相談
翌日、安彦は学校で用事があるから、と言って電車通学した。
たまの事なので、結構、新鮮で面白かったのだが、特に新宿からの山手線は地獄の満員電車だった。
満員電車での場所取りなど分からない安彦は、なすすべもなく人群に流され、電車の扉の空間、ド真ん中に押し込まれた。
満員電車において、左右が扉になっている四畳半ほどの空間。
それは最も過酷なポジショニングと、場所取りに敗れた者たちが、車内の揺れを利用して新たにポジションを奪おうとする無言の駆け引きに満ちた、まさに山手線デスゾーンと言える空間だった。
扉と、座席側面のポール、そして扉を挟んだ向かいの座席までを渡す横棒にぶら下がった吊革。
こここそが芥川龍之介の語る蜘蛛の糸にも似た、このデスゾーンの唯一の安住のポイントだ。
デスゾーンの中央部には、ポールも吊革も存在を許されない、ただ無尽蔵に広がる人々の背中があるだけなのだ。
信じられないことだが、ここでは揺れは何倍にも増強される。隣の親父がよろめけば、その全体重が安彦を襲い、安彦が潰されれば、隣のOLの、ほぼ純粋な殺人兵器であるピンヒールが、容赦なく安彦の足を狙って撃ち込まれていく。吊革か手摺を掴む場所取りに敗れたものは、次の駅までの間、容赦ない潰し合いに晒され続ける。
百キロ近い体重の親父一人でも剛体術を使いたくなるような重さなのだが、朝の山手線には、その列車一両だけでも千人に近い人間が乗っており、その大半が立っていた。
一度揺れれば、ドミノが倒れるがごとく、人々の体重が安彦に襲い掛かる。
逆に揺れれば、OL側の体重が安彦を襲う。
そして、カウンタ-でピンヒールが、人の背中で何も見えない安彦の足元に飛んでくるのだ。
だんだん周りが見えてくると、OLは、初めから自力で立つ気概を持っていないようだった。
隣りに寄りかかりながら、ただクラゲのように漂い、スマホを見ていた。
そのため、一人だけ揺れるタイミングがずれる。
全く揺れに逆らわないため、他の人とは違うタイミングで、巧に四隅に体重を預けながら、少しずれたタイミングで、足を動かしていた。
満員電車の足元は、言ってみれば猫の入った箱だ。
誰の目にも触れないが、確実にピンヒールはそこにあり、予期しないタイミングで安彦の足に落ちてくる。次の駅までの間に、安彦の足が無事である確率は、無事でない確率と重なり合い、計測は全く不能だった。
安彦は愕然と気が付いた。
武術の摂理は、ここでは通用しない。
ただ閉じられた蓋があり、中に猫がいる。
生きている確率と、死んでいる確率が同じだけある、というだけのデスボックス。
予測も駆け引きもあったものではなかった。
安彦はただ、ミキサーの中のひき肉のように、粉々に磨り潰されていった。
渋谷駅に押し流され、よろめきながら改札を飛び出した安彦は、すっかり電車通学を諦めて、学校に歩くことにした。
暗闇の中、四方八方から攻撃されて成す術もなくタコ殴りにされた気分だ。
初めは山手線の恐怖でささくれ立っていた心が、歩いているうちにだんだん落ち着いてきた。
吹雪に、なんとか、もう一日だけ秩父に行ってもらうためには、吹雪に直接アプローチするよりも、やはり幼稚園からの幼馴染という白尾春奈ちゃんに動いてもらえれば、僅かかもしれないが確率が上がるように思えた。
だが春奈ちゃんも、吹雪が一番、仲間を障りで失うのを恐れていることは知っている。
これは、言ってみれば安彦の勝手な好奇心に過ぎないのだ。本来は吹雪の言うように、面白半分で障りに近づくなど馬鹿げた行為だ。
だが、桑の葉が出てきてしまった。
どうしても、確かめなければ心が落ち着かない。
一日だけ、あと一日だけ秩父に行って調べれば、気が済むはずだった。
考えをまとめながら安彦は学校の門を潜った。
森へと続く学校内の道を歩いていると、吹奏部の賑やかな演奏が聞こえてきた。
そう…。
白尾春奈ちゃんを捕まえるには、吹奏部の朝練の終わりを狙うべきだ、と安彦の勘が教えていた。
高等部の吹奏部は、普通学科の音楽室で朝練を行い、八時半ごろには教室に向かう、と毎朝の様子から安彦は察していた。
ちょうど森の入り口、鳥居の傍で待っていると、しばらくして白尾春奈ちゃんが通りがかった。
おはよー、と声をかけ、実は相談があるんだけど…、と囁くと、白尾春奈ちゃんは軽いノリでOKしてくれた。
じゃあ一緒に来て、と白尾春奈ちゃんは言い、カフェテリアに向かう。
朝のカフェテリアは誰もいない、と思い込んでいたが、実は朝練終わりの生徒たちが、あちこち、テーブルに自由に座って談笑していた。
隅のテーブルを選び、白尾春奈ちゃんは座った。
安彦は、廃工場の出来事を一通り語った。
ふーん、なるほどねぇ…、と白尾春奈ちゃんは考え込み。
「それで、あたしにどうして欲しいって言うの?」
「うん、もう一度だけ、俺は秩父に行きたいんだ…。
桑の葉だけでも分かったら、吹雪ちゃんの師匠さんだっているんだし、だいぶ、見立て、は進むと思うんだ。
その、つまりは、吹雪ちゃんが退魔師としては、この物件には関わるのは無理かもしれないんだけど、ここまで調べたのは俺たちなんだよ。もう少しでもはっきりとしたら、見立て料、ぐらいはとってもバチは当たらないと思うんだ。ほら漫画で、原作と絵師が分かれている、みたいな感じにさ。
今井の殿様は顔がきくし、吹雪ちゃんのことを気に入ってるんだ。
殿様が吹雪ちゃんの後ろ盾になってくれれば、今の、一人でアパートに住んでいる現状も変わると思うんだ。
もちろん吹雪ちゃんが、誰も傷つかないように、皆と距離を取って一人でいるのは分かるんだけど…、それを含めて…、今のままじゃ駄目だと思うんだよ。
白尾さんが一緒に秩父に来てくれるんだったら、吹雪ちゃんも少しは考えてくれるかもしれないし、駄目なら仕方がないんだけど…。
何もしないで、このまま終わりにはしたくないんだ。
もし吹雪ちゃんを説得出来たら、明日一日、秩父に付き合ってくれないかな?」
白尾春奈ちゃんは天を見つめて肩を竦めた。
「見立て料ねぇ…。
滅茶苦茶なことを考えたもんねぇ。
まぁ、いいわよ。
もし窪田君が吹雪を説得できたなら、明日は付き合ってあげる」
「本当!」
「でも、あの子の説得は難しいわよ。
誰よりも、周りの人間が傷つくことを恐れているんだから…。
窪田君、頑張ってね」




