二つの冷気
私たちは棟梁の言うがまま一軒の喫茶店に飛び込んだ。さらに棟梁はトイレに駆け込んで再び姿を現す。その姿は先ほどのちょっと山賊っぽい服装ではなく、小ざっぱりとした白のカットソーと紺のスラックスを履いており、騎士すら通り越して商人に近い出で立ちに変わっていた。
「変装ってわけじゃないが、少しは目立ちにくいだろう」
私もお兄ちゃんから服を受け取ってトイレに行こうとしたら、棟梁が慌てて止めた。
「余計なことはしなくて良い。その服は最近のちびっ子に人気だから、むしろ目立たない」
言って棟梁は私たちにメニューを差し出す。この店はスフレ系パンケーキが人気の店だそうで、カイラやセーラさんはともかく、たぶんお兄ちゃんや棟梁とはあんまり縁のなさそうな店だ。
「意外って顔をしているな? 俺みたいな奴が逃げ込む先と言えば、ちょっと荒っぽい戦士の集まる居酒屋や労働者の飯屋、もっと怪しげな博打の店ってのが定石だろう。だからこそ、こういう甘ったるい店に逃げるのさ」
たしかに、五大龍を召喚して大立ち回りした後にスフレパンケーキを楽しむとか、たぶん私たちとセーラさんぐらいしかいない気がする。セーラさん分類なのがちょっと気になるけど。
ひとまず私は「ベリー天国スフレパンケーキ」、お兄ちゃんは「マロンいっぱいパンケーキ」、棟梁は「エスプレッソビターパンケーキ」を注文した。せっかくのパンケーキにビターとかって思ったけれど、甘いのが苦手な人でもお付き合いできるメニューらしい。
「で、貴女は魔道王リル陛下、で間違いないんですな」
棟梁の言葉に、私は眉をひそめて首を傾げながらもうなずく。
「正確には、転生してアリスだよ。十歳まではアリスとしての魂で生きてきたし、そちらの心とか感情の方が強いから、普段はほぼ十歳の女の子のアリスだよ」
棟梁も顔をしかめてお兄ちゃんに視線を向ける。お兄ちゃんはため息をつきつつうなずいた。
「さっきの口上、まるで完全に爆炎の騎士・スルトが敵を煽るとき、そして魔道王と意見が合わないときに言っていた台詞そのままだったの。普段ならそんなのに反応しないんだけど、今日はすっかり気分が緩んでいたからリルの部分が急激に暴走したの」
「急に暴走、ねえ」
棟梁の言葉に私はお兄ちゃんを振り仰ぎ、そして言いにくいながらも続けた。
「あとね、この服は今日、初めて着たから。アリスとしてはね。リルとしては、五百年ぶりに」
声が低くなり赤眼が強まるのがわかる。棟梁が体を硬くして右手を剣に添えた。でも私はお兄ちゃんの右手をぎゅっと握る。深呼吸する。赤眼が普段に戻り、胸の鼓動も静かになった。
「だからね、私はリルでもあるけれど、アリスなんだ」
私はアリス、の部分に力を込めた。今の幸せな時間を、この小さな手の中から逃したくないから。棟梁も力を抜くと小さく笑った。
「魔道王復活は我が一族の危急と教えられていたんだが、どうも伝承からかなり違うことになっているようだ」
言って棟梁は私とお兄ちゃんへ順に視線を送る。次いでゆっくりと爆炎の騎士・スルトの伝承を話し始めた。
爆炎の騎士・スルトは氷の魔道士・ジュピターと対立していた、という話は本当ではない。棟梁はジュピターが悪霊になって王位にいることを知らないようだけれど、それを抜きにしても、対立が本当なら本家の血筋が爵位等に就けないどころか、お家断絶となって当然だ。
要は役割分担があったそうだ。爆炎の騎士・スルトは私リルの知っていたとおりの剣術馬鹿だった。リルを倒したのも、結局はジュピターに唆されたからだ。だって馬鹿なんだもの。
で、この剣術馬鹿は、魔道王の死後は好きな剣術で生きる道に戻ろうとした。でも三人衆が分かれることは国として色々と政治的に危険だ。そこでジュピターと同じく剣術馬鹿だった長男とジュピターは剣道場を中心として野に下り、政治の感性を備えていた次男はジュピター、ダークマターとともに国の統治に残ったそうだ。
「しかしそれでは、その孫や曽孫が後年に本来の身分を求めても不思議ない気がします」
「まあ、当たり前だな。だから爆炎騎士の宗家、嗣子が血族だという話が間違いなんだ」
私もお兄ちゃんも意味がわからず首をかしげる。
「爆炎騎士の血族は毎年、一族の剣術試合への出場が義務づけられている。そこで最強の者が嗣子の資格を与えられる。ただし嫌なら宗家を継がず、普通に領主様や騎士になれば良い」
「つまり、一族選りすぐりの剣術馬鹿が代々宗家を継ぐってこと?」
「さすが魔道王、よくわかるな。今のとこ俺の後継者は仮決めなんだが、俺の本音では一族初の女棟梁が誕生すると睨んでいる。正直、棟梁の肩書なんて一族最強以外の意味はないから、むしろ真っ当な男は捨てる肩書だ」
女、という言葉で一人の顔が思い浮かぶ。お兄ちゃんも同じことを思ったのか私と顔を見合わせた。
「まだ学生なんだが、俺とは剣術馬鹿として本当に気があうんだ。たださすがは女の子だから甘いものと紅茶が大好きでね。本当はさっきのマカロンもその子のお土産だったんだよ」
「それってもしかしなくても、セーラさん、ですよね」
「おっ、セーラのことを知っているのか。素直で良い子だから仲良くしてやってくれ。剣が恋人とか言いそうな勢いなだから、さすがの俺でも少し心配なんだよ」
棟梁は店に似合わない声でがっはっはと笑った。なるほど、セーラさんと仲良しならこのスフレパンケーキの店もマカロンも納得がいく。それにしてもこういう偶然ってあるものなんだ。
「今、俺とのことを偶然だと思ったか? 待っていたわけじゃないが、偶然でもないぞ」
棟梁の言葉にお兄ちゃんは身構える。棟梁は声を潜めて続けた。
「実は最近、強大な少女魔道士の噂が広がっているんだ。病を治してくれるんだが、治せない感染性の病だと凍結してしまうという怪談じみた話だ。我が一族はいつか魔道王が復活するとの伝承を伝えてきたから、これこそ魔道王じゃないかと疑っていたわけだ」
私は顔をしかめつつ鼻で笑った。
「魔道王のはずがないじゃない。だって病気を治してくれるときもあるんでしょ? 大魔王は殺戮者で救済者なんかじゃないもの」
「アリス、その言い方は良くない」
「お兄ちゃん。魔道王リルは殲滅者で殺戮者だよ。癒しの呪文なんて使えない。平凡な人ですらできる癒しの薬草すら、枯らしてしまうんだ」
「今のアリスは普通に薬を使えるだろう」
「アリスは使えるよ。アリスは、だよ」
私の反論にお兄ちゃんはついに黙り込んだ。
お兄ちゃんは優しいから。
優しすぎるから。
だから私は忘れてしまいそうになる。しょせん、魔道王リルは大魔王と呼ばれるほど呪わしい存在だということを。自分の身の呪しさを忘れてしまいそうになる。
忘れたままでいたいと思う。
「なんていうか、重いんだな」
棟梁は私とお兄ちゃんを見比べつつ呟くように言った。
「さっきも言ったとおり、俺は爆炎騎士の裔をまとめる宗家だが、結局は剣術馬鹿だから難しいことをごたごた考えるのは苦手なんだ。ただ一つわかったことは、お前さん以外にも厄介な奴がもう一人いるってことだ」
私とお兄ちゃんは顔を見合わせる。急に少女魔道士が出てきて、それもこんな爆炎騎士宗家が乗り出してくる辺りジュピターが関係しているとしか思えない。
それにしても、少女魔道士。ものすごく引っかかる話だ。なぜ「少女」なのか。否、誰のことなのか。三人で考え込むが材料がなさすぎて話が進まない。
そうしているうちにパンケーキが三組とも届いた。私のケーキは名前のとおり、いちごやブルーベリー、ラズベリーがふんだんに盛り付けられ、甘い蜂蜜の香りが漂っていた。フォークを入れるとふわりと沈み、次いで柔らかいかけらを切り出せる。頭がぐるぐるしていたけれど、そのふんわりしたのを口に含むと幸せな気持ちになる。
「魔道王だが、魔道王じゃない、か。その表情じゃ大魔王の威厳がないな」
苦笑する棟梁に、私は胸を張ってうなずいた。
「そう。私は元大魔王かもしれないけれど、今は違うよ」
言って私はお兄ちゃんを仰ぎ見る。お兄ちゃんは私の頭を撫でようとして手を止めた。
「お兄ちゃん?」
お兄ちゃんは答えずに私の背後を指差す。
懐かしい気配を感じた。二人の懐かしい気配を感じた。それはアリスにとって懐かしい人。リルにとって懐かしい人。振り返れない。振り返りたくない。
棟梁が厳しい表情で私の背後を睨みつけた。幼く優しい冷気と、高潔で怜悧な冷気が背中を這い上がる。そして背後の気配が声を発した。
「アリス、こんなところで会えるなんて偶然、すごく嬉しいよ」
振り返ると、ジュピターの魔力を内奥したアデリーヌが微笑みを浮かべて立っていた。
 




