日記11
平和な日記が続く中、ちょっとした異変が起こるのは、その翌日の事だった。
「私は毎日日課にしているラジオ番組を聞いていた。
司会者の軽妙な喋りに気楽に笑っているとき、何か別な声が聞こえた。
しばらくは、近所で何か騒ぎが起こっているのか、とも思ったが、どうも違う。
耳を澄ますと、それは、あの民謡の声のようだった。
あの歌のテープは、書斎で機械に付けたままだ。手でテープを這わさなければならないので付けたままにしておいていた。
電源もそのままだったので、何かの拍子に機械が作動してしまったようだった。
私はこたつをでて、書斎に向かう引き戸を開けた。
青い畳の匂いがした。
緑色の部屋が目に飛び込んできた。
私は、青々とした畳の部屋に立っていた。
広い部屋だ。おそらく十畳か十二畳の部屋で、その外は縁側で、外には苔むした庭園が見えた。
爽やかな風が私の顔を撫でていった。
畳の部屋の真ん中に座布団が敷かれ、痩せた老婦人が一人、目を伏せて座っていた。
「継子だがらと お山に捨てられ」
老婦人は、秩父訛りで高らかに歌っていた。
「石の背に乗り お里に帰る…」
私は、老婦人を見下ろしていた。
夫人が、ふと、視線を上げようとしていた。
目が合う…。
咄嗟に、私は戦慄した。
まずい…。視線が合ってはまずい…。
老婦人が、顔を上げていく…。
慄きながら、息を吸い込んだ時…。
「あなた、なに、立ってるんです?」
と、肩を揺さぶられた。
畳の部屋が、蒸発するように消えていった。
私は、元の薄暗がりの世界に引き戻された。
私は、震えながら、妻に何でもない、とだけ言い、こたつに戻った。
扉を開けるのが恐ろしかった。
こたつの上の、冷めたお茶を一気に飲み、荒く息をした。
目を直そうと色々薬を飲んでいたのだが…。
今、見てしまったものが恐ろしかった。
あの老婦人は何なのだろう…。
もし、視線が合っていたら、私はどうなってしまっていたのだろう…。
そして、だんだん落ち着いてくると、ふと気が付いた。
あの声は、あの老婦人の声は、あのオープンリールに録音されている声、そのものだった。




