日記7
「私は、真夜中に飛び起きた。
何年も飲んでいなかった酒を飲んだからなのか、母の声が、幼い私によほど恐ろしく刺さったせいなのか、判らない。
ただ、布団を跳ね飛ばすように起きて、しばらくは肩で息をしていた。
真冬に、暑いわけでもないのに寝汗がひどく、やがて肌寒くなってきた。
電灯はいつも点けっぱなしなので、パジャマを着替え、ついでに水を飲むために台所に向かった。
幼心の恐怖が、そのままいい大人の私を震わせていた。
それほどまでに、母の叫びは恐ろしかった。
沼倉村…。
今まで、すっかり忘れていたが、そうだ、あの村は確かに沼倉村だった。
どおりで、和子との結婚に意固地なほど反対していると思った。
当時の私も、子供ながらに沼倉村の意味合いを、本当に朧気にではあったが、察してはいた。当時の子供は、皆そうだったろう。
そして全くの偶然だが、家内の旧姓も沼倉と言った。
今まですっかり忘れ果てていた幼児期の記憶を取り戻したことは、夢は悪夢ではあったが、また、新しい発見でもあった。
そうだ…。
沼倉村は、今、どうなってしまったのだろう?」
「それでお姑さんは和子さんに辛く当たったのか…」
安彦も、なんとなくではあったが、昔は、そういった差別的な問題があったことは、主にネットの怪談サイトを通じて知っていた。
皆も、判っていたらしく、安彦はスクロールを再開した。
滝沢氏は、しばらく自分の好奇心の落としどころを考えあぐねていた。
事は妻の旧姓もかかわるので、微妙なニュアンスを含んでいる。
姑問題で苦しんでいる姿は滝沢氏も見ていたので、もちろん奥さんに知られるわけにはいかない。
かといって、会社の人間は、皆地元の人間だったから、変なことは言えない。
社長が言った、的に広まってしまったら、秩父の狭い社会とは言え政治問題にもなってしまう。
ずいぶんと滝沢氏は頭を悩ませていたが、ある日、東京の大学に通うため普段は笹塚のアパートに住んでいる娘の双葉さんが、昼日中にぶらりと帰ってきた。
ちょうど奥さんは出かけており、双葉さんは午後の映画放送を見始めた。
「ねぇ、お父さん、裏の山の祠って、何を祭ってあるの?」
「うん、あれか。
祖母さんが熱心にやっていたけど、急に脳溢血で倒れてしまったからな。
俺はああいうものは好きじゃないんで、詳しくは知らないな。確か、どっちかがタゴサで、どっちかがマゴサという神様らしいが…。
あんまり古い信仰なんで、今じゃあ、誰も分からないんじゃないかな?」
「わたし、ちょっと興味あるわぁ」
「ん、柳田国男でも読んだのかい?」
「サークルの友達が、遠野とか花巻に旅行したんだって。凄くいいって言ってたわ」
「ふーん、あっちは温泉でもあったかな? 家族旅行でも行ってみるか?
ああ、そう言えば、父さんが子供の頃には、近くの村でも、遠野物語のような…、なんて言ったかな、子供の神様があったよ。
あそこでは石で作ってあるんだ、顔を彫ってね」
双葉さんはことのほか面白がり、沼倉村への行き方、などを詳しく聞いた。




