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木曜日3限。
週においてこの時間に限り、僕はサボタージュ学生になる。自分の意志で作成した時間割を自らの手で破壊するのだ。
2限を終えれば習慣的に昼休みを過ごし、昼休みを終えれば、本来受けるべき授業が行われる大教室には目もくれず、そことは逆方向の、それも構内で特に過疎化の進んだエリアへ体を向かわせる。
分厚いガラス戸を押し開いて、館内に侵入する。
その校舎はかなり老朽化していた。レンガ調の外壁は至る箇所に亀裂が入り、廊下も長年人に踏みつけられてかなり痛んでいた。
旧校舎と表現するに相応しい廃れ方だが、現在でもいくらか講義はここで行われているらしい。
順番に講義室を見て回り、無人を確認できると、そこが4限までの一時待避場所となる。
窓際の隅っこの席に荷物を置き、小説を読んだり、突っ伏して昼寝をしたり、椅子にもたれ空を見上げて、ひたすら入道雲を見つめたりする。
どうして僕はその時間だけ、授業を拒絶するのか。理由はひとつ。受講生が、余りにも多いからだ。
僕は他人よりも、極端にパーソナルスペースが狭い人間だったように思う。従って小学はまだしも、思春期以降の中学、高校の授業は地獄の苦しみと言っても過言では無かったかもしれない。
木曜3限の密度はそれ以上で、学生数に対する教室の容量が明らかにキャパオーバーなのである。
うっかり青春謳歌組に両隣を取られてしまった場合など逃げ場がない。
それを見越して早めに来て角番を取ったところで、担当教官の「はいそこ、場所詰めて下さい」の一言で最終的に中央部に追いやられる。
結局、初回の講義が最後の出席日になった。
5月の連休明け、木曜日の3限。
人気の無い講義棟の無人の講義室で、僕は午後のまどろみの中にいた。
この校舎は背後がすぐに山なので、僕が音をたてない限り、他に音は存在しない。
僕は自分の鼻息だけを聞きながら、目を閉じ、うとうとしていると、唐突に耳に呼吸音以外のものが入ってきた。
細く絹糸を引くような音。昼寝を中止し、荷物も置きざりに音源を探して講義室を出た。
廊下を端まで進み、扉から外に出る。レンガ色の外壁に沿って角を曲がり、裏手に回る。
校舎と山とに挟まれた空間に、そいつはいた。
茶トラの猫だった。それも子猫。
丸くなって黄金色の尻尾を向けていたが、人間の足音に気づいたか、顔だけ振り向いて僕の姿を認めたようだった。
僕が近づいても子猫は逃げようとしない。睨み付けるように、両目を薄く閉じる。
子猫まであと数歩の所で、僕は歩を止めた。背後から声が聞こえたからだ。
「ごめんねチャト。遅くなっちゃったね。ほれご飯だよ」
僕は振りかえる。
校舎の角から、小走りの人影が現れた。
リュックを片方だけ外して前に回し、中に腕を突っ込みながら僕の視界にフレームインしてくる。
その人物もすぐにこちらに気付いたようだった。
「あれ、珍しい。こんなところで」
数秒前に僕が猫に対して抱いた疑問を、彼女はそっくりそのまま口にした。
「え、と、鳴き声が聞こえたから、それで」
「そっか。お腹減ってたんだね、チャト」
チャト、とはこの子猫のことだろうか。
リュックから出したキャットフードの小袋の封を切りながら近付いてくる彼女。僕は退いてチャトと呼ばれた子猫の前を譲った。
彼女が目の前まで来ると、警戒の色を見せた子猫は1歩後ずさった。
「ほら、そうやって逃げない。君が餓死せずいられるのは誰のお陰なのかな」
唇をすぼませながら再びリュックを手探りし、今度は白い紙容器を取り出した。芋煮会に多く採用されそうな底の深いタイプ。その中にパラパラと目分量でドライフードを落とすと、子猫は何度か匂いを嗅いだのち、一片の有難みも見せずにそれを食し始めた。
その場にしゃがみこんで膝を抱えた彼女は、減っていく餌をニコニコと眺めていた。
そしてその姿を、僕は突っ立ったまま見ていた。
彼女が自分と同じ学生であるのは、十中八九間違いないだろう。いつもこうして、子猫を養っているのだろうか。
それにしても、彼女はこの場所には珍しいはずの僕の存在にいっこうに関心を示さない。すでに存在を忘れられてしまっているのかと悲しくなるほど。
自ら引くにも引けず、仕方なく僕は特に知りたくもないことを聞いた。
「あの、何年生ですか?いつも餌を?」
僕の問いかけに、どうしてか彼女は一瞬驚きの色を見せた。しかしすぐ笑みに戻り質問に答えてくれた。
聞いていないことも矢継ぎ早に教えてきたが、最低限の情報のみ記憶するに留めた。
彼女はユーリとだけ名乗った。名前なのか性なのかどちらとも有り得るが、知ってどうなることでもない。
そして僕とは、学年も学部も違うようだった。
1学年先輩。文学部在籍。この付近の出身で、実家からの電車通学。子猫への餌付けを始めて3週目。主にこれ以外は聞き流した。
ちなみにチャトというのは、この子猫に彼女が勝手につけた名前らしい。茶トラだからチャトだと。
なんとも短絡的な命名だとも思ったが、三毛猫がミケと呼ばれたり、シャム猫がシャムと名付けられたり、黒猫がクロだったりするから、あながち非常識な名前でもないのかもしれない。
相手の人となりを知った手前、こちらの素性も明かさないと礼に失すると思い最低限の自己紹介はした。名前と、出自と、その程度だが。
「ミサキ君」
僕の名を呟くと彼女は微笑した。
それから進学について尋ねてきたので、先に述べたような理由を正直に答えた。知らない土地で、自分を知る人の居ない環境で云々の事を。別に隠す事でもないから。
それから少し、会話は途絶えた。
正直僕は、早くその場を立ち去りたかった。あまり他人との世間話とか雑談が得意では無かったから。
しかしその機会を見極めることができなかった。
対して彼女の方はというと、特に沈黙が気になるふうでもなく、ふんふんと上機嫌にチャトを観察していた。
そして何かを思い付いたように、唐突に僕の目を見てこう言ったのだ。
「スポンサーにならない?」
と。