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入学式から丁度、ひと月が経った。
しかし僕という人間はひとりだ。もちろん哲学的な意味ではなく。
僕にはサボった分の講義ノートを貸し借りするような仲間がいない。もっともそれほど頻繁にサボったりはしないのだけど。
僕には効率的でズル賢いキャンパスライフを指南してくれるサークルの先輩もいない。そもそもサークルに入る気すら毛頭無いのだけど。
いわんや共に甘い休日を過ごす恋人も。そんなものがいたら、かえって僕の生活が脅かされるから御免だけど。
だが僕がこの現状を悲観することは決して無い。むしろこれは自ら望んで手中に収めた環境なのだ。
故郷を離れたこの三流私大を受験した動機だって、同じ高校からの進学者が僕以外ゼロだという、進路指導が聞いたら呆れて目と口を丸くするようなものだった。もちろん定期的に提出を求められる進路志望届は、魅力的な講師陣だの充実した資格取得制度だの、もっともらしい内容で埋めていたが。
さしずめ僕は、僕のことを知る人間が誰もいない土地での、ノイズレスで平穏な生活を所望していたのである。
そんなわけで、入学当初の僕はきらきらしたキャンパスライフみたいなものとは程遠い存在だった。
目覚まし無しの起きたい時間に起きて、夢うつつのまま洗面台に向かい、長い時間をかけて歯を磨く。
太陽がある日は忌々しい目で彼を見上げ、たらたらと学舎まで続くゆるい坂道をスローウォークでのぼる。退屈だと感じた講義は、気に入った小説の世界に入って適当にやりすごせばいい。
昼休みは調整池のベンチで、大学生協で買ったハムサンドとミルクティーで済ます。
1日でまともに口を聞くとすれば、帰りのコンビニの会計で長いストローの有無を訊かれた時くらいだ。
そんな、アカデミックともスタイリッシュとも程遠い、かといって破滅的でもない、強いて例えるならクラゲのような毎日を、確かに満喫していた。
願わくば、大学の4年間なんてケチなことを言わず、息絶えるまでこのまま日々が流れていってくれないか、とも思っていた。
このまま独りで、他の誰の干渉も受けず、周囲に何ら影響も与えず、深海を漂うみたいに生きていきたいと切望していた。けれど。
けれど、後に僕はその考えを改めることになった。
そしてそのきっかけの訪れは案外早くきた。
「そうだ。君、スポンサーにならない?」
人気のない、校舎裏の袋小路。
ユーリと名乗ったその人は、嬉々とした顔を向け僕に言った。新入生を部活にスカウトするような調子で。
僕がその言葉の意味を計りかねていると
彼女は畳み掛けた。
「つまりね、一緒に面倒みようって提案してるの。この子の」
しゃがみこんだ彼女の、地面に向かって伸ばした腕の先には、丸くなってうなっている1匹の猫。状況的に恐らく野良で、しかもまだかなり小さい。
「要するに餌代を出資しろって、そういうことですか」
「そう、出資出資。だけど私もいるから、正確には共同出資」
彼女は丸い目を三日月みたいに細めて、犬歯を覗かせる。語尾にはいちいち音符マークが付いているような、うきうきした話し方だった。
「この子全然なついてくれないんだもん。警戒心強いみたいで」
「単にあなたが苦手なだけでは」
僕が言うと、少しむっとした様子で、
「そんなこと無いよね」
左手を猫に差し出す。
子猫はにょこっと起き上がると、頭を撫でようと企むユーリさんの掌をすり抜けた。そして僕の足元に寄ってきて、その華奢な胴体を擦り付け始める。
茶色の毛が数本、ジーンズの向こう脛にまとわりつく。生地越しに、ごろごろと子猫の鼓動が伝わる。
僕は黙ってユーリさんに視線を移すと、やはり恨めしや、と言わんばかりの目をこちらに向けていた。
別に僕が弁解するいわれなど無いのは解っていたが、
「実家で飼ってるから、猫」
と、的はずれなフォローを入れると、
「本当?猫飼ってるの?」
と表情をパッと明るくして、無垢な子供のように念入りに確認してきた。僕は頷いた。
ユーリさんは膝に手を付いて立ち上がると、僕と向かい合う位置に来て、僕の右肩に掌を乗せて、また犬歯を覗かせた。
「じゃあ役に不足は無いね。君にも懐いてるみたいだし」
拒否権は認められないみたいだった。
初めは、なにやら面倒な事に首を突っ込んでしまったと、やぶへびだった数分前の己の行動を呪った。
だがこうして対峙している彼女の、全てが善意で造られているような笑顔を見ているうちに、別に良いかとも思えてきた。
それに、僕は全般的に動物が好きだ。とりわけ猫という生物には並々ならぬ愛情を抱いているのを自覚している。いわゆる愛猫家というやつである。
そしてこれまでの短い人生で、ほとんど確信していることがある。
猫を好きな人間に、悪人はいない。
だから彼女も、きっと悪い人ではない気がした。