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海の藍と天の闇

「今日はお兄ちゃんを格好良くする使命があるの!」

 私の言葉に、見送るビアンカさんとセーラさんは優しく微笑み、お兄ちゃんは苦笑した。セーラさんは私にいたずらっぽい顔で声をかける。

「あまり適当なものを買おうとしたり安いもので済まそうとなさるのなら、うちの兄をコーディネーターに派遣して差し上げますわ」

「だってさお兄ちゃん。お兄ちゃんはうさぎさんにされるかな」

「僕もさすがにベアトリスさんの着ぐるみは勘弁だ」

 ビアンカさんはうなずき、ホットパンツ姿の自分を指差して言う。

「まあ、高ければ良いってものではないさ。私のように簡潔なファッションが板につくってのもあるし」

「ビアンカは無様ではありませんけれど、いつも少年に間違われることに少しは疑問を感じませんの?」

 すかさずセーラさんが突っ込み、ビアンカさんはうっと唸って首を傾げる。うん、私もお兄ちゃんも、初めはビアンカさんのこと騎士学校の男子学生だと思ったし。

「まあとりあえず、他にも楽しんでおいでよ、何回かお出かけしてさ。あとアリスも別なお洒落しても良いんじゃないかな」

 言われて私は自分の袖口に目を向ける。入学したときに買った藤色のドレス。魔法を使いやすいように、あと私の体形にも合わせて少しお直しをしたけれど、かわいい服でお気に入りだ。でもたしかに、ちょっとお出かけとなるとすぐにこの服ばかり着ている気はする。まあ、魔法の耐性もあるから便利なのだけれど。

 ふと私はリルとしての服を思い浮かべた。魔法先行戦闘先行の実用性に振り切った、漆黒の魔法服。体の線に合わせて縫製した上に、武器や魔法杖を隠しやすいようマントもつけられる構造にしていた。

 最初に街に来たときに似た服があって、欲しいと言ってお兄ちゃんに笑われたっけ。

 今も欲しい気がする。

 でも逆に、それを着たくない気がする。

 着なくて良い今の時間が、大切に思えるから。

 戦闘や陰謀のない藤色のドレスに甘えていたいから。

「私は、お兄ちゃんと歩いて欲しくなったらまた考えるよ」

 曖昧に笑うとビアンカさんは怪訝な顔をしたけれど、セーラさんは納得した表情で、行ってらっしゃい、と言ってビアンカさんの頰をつついた。あとでセーラさんが私の気持ちをビアンカさんに伝えてくれるんだろう。

 私とお兄ちゃんは胸を張って寮をあとにした。


 服より先にまず、文具屋に行きたいというお兄ちゃんの提案で、私たちは王都で一番大きい文具店に入った。お兄ちゃんは始終計算をしているので、安いノートをいつも買い込んでいて、私のノートもお兄ちゃんが買ったぶんから分けてもらって使っている。そのぶん、お兄ちゃんは他の文具を結構けちって使っているんだ。

 とくに鉛筆は後ろに鞘をつけて最後まで使うほどのけちり方だ。まあ料理の腕と同じく器用だから、ほとんど違和感がない変わった鉛筆だなって見えるようにしているんだけれど。

「全部を鉛筆ってわけにいかないんだ。簿記速記の授業はインクで素早く書く訓練もあるんだよ」

「何その面倒くさい訓練」

「帳簿を書き換えられたらまずいから、正確に素早く書いていく能力も必要なんだよ」

 ほんと、お兄ちゃんの学科は実用的だけれど聞くだけで面倒臭いというか忍耐力が必要というか。私は呆れつつ、そういえば私もインクが必要だったことを思い出した。

「私も魔法陣演習用のインクが必要だったっけ。私のも正確に素早く、だった」

「アリスも似たようなもんじゃないか」

「私のは魔法陣だもの。一つ間違えば事故の元だよ。事故って言っても安定魔法じゃ小さい煙が出るとか、大したことはないんだけど。でもうちの学校は開発魔法もあるし」

 言いながら自分でも白々しいなと思う。私の場合、書き間違うどころか両手足先で同時に別々の魔法陣を描く程度の芸当はできる。もちろん学校でそんなことは見せたりしないし、とくに安定魔法の魔法陣は安全確保の魔法陣を下地に書くという、リルの使っていた暴走上等な魔法陣とは違うので、その辺は本当に勉強が必要だったりする。

 あと、安定魔法の魔法陣はきれいだ。

 安定させると均衡ある紋章のような形になる。即効性や攻撃性のため、敢えて歪めることすらあった魔道王の魔法陣とは根本から違う。そういった美しさはダークマターが好んでいて、私リルは嗤っていた。

 嗤っていた自分のことが、今は恥ずかしい気がする。

 嗤っていたリルのことを、私アリスは哀れだと思う。

 だから魔法陣演習は、ちょっとつらい授業だ。

「アリス、大丈夫?」

 お兄ちゃんはインク瓶を握ったまま動かなくなった私の肩をそっと抱いてくれ、私は我に返った。最近のお兄ちゃんは、私の中のぐちゃぐちゃした部分に気づいているんだと思う。そしてこうやって安心させてくれる。

 安心させてくれて、何も訊かない。

 たぶん話せば全部聞いてくれるんだろうけど。

 でもこれは、できるだけ話しちゃいけないって思う。

 私が。私リルと私アリスが混じり合って解決しなきゃならない問題だから。でもそれは、リルがリルであることを喪うことのようで恐い。それでいてその薄れゆく自分に、アリスになっていく自分に幸せを感じている気もする。それがなんであれ、お兄ちゃんには話さないでおきたいと思う。

 私は曖昧に笑って再びインクを眺めはじめた。

 インク瓶は日用品と魔法学校の学生用、そして魔道士用に分かれている。学生用と魔道士用は品質の差で、実業魔法の職人さんや村のオババが仕事で使うのはだいたい学生用だ。魔道士用は精密な管理が必要な医療魔法の使い手や開発魔法の研究者で、サリーなんかは魔道士用を使っている。

 私たち学生用は素っ気ないガラス瓶か、中には初級学校用にウサギさんや猫さんの形をした瓶もあって、もう見ているだけで楽しくなる。一方、魔道士用は左右対称の流麗な蔦模様で装飾していたり、シャンパングラスのような洒落た形で、いかにも高級でお高いぞと主張していた。

 私が学生用を使うのは当たり前なんだけれど、実はリルとしても学生用の方が馴染みがある。魔道王時代には現代の魔道士用インクなんて高品質なものは大量生産できなくて、どうしても必要なら自分でインクの純度をあげる魔法を使って作っていた。こういう点は明らかに現代の方が進歩している。

 ということは逆に言えば。

「私、このウサギさんにしようかな」

「アリス、さすがに魔法学校で初級学校のを使うのは純度でまずいでしょ。僕も魔法は詳しくないけどさ」

 私にはにやっと笑ってウサギさんの純度を確認する。魔力の邪魔をする物質を取り除いても、インクが目減りするほどじゃない。

「私なら大丈夫だよ。これかわいいし安いし」

「安いって言っても……」

 お兄ちゃんは言葉を繰り返しかけ、私がそっと強めた赤眼に気づいて口を閉じた。

「それ、本当に大丈夫だよね」

「うん、得意だし『私なら』大丈夫」

 わざと今度は私なら、を強調して答えた。次いでお兄ちゃんはふと思い出したように付け足す。

「そういえばこの間、インクを買い足した日、アリスったら野菜炒めを全部食べたよね」

 お兄ちゃんが余計なことを思い出した。というか何でそんなこと覚えているんだろ。

「魔法を使うからお腹が減ると。そうすると苦手なものでも食べると」

「お兄ちゃん、お願いだから野菜炒めになすびを増やそうとか、そういうことは止めてね」

 お兄ちゃんはばれたか、と言って舌を出す。私は軽くお兄ちゃんの手を叩いてインクを買い物かごに入れた。

 次いでお兄ちゃんのインクだ。お兄ちゃんの場合は普通の金額は黒字、損金は赤字、そして署名用に青字のインクが必要だ。とくに財務コースの黒字は(すす)(にかわ)でつくった特別なインクを使う。

 お兄ちゃんは赤と黒の普通品を買い、青色に手をかけて手を止めた。お兄ちゃんが手に取ろうとしていたのは、誰かが間違って置いたのか高級品の青色インクだった。

 吸い込まれるような青色。花の島で見た海岸よりもさらに鮮烈な青色だ。

「ラピスラズリ、なんてすごいな」

 お兄ちゃんは書かれた値札にため息をつく。さっきの黒と赤と比べたらゼロ一つ違う。それは当然で、貴重な石を砕いてつくったインクだからだ。実はこれ、カイラが自分の署名に使っていたことがあるんだけど、ほんとカイラってそういうお嬢様なところ、気にしないっていうか。

 お兄ちゃんは笑って隣の藍色の瓶をてにした。まさに藍で植物からとった色だ。暗い青で黒に近い感じもする。でも私はこの色の方が実は好きだったりする。

 私リルは、鮮やかすぎる色が、ちょっと怖いから。それはリルの馴染んでいた戦闘の色じゃない。

「アリスは藤色とか、淡い色が似合うよ。アリスの赤眼はとくに紅が濃いからね。あと」

 お兄ちゃんは言葉を切って私をじっと見つめて言う。

「物語で読んだ魔道王リルも、そういう淡い色が似合ったと思えるんだ」

 私は、とお兄ちゃんの台詞に返そうとして言い淀む。寮の出がけに、戦闘のない幸せな時間、幸せな藤色が好きだって思ったことを思い出した。でも、お兄ちゃんが買い物かごにそっと置いた藍色の瓶を見つめて深呼吸して。

 お兄ちゃんが大切に買っている、帳簿に使う墨インクに心を寄せて。

「私も藤色が大好きだよ。でも、墨色だって、闇の色だって」

「闇色をまとったアリスのことも、きっと好きになるよ。あと、花の島で夜に見たような、藍色の夜空も似合うし」

 私の迷った言葉に、お兄ちゃんは即座に答えを返して微笑んでくれる。私はあらためて買い物かごの墨と藍に目を落とし、魔道王の魔法の先にも幸せな時間があるかもしれないと思えてきた。

 花の島でお兄ちゃんたちと眺めた星の夜空。海の藍と天の闇が出会う場所。でもその闇は清冽な透明だった。ふとなぜか、お兄ちゃんの計算能力がもしかしたら私の封印を解く鍵にならないかな、と奇跡を祈りたくなる。否、奇跡を祈るよりも、それを実現したいと思った。

 私は何だか気恥ずかしくなり、お兄ちゃんの背中にしがみついて顔をうずめた。

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