの一言だ。本来の姿を見せた<巨いなる暴君>ティティほどではないだろう。しかし二メートルほどにまで成長した巨躯からは尋常ならざる破壊の力を生み出す事が出来る。
ヒロトは召喚した氷精霊をけしかける。無数の氷柱がシエルに殺到する。
「ゴアアアァァァァッ!」
シエルは迫る脅威を無視した。急所だけを腕で守り、そのまま突撃を敢行する。
「ごめんね、子供達に無事に帰るって約束したから」
ヒロトが魔杖を振った。
「其処だ!」
シエルは地面を転がって避けた。左腿が僅かに凍りつく。だが、傷は浅い。動きに支障はない。
転送を使った一撃には僅かなタイムラグがある。時空の裂け目が生まれてから、そこに魔杖が通り抜けるまで僅かな時間差が発生するのだ。
本来なら避け得ない致命の一撃。高位ダンジョンマスターの攻撃である。普段の彼女なら反応する事さえ出来なかっただろう。
しかし、シエルの限界を突破した身体能力が不可能を可能にした。死角から繰り出されるそれを直前で感知し、反対方向へと加速、敵の攻撃を置き去りにしたのだ。
「終わりだ!」
邪魔者を掃討し終えた吸血鬼は爪による斬撃が迫る。その一撃は破城鎚をも凌ぐだろう。
驚愕の表情を浮かべる少年――シエルは勝利を確信し――
氷の彫像の中に閉じ込められた。
「……これは」
シエルが呟く。気が付いた時には首から下が氷の蔦の中に埋まってしまっていた。
「君の突撃に合わせて魔法を転送したんだよ。僕が考えたオリジナルのコンボ技。あえて名前を付けるなら<石の中にいる>かな」
実際には氷だけど、とヒロトは微笑する。
転移魔法は非常に危険な魔法だ。例えば転移予定位置に何かしらの物質が存在していた場合、術者はその物質を取り除く事が出来ず、体内に埋め込んでしまうなんて事態が起きかねない。
転移魔法が最高難度の魔法とされているのは、こうした想定外の状況に備えて幾つもの安全装置がついているためなのである。
その危険性をヒロトは利用した。シエルがこちらに近づいてくるのは分かっていた。だったらタイミングを合わせて<冱てる死人達の薔薇園>を転移させればやればいい。
飛び込んできたシエルは氷の荊の中に閉じ込められてしまう。
「転送に使い、道が……」
シエルの身体に無数の棘が突き立つ。中の管から赤い血潮が流れていく。美しい真紅の薔薇が蕾を付け、花弁を広げていく。
「マシロ、ちゃん……」
寒い。吸血鬼である自分の末路が、血を吸い取られたことによる出血多量だというのは何だか盛大な皮肉な気がした。
血を奪われる。
命が抜き取られていく。
「ごめん、守れ――……」




