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翌日。
午後一のアメリカ近現代史。
ベトナム戦争が題目の講義を開始二十分で放棄した僕は、半信半疑のような気持ちのまま大学最寄りの駅に向かった。そこが昨日ユーリさんの指定した合流場所だった。
緩い坂道を下りながら見上げた空は大半が雲に覆われていて、ときおり湿気をはらんだぬるい風が頬をなでる。
太陽が顔を出していない。
それだけで僕の心はいくらか晴れやかだった。
住宅街の路地を通り抜け、途中にある自宅のアパートには寄らずに待ち合わせ地点に直行した。
その駅前広場は、沿線の中では比較的立派な方だった。
四つのバス路線が発着するロータリー。その周囲にはコンビニとバーガーショップが各々一軒、二流チェーンの居酒屋が2軒、野球の強豪校みたいな名の塾、それとインド人だかバングラデシュ人だかがやっている怪しいカレー屋が一軒とそれなりに栄えている。
時間までの暇をどこかでつぶそうかと徘徊していたが、ふと虫の知らせというか、なんとなく駅の方が気になって、僕は足を駅に向けた。
バス乗り場からペデストリアンデッキを伝って橋上駅舎の改札フロアに入る。
次発の電車までまだ時間があるため閑散としている構内に、案の定ユーリさんの姿を見つけた。
券売機の前で路線図を見上げて、なにやら思案げな表情の彼女の横顔に近付く。
「やっぱりいた」
挨拶代わりのこちらの声に振り向いてすこし目を丸くしたが、すぐいつもの顔に戻った。
「いるに決まってるじゃん」
彼女は親指をリュックのひもに引っ掛けてこちらに向きあう。
「にしても、まだかなり早いよ。授業は?さぼり?」
「抜け出してきました。ユーリさんに早く会いたくて」
「はいはい」
不意討ちの甘い台詞も軽くいなされてしまった。
「どうでもいいけど、初めからそんなんじゃ不安だよ。単位どころか進級も」
「平気ですよ。出席取らないから。講義もレジュメなぞるだけだし」
「そうかそうか。単位より私との時間の方が大事か」
まともな会話の成立は期待できない。
「あなたの方こそ、あと一時間もここで突っ立ってるつもりだったんですか」
「私は案山子じゃないよ。君が来るまでの時間を有意義かつ経済的に過ごそうと、計画を練っていた所。聞きたい?」
「別にいいです」
「まずね、入場券だけ買って電車に乗るの」
「その時点で既に違法ですけどね」
「そしたら適当な駅で降りて、降りたら改札は出ずに今度は逆方向の電車に乗って帰ってくる。そうすればずっと座ってられるし、景色も眺められて無駄なお金もかからない。問題は引き返す地点をどこにしたら時間ぴったりに帰ってこれるか。それを今見定めていたところ」
さも名案を思い付いたかのような得意げな顔をする。
「自慢げですけど、それキセルっていう立派な犯罪行為ですからね」
「ドライだねえ。まあこんな所で立ち話もあれだし、買い物いこっか」
踵を返すと、ふわふわと歩き出した。
自動改札機の前を通りすぎ、券売機の前も通りすぎ、目指す先は反対側の階段。
僕は早足で斜め後ろにつく。
「あれ、電車に乗るんじゃないんですか」
「乗らないよ。目的のお店、あっちだから」
階段を下りながらユーリさんが指差す方向を僕はよく知らなかった。駅の反対側には一度も行ったことが無かったから。
「駅のこっち側はなんにも無いね。静か」
「遠いんですか?これから行く場所は」
「男なんだから情けないこと言わないの」
「ただ所要時間を聞いただけなんですけど」
慣れた足取りで進む彼女に導かれて、駅から伸びる道をてくてく歩いていくと、大きな国道バイパスに行き当った。
そして車の波の向こう岸にあったのは巨大なショッピングモールだった。
三階建てで中は吹き抜けの、地方都市に一定の割合で存在するような、大型商業施設。だだっ広い駐車場は平日とあって空車が目立った。
ユーリさんが僕を連れて入ったのは、ショッピングモールの本館とは連絡通路を隔てたホームセンターだった。
「あちこち探したんだけど、ここにしか置いてないのよね」
入店すると迷わず一直線にペット用品売場に向かう。陳列棚まるまる一つがキャットフードにあてがわれていて、その中からしゃがんでひとつを手に取ると、得意気に笑った。
「今後君が買うときも、これ以外は選んじゃだめだからな。要注意」
僕も膝を折って並んで、商品を見る。それは長年猫を飼っている自分でも見慣れないパッケージだった。
「何?始めて見たような顔してるけど」
僕はうなづく。
「そんなにお薦めなんですか」
「うん。むしろ他に選択の余地はないよ。これが売ってない町には住めないね、私」
「そこまで言い切りますか」
あくまで真顔で主張する姿に僕は苦笑いした。
「笑ってるけど、割と深刻な問題です」
「そんなに変わりますか。他のものと」
僕が問うと、唇に指を当てて、
「んー、例えるなら君が平然と与えていたのジャンクフードで、私のはオーガニック薬膳料理ってとこかな?」
袋をひっくり返して、四角く囲われた成分表示の欄を示した。
「着色料、保存量無添加。ノングレイン。4Dミート不使用。最高の条件が全て揃ってるわね」
「なんですかその、最後のなんとかミートっていうのは」
「そうだな。一時期ミミズバーガーっていう都市伝説あったの覚えてる?あんな感じかな」
例えが不的確でよくわからなかったが、家に帰ってから調べた情報をまとめると、屠蓄業者から出た死骸の内臓や、病気にかかって市場に出回らなかった家畜の肉などをごちゃ混ぜミンチにして、薬品で消毒したものらしい。要するに極めて有害で危険な可能性を秘めた原料ということ。
「あとノングレインってのも最重要ポイントね。猫って本来肉食動物だから穀物の消化は向いてないの。生産コスト抑えるのにかさ増しで混ぜてるメーカーが多いから、よくチェックしないと駄目だよ」
「はあ」
「それからマグネシウムの量にも気を使わないとね。これは尿路結石予防。猫の尿管って細くて曲がりくねってるから詰まりやすいの」
「へえ…」
打てども響かぬ相槌を繰り返して聞いていたが、内心僕は素直に感心していた。
博識と、その根幹にある動物愛を知って、彼女を多少見直した。
「添加物の危険は説明するまでもないか。防腐剤のエトキシキンとか?まあ、ここら辺は名前しか知らないから割愛」
「エトキシキン?」
急に聞き覚えのある単語が出てきて思わず反応した。
「うん?君知ってるの」
「ええ、まあ」
ただ僕の知識にあったのは食品添加物としてのエトキシンではなく、別の用途をもって使われたそれだった。
「枯葉剤に入っていたやつですね。ベトナム戦争で有名な」
もっとも主成分では無く、枯葉材の防腐剤として添加されたに過ぎないが、ここに来るために途中で放り出してきた授業と、ユーリさんの猫論議がこんな所でリンクするとは思わなかった。
ユーリさんはきょとんとしていた。きっとこの分野は守備範囲外に違いないので掘り下げずに話を戻した。
「まあ、取り敢えず添加物の危険性は十分理解してます」
「うん。発ガン性もあるし、臓器疾患のリスクも上がるの」
ユーリさんは頬を緩めながら話す。唇の間から犬歯が見え隠れする。
「フードは単純に高価だからとか、国内産だからとかで決めない方がいいよ。ちなみにコレは英国直輸入ね」
無言でうなづきながらなんとなく値札を見て、僕は驚いた。
チラシの特売品なら軽く5袋は買える位の価格がつけられていた。道理でスポンサーが必要なわけだ。結局体に良いものは高いのだ。
諭吉さん一枚と樋口さん一枚をレジで支払って、その半分は僕が出した。ほとんどオケラになってしまったが、ユーリさんは嬉しそうだった。
それは単に彼女の財布の負担が軽くなったからだけではないような気がした。