中島永信
「あたしは一回りしてから行くから、あんたは教室に帰りなさいよ」
クラスメートには吹雪ちゃんの事情は秘密らしい。
「それに、今日は教えてやったけど、明日からは、あたしを見ても話しかけないでね」
「ええっ、いいじゃない。
喋りながら食べたほうが楽しいし…」
「あんたは全然分かってないのよ。
魔には、この前みたいな力押しの奴だけじゃないのよ。心に入り込むような狡猾な奴もいるの。剛体術だけじゃしょうがないのよ」
早口に言うと、吹雪ちゃんは、プイと歩み去った。
安彦は、その後姿を見送り、はぁ、と溜息をつくと肩を落として教室に帰った。
教室では、やはり吹雪ちゃんは一言も口をきかなかった。
終業のベルが鳴り、安彦は重い溜息と共に車に乗った。
車は、安彦の家のある中野坂上ではない方角に走り始めた。
「あれ? 山本さん?」
「若様、今日はお殿様にご挨拶に参ります」
「あー、今井の殿様に会いに行くのか…」
今井家は江戸時代には今井十一万石の殿様であり、窪田家は武術指南として今井家に仕えてきた。
明治には華族であった今井家は、戦後、今井建設として土木方面で力を発揮し、今は不動産からビルやマンションの管理、警備等に手広く事業を拡げていた。
安彦にとってはクラスメートで今井家の長男がいるため、特に殿様というほどのイメージはなかったが、窪田道場の師弟にも今井グループの社員も大勢いた。
「でも山本さん、急に若様なんて呼ばないでよ」
「いいえ、神様が憑いたのですから、これからは若様とお呼びします」
断固として山本は言った。
渋谷のホテルでシャワーを浴び、礼服に着替え、源重郎と共に芝にある今井建設の本社に向かう。
東京タワーも近い芝大門に今井建設の自社ビルが建っていた。
十七階建てのオフィスビルで、ビルの一角が全面ブルーのガラス張りになっているのが特徴だ。
車が地下の駐車場に停まり、すぐにエレベーターで十七階の会長室に向かう。
この会長こそが、今井グループの全てを束ねる今井増男会長、通称、殿、である。
秘書に取り次がれ、広々とした会長室に通されると、頭を一分刈りにした小柄な老人が笑顔でドアまで迎えてくれた。
「殿、わざわざのお迎え、ありがとうございます!」
「いやいやなんの! ご指南役あっての今井グループ。下までお迎えするのが礼儀でしょうが、なにぶん老体なのでご容赦願いたい」
「いやいやいやいや…」
老人たちは、安彦を放置して、数分間、儀礼的会話を続けていた。
やがてソファーを進められ、座って、初めて本題の話となった。
「殿、我が孫安彦がやりました。神に憑かれたのです。これまで以上に殿の恩為、身を粉にして働く所存、存分にお使いくだされ!」
「そうかそうか! やったな安彦君」
安彦は今井家長男と同級のため、何度か今井家自宅で増男氏にも会っているので、ニコリと笑って頭を下げた。
そこへノックの音がして、秘書が入ってくる。
「会長、退魔師の中島さまがお見えです」
安彦はドキリとした。
退魔師の中島さんといったら、もしや吹雪ちゃんの…?
安彦と源重郎は腰を上げるが、殿は二人を手で制して。
「通しなさい」
と、今までの内輪の話とは全く違う声で、命じた。
安彦は期待と好奇心から扉を見つめるが、入ってきたのは脂ぎった中年男だった。
「中島流退魔術宗家、中島永信でございます」
薄い笑いを浮かべ、中肉中背の男が頭を下げた。
うむ、と殿は、軽く会釈をする。
殿は源重郎と安彦に手を向け。
「彼らは窪田流剛体術師範、窪田源重郎殿とその孫、安彦君だ」
「これはこれは…」
中島永信と名乗った男は、ニタリ、と笑った。
「それで、どうなんだ? 例の廃工場は?」
「はい、疎漏無くお祓いいたしました」
「前回も、そう言っていたのではないかね」
殿の苦情に中島永信は、異様に白い歯を見せて笑顔を作る。
「お祓いは、前回も上手くいっていたのですよ。間違いなく。
しかし、一度穢れた場所というのは、再び穢れやすい。
そういうことです」
歯と同時に、目も剥いているが、その目が笑っていない。
ふん、と殿は荒い鼻息を吐き、安彦を見た。
「どう思うね、安彦君」
言わなくていい言葉は言わない方が良い、と思っていた安彦だったが、殿じきじきに聞かれたら、分かることは話さなければならない、と観念した。
「…、あの、この人、中島さんは、神様は憑いていません」
殿と源重郎は、慌てて中島永信を振り返った。
中島は、目と歯を思いっきり開かせたまま、低く笑った。
「ああ、そういう趣向だったのですか? なるほど…」
唐突に、中島永信は、大声で笑い始めた。
「なるほど…神ね。
あの憑いてる人にだけ見える、って奴ですか、アハハ。
しかも良家の子弟にしか憑かない、とかいう嘘くさい…、いや、失礼失礼。
何も窪田流の皆さんを貶めるつもりはないのですよ。
ただね。
確かに私には神は憑いていませんが、退魔の法というのは、神の憑く、憑かないとは全く関係がないのです。
退魔の法は、千年の歴史を刻んだ化学なのですよ。
その辺が窪田のお坊ちゃんには判っていらっしゃらない」
謳うように朗々と語り、再び、中島永信は歯を見せて笑った。
「いいのですよ。私が信じられない、と言うのならば、中島家はあの工場から手を引いても。
しかし中島以外に、あんなものを祓える組織があるとは思えませんがね」
歯を見せたまま、中島永信は動きを止めた。
ただ、殿を見つめて歯を見せていた。
「よかろう。
だが次に同じようなことがあったら、それなりの手段は用意させるからな」
中島永信は歯を見せたまま、コクンと頷き。
「ご安心ください」
ピシリ、と直立すると、深々と頭を下げた。