赤い病院
「でも、あんた心霊体験なんてしているのね。ちょっと面白そうじゃない。
どんなことがあったのよ?」
吹雪がチリビーンズ丼を頬張りながら聞いた。
「あーあれかぁ」
安彦は自分が霊感ゼロであることを断ったうえで、高橋と行った奥多摩の廃病院の話をした。
「山の中の病院でさ、そっちの方じゃあ赤い病院と言って、かなり有名らしいよ。
なんでも明治か大正の頃に、赤い絵を描くそれなりに売れた画家がいて、その人の赤い絵は、そりゃあ有名だったらしいんだ。
ある時、その画家の恋人が吐血した。
結核だったんだ。
その時ぐらいから、画家の赤い色は、徐々に変化をして、暗い赤、鉄が錆びたような重い赤になって、それは血の赤だ、なんて言われたらしい。
恋人は山の上の病院、結核専用病棟サナトリウムに入院して、画家は病院に近い、麓のなにもない村にアトリエを建てて住んだんだ。
アーティストっていうのは、画家に限らず、その人の人生みたいなものも含めて作品なんだって。
生涯一枚の絵しか売れなかったゴッホ、耳が聞こえなくなり、ピアノを齧って、振動を頼りに作曲したベートーベン。
境遇が作品を彩っていくんだって。
画家の絵は、恋人との悲しい恋愛話が広まるにつけ、ますます売れたんだって。
画家は献身的に恋人に尽くしたけど、その当時の結核は死の病だったので、恋人は画家の腕の中で息を引き取った。
それから画家はアトリエに引き籠り、窓には厚いカーテンをめぐらし、人とは最低限しか会わずに…、ほとんど自殺に近い衰弱死をするまでの三年間に描いた絵は、恋人の姿ばかりだったんだけど…。
画家の絵の中で、徐々に恋人の絵はどんどん細く、独特の画風で描かれるようになっていったんだ。絵というのは、ピカソやセザンヌがそうみたいに、画家が思うさま、実際の描写から昇華させて絵という一つの抽象世界に入っていく…、時代的にも、どの画家も、自分のオリジナルを突き詰めていくような時代だったから、画家の独創の恋人の絵は、高く評価され、隠遁生活を送る大芸術家、みたいな位置を占めていったんだって。
やがて音信が途絶え、付き合いのあった画商も、近所の住人も心配して、警官と共にアトリエを訪れた時、締め切った部屋のキャンバスの前には画家が、椅子に座ってこと切れていて、向かい側の窓辺には、見事な赤いドレスを着た、すっかり干からびて実際に線のように細くなってしまっていた恋人のミイラが、虚ろな眼窩を画家に向けていたんだってさ。
吹雪ちゃんは、チリビーンズとゴーダチーズを混ぜたドンブリを食べる手を止めて、固まった。
「あっ、ごめん。食事中に…!」
吹雪ちゃんは引き攣って…。
「別にいいわよ、毎日、魔と戦っているんだもの。でも、それってアトリエが怖いんで、病院が怖いのじゃないんじゃないの?」
「画家は、当時土葬だった、サナトリウム近くの墓地から恋人の遺体を掘り起こしたんだけど、結核病者の遺体は当時、誰も引き取らないので、再び同じ場所に埋め戻されたんだ。
でも画家はサナトリウムの墓地には入れられないので、今でいう多磨霊園に埋葬されたんだ。
それから、結核の薬が出来てサナトリウムが廃棄されるまでの間、線のように細くなった赤い恋人が、画家を探して歩き回り、また霊園から無人の人力車がサナトリウムを訪れるのは当たり前のようにあったんだ」
「でも幽霊になったとはいえ、恋人たちが病院で出会えるのなら、少しいい話よね」
「ところが、二人は永遠に出会えないでいるらしいよ。
赤いドレスの恋人は若い男に憑き、衰弱死させるんだ。
一方、画家はというと、女性患者に憑くらしい。
その人は赤色を好むようになり、赤い服を着たがって、やがて、自分の血液で真っ赤に染めた部屋の中で息絶えるんだってさ。
今でも病院には、ところどころ赤い血の跡が残っているので、赤い病院って言われるんだけど、そこに出る幽霊は、皆真っ赤らしいよ」
赤い幽霊…、と吹雪ちゃんは呟いた。
「まぁ、確かに薄気味悪いけれど、別に行っても何もなかったんでしょ?」
「うーん、俺は霊感ゼロだからなぁ…。
ただ友達の兄貴の車で行ったんだけど、帰るときになって、皆、あれ…、とか言い出して…」
「何よ」
「いや、来た時にすでに停まっていた車が、まだ停まっていたんだけど、病院では誰にも会わなかったんだ。変だね、とか言っているうちに、誰かが…、おい、この車赤いじゃないか! って叫んで。
赤い服や赤い車に乗ってその病院に来ちゃ絶対ダメなんだって。
で、慌てて逃げてきたんだ」
吹雪はしばらく黙っていたが。
「それで?」
「それだけ。
俺の実話だからね。帰りの車で高橋の兄貴の恋人は気分が悪くなったり、高橋も頭痛がするとか言って、兄貴自身も知らないうちに腕に痣が出来た、とか言っていたけど、俺は全然平気だったよ」
「車の人たちはどうなったのかしら?」
「さぁ。テレビとかなら色々面白く調べたりするんだろうけど、現実は、俺たちの誰も、それ以上調べようなんて思わなかったよ」
「そりゃそうね」
呟くと吹雪ちゃんは無言でドンブリを食べていたが、やがてポツリと言った。
「あたし、幽霊を見たことがあるわ」
「え…そうなの?」
コクリ、と真顔で頷き。
「母様が亡くなった日のことよ」
お母さんが死んでいたんだ…、と安彦は驚いた。
「幼稚園で、あたし窓を見ていたの。
雨が降ってたわ。
頭みたいに大きいアジサイが沢山咲いていた。
その中に、アジサイの中に、母様の顔があったのよ。
母様は病院に入院していたはずだったの。
その時、あたしが何を考えていたのか、とか今ではもう忘れてしまったんだけど、ちょうどお絵かきの時間だったのよ。アジサイの中に母様の顔がある絵。
今もとってあるわ」
話に触覚というものがあるとするならば、何かザラっとした手触りの言葉だった。
痛いのでも、悲しいのでもない、変な触覚。
安彦はそう思った。