窪田くんちの家庭の事情
住宅地の一角にある、ほんの家一軒分ほどの小さな公園だった。
青白い街灯が、公園に一本だけある葉桜の木を白々しく照らしていた。
窪田安彦は、四人の男に囲まれた。
「くぅーぼた、よぅ。
何でこうなったか分かってるよなぁ…」
相手は安彦より、三十センチは背が高い。Tシャツ姿だったが、薄い生地を通して、見事にビルドアップされた筋肉が浮き出していた。
「今日の練習ですか?
先輩を、ローキックで倒しちゃったから」
「俺がプロを目指しているって、知っててやったんだよなぁ…」
「それで、中学生に負けたのが恥ずかしいんですか」
先輩、は、学校帰り姿の安彦のYシャツの喉元を掴み、乱暴に引き寄せた。
安彦は百五十センチの身長なので、足が浮いた。
「恥ずかしいんじゃねぇ!
頭に来てるんだよ!
今後、お前がどう振舞えばいいのか、教えてやろうと思っているんだ!」
先輩の唾が飛んで、安彦は顔を背けた。
その横を向いた安彦の頬に、先輩の拳が突き刺さった。
はずだったが、安彦は、先輩の拳を掌で受け止めていた。
驚く先輩の、今日の練習で安彦にローキックを受け、一発で昏倒した同じ場所に、安彦のローが刺さった。
先輩の右の太ももが、異様な角度で曲がった。
先輩は、泣き声とも悲鳴ともつかない声を上げて、公園の土の上を転げまわった。
安彦の三方には、先輩の同級の仲間が囲んでいたが、主役が崩れ落ちた一瞬、安彦から目を切っていた。
その一瞬で、安彦は、一人の顎を吹き飛ばし、もう一人の顔面に肘を打ち、最後の一人の鳩尾に下段蹴りを打ち込んだ。
一分と立たないうちに、全員が公園の土の上でのたうっていた。
「先輩、心配しなくても、俺はもう、あのジムにはいきませんよ。
学ぶべきものは、全て学んだんで…」
安彦は、公園を抜け、自宅に帰った。
一ヘクタールの敷地に立つ窪田家は、入り口から玄関に入るだけで一分以上歩かねばならない旧家だ。
玄関の引き戸を抜けて、かまちを上がると、古い日本家屋である大正時代に建てられたという屋敷は昼でも薄暗い。
だが、沢山の使用人が、毎日磨き上げているので、古い家にありがちな寂れた感じはない。
ただ、広いのだ。
安彦は渡り廊下を通って、この屋敷の家長、安彦の祖父厳重郎に会いに離れに向かっていた。
玄関にいた門人に、祖父源重郎が呼んでいる、と教えられた。
呼ばれる理由は判らないが、安彦と厳重郎の仲は悪くはない。溺愛している、とまでは言わないだろうが、普通に祖父と孫である。
おおかた、誰かから貰い物をしたので安彦にくれよう、とでもいうのだろう。
安彦ももう十四、菓子や玩具を喜ぶ年齢ではなかったが、弱い八十を迎えようという厳重郎は、その辺を理解していない。
まあ、喜ぶふりをするぐらいの世辞は安彦も心得ていた。
おおよそ二分がかりで離れにつき、障子越しに声をかけると、厳重郎は、意外にも重い声で、入れ、と答えた。
あれ、俺、何か不始末でもしいたかなぁ…。
安彦は不安を覚えつつ部屋に入った。
十二畳の和室である。
源重郎は床の間を背に座っている。
安彦は祖父の前に座った。
祖父源重郎は巨躯である。百九十近い長身であり体重も百キロを超えているが、決して肥満ではない。
今でも朝五時には起床して、木刀を振るったり、柔道、空手の稽古を欠かさない。
おかげで安彦も、一通りの武術を身に付けさせられていた。
百五十センチの安彦は、立っていても源重郎より僅かに高い程度だが、座ると自分の小ささを思い知る。
祖父源重郎は、何か真面目な内容を語ろうとしているようだった。
岩石をノミで粗く削ったような源重郎の唇が震えた。
「安彦」
源重郎は涸れた声で呟くように言った。
「お前も、わが家が代々、殿様に侍ってきたのは知っているな」
「うん、でも…」
「お前は来月十五になる。ついに元服の日を迎えるのだ」
「えっ、何、元服って?」
安彦は目を丸くした。
むろん、昔の侍が、安彦の年齢で元服という儀式をするのは、どこかのドラマか漫画で見てもいる。だが、自分が、何をどう元服するというのだろう?
だが祖父は、にやり、と少々意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「なーに、お前は何もする必要はないのだよ」
ふふふ、低い声が、離れの書院に漂っていた。