神学の授業
「窪田君! それ、どうしたの?」
花を抽象化した髪飾りをつけ、髪の毛を緩く後ろで編みこんで、左肩から垂らした、メガネの少女白尾春奈ちゃんが、安彦の鼓動する神様を指さして、叫んだ。
安彦は困った笑顔で、触った、と教えた。
即座にクラスメートに取り囲まれた。
すったもんだの質疑応答の後、皆は、この神様の状態が正しいのか、それとも間違っているのか、の論争になってしまった。
「いや、正しいとか間違っているとかいうより…。神様に触るなんて有り得ないよ!」
メガネの牧瀬正は、四角い銀縁メガネの位置を気にしながら、語気を荒げる。
「でも禊ぎをして、神棚に参拝して、手順は踏んでいるように感じるわ」
と白尾春奈ちゃん。
「ここはやっぱり、先生に聞いた方が良いんじゃないかな?」
ボウズの伊沢直樹は心配そうだ。
「どうだろう…。
むしろ、言わない方が…。怒られるだけだよ」
巨体の高嶋裕が、体を縮こませる。
一人、吹雪ちゃんは自席から動かなかった。
「先生っていうのは、その、どうなの? 怖い人なのかな?」
安彦はそこが気になった。
「あー、先生ねぇ…。たぶん会うのが一番早いわねぇ」
白尾春奈ちゃんが、小首を傾げて微笑んだ。
「今日の一限目は神学論だ。先生にはすぐ会える」
メガネの牧名正が厳粛に語った。
そのとき。
教室の窓から、ニャーと小さい鳴き声を上げながら、一匹の猫が入ってきた。
小さな黒猫だ。
安彦は、何か言おうとして、口を開けたまま、猫を見つめた。
「……」
猫には、神様が憑いていた。
いや、猫には、二柱の神様が憑いていたのだ。
猫は、とことこと床を歩き、教壇に跳び乗った。
「起立」
ボウズの伊沢直樹が日直だったので、声を上げた。
「礼」
「着席」
猫は、前脚で顔をペロペロ舐めながらしゃべりだした。
「一人、増えたようだね」
子供のような声で、黒猫は喋りだした。
安彦は立ち上がって自己紹介をしようとしたが、猫が手、いや前脚で制した。
「心を見るからいいよ、窪田安彦。
ふーん。そういう理由で神様に触ったのかい。
なるほど、ね。
結果から言うと、安彦の行動は神様に響いたようだ。
安彦を受け入れ、神様は成長を始めた。
だけど、ね。他の皆は真似なんてするんじゃないよ。
安彦。あんたは神様に触った瞬間、死んでいてもおかしくはなかったんだよ。もっと注意して神様に接しなければいけない。いいね」
「わ…、分かりました」
安彦は唸るように言った。
心の中を見透かされているのでは、どんな言い訳もできない。
「いいかい。いつも言っていることだけれど、普通、人は神を見ることは出来ない。
あんたたちは幸運か不運か、神を見るようになっちまったけど、それは別にあんたたちが優れているとか、優秀だとか言う訳じゃない。
神が、単にあんたたちを気に入っただけなんだ。
だけどね、本当を言えば、見られない人の方が、ずっと幸運なんだよ。
神に障るとかが無いんだからね。
あんたたちに神が見える分、神もあんたたちを見ているってことを忘れちゃあいけないよ。
神の気にそぐわない行動をとった時、神はいともたやすくあんたたちの命を奪う。
離れる、とかじゃないんだよ。一度神に憑かれた人間は、一生、離れる、とかはできない。
ただそぐわない行動をとったら、命は失われるんだ。
あんたたちは、これから一生、張り詰めたロープの上に立ち続けなくっちゃならないのさ」
黒猫先生は、くるり、と首を回して、尾っぽを舐め始めた。
「だからあたしが、障らない方法を教えてやる。それが神学だ。
だけどね。
神に絶対というのはないんだ。
窪田安彦が神に触って、怒られるどころか、神様が成長を始めたのは、タイミングが良かった、とか、神の御機嫌がよかったってだけで、同じことを今やったら、間違えなく死んでしまうよ。
神様に人間が接触するなんてことは、絶対の禁忌だ。よく覚えておきな。
では神学論として基本的なことを教えよう。
神とは何か?
誰か分かるかい?」
教室は静まり返った。
「判らないようだね。
神とは世界さ。あんたたちが息を吸って、吐いて生きている世界こそが、目に見える全てこそが、クソにたかる虫一匹まで神なんだ。
だから、逆を言えば、あんたたちだって神の一部なのさ。この世に神ではないものなど一片もありはしないんだ。
じゃあ、あんたたちの横にいるものは何か?
それは世界の特異点だ。世界の、つまりは神の、密度の濃い澱みなのさ。
それは何の物かになるかもしれないし、ならないかもしれない。
何物かになるのも、縁で結びついた、あんたたちと神の意志が反映されてのことだ。
だとしても、自分の勝手に神を動かそうなんてしたら、良い事はなにもない。
なぜなら、世界があんたたちを見ているし、あんたたち自身が世界であるからだ。
だから神学の一、としてあんたたちに言いたいのは全てに誠実たれ、ということさ。
別に勉強をしろ、とか言うんじゃないよ。良い点を取れ、とかじゃない。
自分にも誠実に、世界にも誠実に、すべきことはし、すべきじゃないことはしない、そんなことさ。
愛し合っているなら肉体を求めあうのも当然のことさ、何のやましいこともない。
でも周りに配慮した行動をするぐらいのオツムがなけれりゃあ、世界に誠実とは言えない。
毒虫は殺せばいい。
でも、何の害もない命を遊びで奪うもんじゃない。
あんたたちが、どっちに顔を向けるにせよ、そこにいるのは神だ。
悪意には悪意しか返ってこないし、善意はその場で伝わらなくったって、いずれは良い方向にあんたたちを導く」
安彦は唖然、と黒猫先生の言葉を聞いていた。
何かの宗教のような話だったが、何しろ自分の横にげんに神様がいるのだから、聞かざるを得ない。
全てが、神?
前のクラスでイラつく事ばかりかましてくれたアホの坂口が神とは思えなかったが、それを言うなら安彦を目の敵にしてネチネチとイビった英語教師、中田も神とは思えないが、まぁ、悪意には悪意しか返ってこない、というのなら、それもそうか、とは思う。
が、ふと考えた。
吹雪ちゃんを襲う、あの魔、とかいうもの。
あれはなんなのか?
「窪田安彦。
なかなか良い質問だ。
あんたの言う、あれ、も神なのさ。世の中、良い事ばかりじゃないのぐらい判るだろ。
病気で、何の楽しみも無く、ただ苦しんで死んでいく子供だっている。
死にたくなるような現実の中で必死に足掻いてる人間だって、一人や二人じゃないんだ。
あれも神だ。
神はね、そういうもんなんだ。
平等という言葉の意味を、あんたたちは勘違いしている。誰の現実の中でも、ああいったものは姿を変えて必ず目の前に立ち塞がる。
そして、神の前においては、あんたたちの命も、クソ虫の命も、ひとしく平等だってことをいずれ知ることになるのだろうよ」