さあ受験だ
受験の前日。馬車に丸一日揺られ、私とお兄ちゃんはやっと王都に到着した。
王都は五百年前に支配していた帝都を拡張した領域だが、リルとしてみるとあまりの変化に懐かしいとは言えない状況だった。
当時は軍が常に急行できるよう中枢路線を放射状に配した上で、小路が中枢路線を結んでおり、この小路と中枢路線の結合自体も魔法陣として機能するよう仕掛けていた。今は王城など、当時の面影のある建物は残っているものの、道路は格子状に配されて単純明快な構造となっている。
まあ、この辺りはお母さんからもらった自由帳で事前学習していたので驚きはしないけれど、実際に見てみるとやはりちょっと戸惑ってしまう。
でも、それよりずっと戸惑うのは。
「お兄ちゃん、今日は絶対にしっかり休んでよ」
私の言葉に、お兄ちゃんは青い顔で黙ってうなずく。私は溜息をついてお母さんから預かった宿の名前を書いたメモを確認した。
お兄ちゃん、どうも乗り物に弱かったらしく、すっかり酔ってしまったわけ。明日が試験なので、お兄ちゃんが元気を取り戻してくれないと困る。私の進学だって都合がつかなくなるかもしれないし、何よりお兄ちゃんと二人の生活という予定が狂っちゃうのは困っちゃう。
何を言ってるんだろ私。何だか邪な感じがする。そう、リルのときの残虐とか大魔王とかいう邪さとは違う、ちょっと恥ずかしい感じの何か。
この気持ちを追究するのは何だか危うい気がして、私は慌てて宿探しに戻った。でも街の中は村と違って人波が詰まっており、私の身長では遠くまで見通せない。
急にぐっと力強く右手が引っ張られる。まだ少し青い顔をしているお兄ちゃんが、看板を確認しながら私の手を引いて進んでいく。
「お兄ちゃん、私はもう十歳だから、手を繋がなくても大丈夫」
「アリスがこれだけの街に来たのなんて六歳以来だろ。十歳で迷子になる方が恥ずかしいよ」
そんなの、魔力関知でお兄ちゃんを探すから迷子になる方が難しいんだけど。言ってしまいたいけれど、魔力関知も開発魔法だし、試験を受けに来た場所で違反をやらかすなんてお兄ちゃんが許すはずがない。それにお兄ちゃんがこんなしっかり手を握ってくれるのは、本当は嬉しいし。
しばらく歩き、私たちは中央広場に出た。中央広場は尖塔を中心にした円形の公園で、この尖塔の周りだけは格子状の道路ではなく円形になっている。尖塔は元々、私の私室兼研究室があった場所だ。高い魔力を空中に放出し、遠隔攻撃や実験をできるように設計したのだが、当時の魔法の機能は喪われ、単なる記念碑になっていることが一目見ただけで見てとれた。
お兄ちゃんは尖塔を見上げながら私の頭を撫でた。
「僕はアリスに上手く乗っかった感じがするよ。アリスが『魔法の赤目』じゃなかったら、きっとここまで来られなかった」
「頑張ったのはお兄ちゃんだよ」
私は答えてお兄ちゃんを見上げる。馬車の中で辛そうにするお兄ちゃんを見て、幻滅しなかった自分が少し不思議だった。どう見ても格好悪いし頼りない姿だったのに、むしろお兄ちゃんで良かったと思ったのだ。そしてやっぱり離れたくないって強く思った。
改めて尖塔を眺めると、入口に人が集まって何かを見ていた。まだ宿の予約時間までには間もあったので、私たちはその集団に近寄った。
「始源の魔法姫、大魔王リルの遺した魔法杖御観覧の方はこちら!」
案内人の声が響く。魔法杖。魔法の精度を高めるために使う棒状の道具で、本当に杖の形をしたもの、槍のようなものと様々な形態がある。私が好んで使っていたのは大人の手の先から肘ぐらいまでの長さの細い棒で、合金に私の魔力を込めて変質させたものだ。
私はお兄ちゃんと一緒に並ぶ。胸が動悸する。私の記憶するものが本当に現れるのだろうか。しばらくゆっくりと進んでいくうちに私たちの番がやってきた。心臓が急激に鼓動する。
目の前にその魔法杖が現れた。
「何か案外、細くて地味だね。王冠みたいなきれいなものかと思っていたけど」
「リルはそんなものを好まない。実用性と戦闘性しか興味がない」
私は兄が相手だということも忘れて答えた。間違いない、これは私の魔法杖だ。これは私のものだ。私の魔力に呼応する、私だけの杖だ。
危険な興奮が私の中で暴れる。このまま力を奮い、この杖を奪ってしまいたい。今の私にはこのちっぽけな身を守るための杖がないけれど、あの杖があればさらに高度な魔法も自由に操れるしお兄ちゃんと二人でこの世界を支配して私の居場所を作って。
前に立っていた中年の男が私に戸惑いの視線を向ける。私はその視線を無視して口角を吊り上げ、手を杖に向けて伸ばした。
「アリス、どうしたの」
私が掴もうとした場所にはお兄ちゃんの指があった。ぎゅっと握ったときの温かさと柔らかい触覚で我に返った。お兄ちゃんは私の頭に軽く手を置いて言う。
「あれは貴重なものだから触れないんだよ」
そんなことはない。あれは私のものなんだから。でも今の私の手には。
冷たく硬い正確無比な魔法杖よりも、お兄ちゃんの優しい指の方が大事だ。そう、あんな杖が無くたって、今の私には。
帰りを待ってくれる場所があるんだから。
私たちは宿に到着するとすぐに食事を済ませ、お互い明日の準備をして、忘れ物をしないよう確認して早く寝ることにした。宿は受験生向けに用意されており、宿泊費は合格だと免除される。
幸い、魔法学校と騎士学校は隣接しているので玄関まではお兄ちゃんが送ってくれることになった。その代わり、基礎試験と面接しかない私は、お兄ちゃんの試験が終わるまで魔法学校で待機することになっている。その間に私の合否も判明するそうだ。
お兄ちゃんの合否も明日の朝には判明するので、それを確認してすぐに入学の仮手続き、明後日に帰宅することになっている。つまり、明日は遊べるので今日はますます我慢という話。万が一の宿泊費は、二人とも合格すればお土産を買ってきて良いと言われている。
ベッドに入り、ふとお兄ちゃんと一緒の部屋で寝るのは久しぶりだと気づく。子供部屋が与えられているおかげで、私たちは一緒の部屋で寝ることはない。
「アリス、今日はしっかり寝る日だよ。眠れないと思っても、横になれば寝られるからね」
見透かしたようにお兄ちゃんが向こうのベッドの中でこちらに声をかける。私ははあい、と素直に答え、合格で万歳する日を確信したまま微睡に落ちた。
「アリスさんは、どうして魔法使いになりたいかな。格好良いとか楽しそうとかではなく、ね」
面接官が私をじっと見つめながら、ゆっくりした口調で問いかける。オババが言っていたとおりの質問で、私が最後まで悩んだ質問だ。
実を言えば、昨日の宿に入る時点でも答えは揺れていた。一応、これなら試験に通るだろうという答えは先生とオババと話して決めていた。でもオババは最後に言っていた。
「試験のためじゃなく、本当に考えておくことだよ。変えても良いさ」
復讐する相手は流れた時代の向こうに遠く、今さら国を支配することにも意味があるかわからない。アリスの心はまだ十歳だから、単に遊びたいとか格好良いとかが先行してしまって。
でも昨夜、こっそりと覗いたお兄ちゃんの寝顔を見て、私の心は決まった。合否なんて関係ない。この問いかけには、昨夜に気づいた私の気持ちを返したい。私は口を開いた。
「私には大切なお兄ちゃんがいます。そのお兄ちゃんが安心して眠れるこの世界を守りたい。私の大切な友達の子が何も怖がらず栗拾いして舞を舞える、そんな世界を守って一緒に生きるために魔法を使いたいです」
ほう、と面接官が溜息をつき、私の顔をじっと見つめた。どことなく三人衆の一人、大魔導士のジュピターに面影が似ていて何だか懐かしくなる。
面接官は優しく微笑んで言った。
「面接は合格だよ。あとは基礎試験の結果次第だ」
「お兄ちゃん!」
私は騎士学校から出てきたお兄ちゃんに駆け寄り、合格証を見せびらかした。お兄ちゃんは私の頭をぐりぐりと撫でておめでとう、と言ってくれる。私はすぐに訊いた。
「お兄ちゃんも大丈夫だよね? まさか名前を書き忘れたりしていないよね」
「アリス、ちょっと調子に乗りすぎ。生意気だぞ」
言ってお兄ちゃんは私の額を指先で弾いた。だってお母さん、出発前に言っていたでしょ。
「お母さんに言われるのは仕方ないけど、アリスにまで言われたくない」
ちょっとむくれてみせ、でもすぐに笑ってくれる。これならきっと大丈夫。
「とりあえず今日は宿に帰ろう。浮ついていちゃいけない」
「お兄ちゃん、真面目すぎ」
「アリスは合格証もらってるけど、僕はまだ結果が出てないし」
お兄ちゃんが不安そうな表情を浮かべた。確かに私は舞い上がっていたようだ。理性的に見ると、私は明らかに悪乗りしていた。少し弱いお兄ちゃん。でもそんなことに私が幻滅しないことに、リルの部分が驚いていた。そして何より。
お兄ちゃんが弱みをみせてくれたことに、仄かな幸せを感じていた。
翌朝、まだ私が眠い目を擦っているというのにさっさと朝食を済まそうとお兄ちゃんがせかす。仕方ないので慌しく食事を済ませ、着替えも早々に二人で騎士学校に向かった。いつもは私に歩幅を合わせてくれるお兄ちゃんだけど、今日だけは私が小走りで追いかける。
お兄ちゃん、私の子守りも役割なことを忘れているかもしれない。まあ、合格して余裕のある私と、一晩お預けを食らったお兄ちゃんでは全然違うんだろうけど。
騎士学校の正面に合格者一覧が張り出してある。お兄ちゃんは駆け出した。私の足では追いつけない。面倒くさくなって私は小走りのまま遠視魔法で合格者一覧を見る。
ごめんお兄ちゃん、私の方が先に結果を見てしまうよ。上から順に眺めていき。カンヴァス、あった。私はゆったりとお兄ちゃんの後を追った。
お兄ちゃんが掲示板に辿り着く。指を伸ばして順番に名前を追い、お兄ちゃんは振り向くと私の方に駆け寄ってきた。そしていきなり私をぎゅっと抱きしめた。
「アリス、僕も合格だよ! 僕も騎士学校に通えるんだ!」
「お兄ちゃんおめでと!」
お兄ちゃんちょっと苦しい。それ以上に周りの視線が流石に集まりすぎ。まあ見るなら見てよ、うちのお兄ちゃんは私の自慢だから。
私たちは揃って魔法学校と騎士学校の入学手続と宿泊料免除の手続を済ますと、街へ買い物に繰り出した。




