赤いペディキュア
人には忘れられない恋があるらしい。私には、ない。
恋なんて、と思い始めてからどれほど経っただろうか、もう思い出せない。
社会人三年目、毎日仕事場と自宅との往復だけで出会いもなく周りの友人や後輩たちからは結婚や出産という言葉を聞くことが多くなった。それに比べて私は、ときめきや好きという感情に疎くなっているようだ。心なしか女性らしくいようとする気持ちも薄れてきた。
最近ではそれを周りに悟られないようにするのに精一杯だが、そろそろ疲れてきた。
いつもの様に駅の改札を出てアパートへ歩く。今日も少しだけ星がみえる、ここら辺は都会でも田舎でもない普通の住宅街だから大きくはないが控えめに光る星くらいは見える。まるで今の私のようだ。学生時代は真面目に学級委員の仕事や勉強をこなして、少しのノリを持ち合わせ誰とでも仲良くして、輝かなくても誰かの目に留まるくらいの光を持ちたいと思っていた。
社会人になって数年働いて、結婚して、子供のためにお弁当を作って、なんて生活をして順調に歳を重ねていくのだと思い続けていた。でもそれも最近では諦め始めている、まだ若いのだからと言われるが、それ以上に人を好きになれる気がしないのだ。怖いだけかもしれない。そんな自分への小さな抵抗とばかりに赤いペディキュアを塗る。
部屋のドアノブに薄いピンクの紙袋がかかっていた、誰だろうと思って中をみると、水色のメモがはいっていた。
"隣に引っ越してきたものです、不在のようですのでメモを残させていただきます。つまらないものですが"と。中にはタオルとクッキー?少し変わった人だ。若い女の子かな。
次の日の朝、今日は平日だがシフト制なので私は休み。外からは犬の鳴き声と子供達の笑い声が聞こえてくる、そんな平和な朝にコーヒーと昨日の夜もらったクッキー。
この少しの優越感が今の私にとっての幸せかもしれない。
今日は隣が騒がしい。ああ、昨日引っ越してきた隣人か、大学生かな?どんな子だろう?なぜか気になった。
最近の休みの日はダラダラと録画していたドラマを見て、あり合わせで作ったお昼ごはんをたべて、結局夕方くらいに少し化粧をして近所のスーパーへ行く。こんな生活。なんとも潤いがない。なんて思いながら部屋に帰ってくると隣の部屋から人が出てきた、あれ?男の人?いや男の子?
見ると大学生くらいの綺麗な顔の男の子だった。
"あ、"向こうも気づいたようで、"昨日隣に引っ越してきました...です直接挨拶出来ずにすみません"
いえ、こちらこそクッキーありがとうございます、美味しかったです。
人見知りの私でも最近は大人になってきたのか上辺だけの挨拶くらいは笑顔で出来るようになってきたようだ。むしろこの青年の方が私よりも人見知りなのかもしれない、あまり目を合わせてくれない。まあいいか、関わりもないだろうし。こんな風に思っていた。のに、
ねえー今日のごはんなに?夕方にメッセージが入っていたようで仕事終わりにスマホをつけたらスタンプと共に送られてきていた。いや、彼は彼氏では、ない。うん。
お互い人見知り同士だったはずが、気がつけば仲のいい友達の様な姉弟のような、恋人、、ではないが落ち着くし、一緒にいて楽しい不思議な関係になっていた。今まで一人だった私にとってはある意味楽しくて充実している生活なのかもしれない、ただ今が楽しいからという理由だけ。
帰りにスーパーに寄って食材を買い、部屋の鍵を開けると隣から顔を覗かせた、"おかえり" まあ素っ気ないのは相変わらずだが、ごはんを食べるときは子供のように嬉しそうな顔で美味しそうに食べてくれる。後から知ったのだが、彼は近くの大学に通う大学2年生で、私より3つ下。最近まではお兄さんと住んでいたらしいがお兄さんが就職して引っ越すために一人暮らしを始めたようで、今までお兄さんに家事全般を任せっきりだったために料理が出来ないと困っていたらしい。
私が仕事で朝が早いこともあって。基本ごはんをたべて洗い物をして、テレビを見ながら少し話をしたら帰るという流れだ。だが、今日は違うみたい、どうしたんだろ。そういえば少しそわそわしているような?今日...は、あーホワイトデーだ。
私は駅の近くのカフェのようなお店で調理の仕事をしている、そういえば職業柄バレンタインの時期はチョコレートやケーキを作るため彼にもあげたのだった。意識しなさすぎてすっかり忘れていた。
"あのさ、これ。もらったからお返しと思って" 少し照れているのか素っ気なく渡されたのは引っ越しの時と同じピンクの箱のクッキー、と思ったらキャンディ??あれ?これって
"バレンタイン本命じゃないってわかってるけど、好きだから、ホワイトデーのキャンディの意味わかるでしょ?"
核心の言葉を言わないってどうなのよ、あれ私女の子みたいな口調になってる、嬉しくてなんか心がキューってなるような?あー好きなのか、久しぶりにこんな感情になったな
"ねえ、好き。聞いてる?返事は?"
え?うん、私も、好きみたい、、すき。
ふふ、あーいま幸せかも。わたし恋してるんだ。
今日は食後のブラックコーヒーじゃなくて甘いカフェオレにしよう、甘い香りの入浴剤をいれよう、お気に入りのパジャマを着てみよう。
ペディキュアは久しぶりにピンクにしてみよう
今日は君と手を繋いでテレビをみよう、いつもよりもう少し近くで君をみてみたい。
これが私の忘れられない恋になるのはこれからまたもう少し先のおはなし。