がんばる勉強会
今日はカイラの提案、というか泣きつきの結果、寮の談話室で試験に備えた勉強会をやることになった。今回は珍しくエルフのシリルまで参戦してきた。
「カイラさんはあの二人を目指しちゃいけませんよ」
シリルが苦笑して私とお兄ちゃんを指差す。私は気に食わないのでシリルの人差し指をぐいっと押した。
「アリスさんがすらすら解いているその問題、開発魔法コース三年生の最難関問題じゃありませんか」
「そうだっけ?」
私は首を傾げて目の前の数式を確認する。お兄ちゃんもそれを平然と検算して大丈夫、とうなずいた。ごく平凡な偏微分方程式だと思うけど。シリルは溜息をついて私を恨みがましく見やる。
「私もひどく苦手だとは言いませんが、まだ私たちはやっと三角関数を終えたところですよね?」
「財務統計と市場調査データを交差分析するには微積分が必要ですから」
「風の魔法や水の魔法って波を形成するから波動の計算が必要になるし、火の魔法は空気を膨らませる運動を計算する必要が出てくるし」
私とお兄ちゃんが当然のように答えると、カイラとルイーザは机を平手で叩いた。
「必要だからできる、それができれば苦労はしない!」
「安心して、僕もものすごく苦労して数学は勉強しているから。アリスはちょっと違うけど」
「本当だよ。お兄ちゃん一時期、食事と寝るとき以外ずっと計算していたし」
話している隙にカイラがそっと立ち上がって扉に向かっていた。けれどその襟首をシリルが掴んだ。
「カイラさんも勉強から逃げようとするのは諦めた方がよろしいですよ?」
カイラはにへら、と笑ってその場にくずおれた。
お兄ちゃんだけは騎士学校なので勉強の中身が違うけれど、歴史や数学、国語などは共通科目なので一緒に勉強する意味があるとはいえ、主にはカイラの教育係だ。実は私もお願いされたのだけれど、私のとくに数学や魔法基礎論の教え方はシリル曰く、試験対策でいちいち世界の深淵を覗き込む必要はないとのお達しでお役ご免となった。
そんな私なら勉強も不要だろうって思われがちだけれど、アリスとしては歴史や国語がまだまだで、リルとしては教科書に載っていない余計な歴史を知っていたり文学系はからきしだったりして、やっぱり勉強は必須になっている。とくに文学教養はほんと、リルの能力ではポンコツでアリスとして読むんだけれど、やっぱり十歳に大人の小説は難しくて気持ちが何だか読み取れない。
とくに今回の題材がほんと、厄介で。「梅の咲く頃」という、騎士と庶民の悲恋を描いた物語だ。ドラゴンから街を救った英雄に再び逢いたいばかりに自らドラゴンに変化し、梅の咲く中でその英雄に打ち倒されてしまうという悲しみの物語だ。
「これロマンチックで、勉強っていうより悲しく美しいよね」
ルイーザの言葉で急にカイラが元気を取り戻してうなずく。こういう文学だの演劇だのにはカイラは強いようだ。とくに恋愛物は好物らしい。ルイーザも曰く、オカルトと恋愛は大好物だそうで。どっちも私には苦手な食べ合わせ。
「嫌っていてはいけませんよ、教養と心の機微は大切なものです」
シリルも穏やかな声で言う。彼はエルフなので人間の心理とは異なる部分が多いはずなのだけれど、恋愛感情は人間もエルフも近しいらしい。そんな中で。
「僕もあまり、得意じゃないんだよな」
お兄ちゃんは頭をかいて苦笑し、私にうなずき返した。ルイーザとカイラは二人で顔を見合わせると、お兄ちゃんを呆れた顔で見つめた。
「兄妹ともにまだおねんねってことですかね」
ルイーザの言葉にお兄ちゃんは口をとがらせたけれど、シリルはふきだして言葉を重ねる。
「お兄さんは結局、才能よりは努力の人なんでしょうね。これ、褒め言葉ですよ?」
私は彼の言葉に首を傾げる。この会話の中で、どこにお兄ちゃんの努力家だってことが出てくるのかさっぱり意味がわからない。
シリルは私たちを見比べて続けた。
「こういう小説に敏感になれない辺り、カンヴァスさんは大人びて天才肌という印象があまりにもなくて」
「私はどうなの」
「アリスさんは十歳だから当然で、その逆に魔法理論をどんどんできるアンバランスさはむしろ天才の証拠です」
まあ、私もリルの知識があるからリルの努力、と言いたいけれど、努力一つで魔道王に到達できるのかと言われれば全くそんなことないし。
それにしても何というか。
自らの身を変化させる魔法を学んでまで逢いたい、好きな人。
好きという感情自体が、アリスとしてはほら、アデリーヌとか。お母さんお父さんとか。
リルとしては。
リルはやはり先生が言ったとおり寂しい存在だったのだろうか。寂しいと感じたことはなかったけれど。
寂しいと感じることすら知らないほど寂しかったのだと思う。
寂しいって気持ちは、寂しくない幸せを知って初めてわかる気持ち。
それはたぶん、誰にもとって当然すぎることで。
リルにとっては全然、当然じゃなくて。
だからますます、混乱してくる。
それってお兄ちゃんもかな。
「お兄ちゃんは好き」
ぽつっと呟いた私の言葉に、お兄ちゃん以外の全員がふきだした。
「その『好き』は全然違うものでしょう。この好きは苦しいものだもの」
「でもその苦しさは幸せなの」
カイラとルイーザが交互に言い、私はぶすっとしてお兄ちゃんの膝に乗る。お兄ちゃんは算盤を置いて私の頭を撫でた。気持ちがふにゃあ、となってくる。
わかんない。この間の医療魔法以上にわけがわからない。ジュピターも意味わかんない。ほんと、わかんないことだらけ。魔道王のリルなのに。いや私アリスだし。
自問しているうちに気づいた。
魔道王リルは戦うこと、生き延びること、そしてそれに絡む魔法と政治の謀略しか知らないことを。
それにこの恋心とかいうやつ。たぶん、ジュピターは裏で色々と臣民を操るためにも使っていたかもしれないことを。それも今の時代だけじゃなく、魔道王治世ですら。
本当に、魔道王は無知で孤独だ。
「だから仕方ないので僕も勉強するんだよね」
私の思考を打ち切るようにお兄ちゃんが呟き、私は慌ててうなずいた。
教科書を開く。梅の詩が載っている。詩の味わいなんて余計わからないけれど、それでも読んでみる。十歳のまま成長しないこの体でも、私は少しずつ成長していると思う。
そう思える自分は今、リルとは違う意味で寂しくなんかない。
「アリスさんのそれは何というか、本当に独創的ですね」
先生が引きつった顔で私の作品を確認する。私は視線を逸らしてルイーザに目をむけたけど、ルイーザは他人事の顔でわざとらしい柔和な笑顔を浮かべている。
今日は実業魔法入門実習の試験日。自由課題に合わせ、実業魔法の教科書以外の使い方を提示するというものだ。まあ大半は、風の魔法で洗濯物を早く乾かすとか、土の魔法でかわいい猫の土人形を作るとか(これはカイラだ)、そういうやつだ。で、私のやったのは。
「強大な爆炎と、それをはるかに超える土魔法で海水を包み込み、純粋な水と食塩と苦汁に一瞬で分離すると」
「食糧生産や医療に使えます」
「たしかに使えますね。使えますが、その魔力消費と安全性の効率は?」
はは、と私は笑ってみんなを見回す。みんな呆れた顔で溜息をついた。これ、カイラが医療魔法に純粋な水があると魔法処置後の患者に良いって言うから、お兄ちゃんに必要な温度とか調べてもらって、ついでにお兄ちゃんが豆腐を食べたいとか言ってたからにがりも作ってって、なんかそんな感じ。
「あと、目的がぶれているのでは?」
ばれた。私は頭をかいた。先生は私の受験票に「乙」のスタンプを押した。
「魔法精度、複数の仕事を組み合わせる独創性で加点。実業に落とし込むことを無視した魔法構成なので減点。よって難度も高ければ高度な魔法ですが、この試験としては真ん中です」
「うはー」
私は溜息をついて項垂れる。でも先生は私の塩を舐めてみて言った。
「あとこのお塩、何に使うの?」
「お料理だよ」
私の即答に先生は小さくふきだした。
「お料理に使うなら、お塩は純粋すぎない方が美味しいですよ」
私は意味がわからず首をかしげる。先生はシリルを指した。
「アリスさん、お料理は色々な味が混じっているでしょう。お塩もその方が美味しいのですよ」
「雑味と言う人もいるけどねー」
物知り顔でカイラが付け足す。私もその雑味って言葉の方が印象に合う気がする。でもきっと、その雑味が必要なのだろう。ふと、私は自分の使った魔法の跡を観察した。
あまりにも純粋に研ぎ澄まされた魔法と魔力。他の子たちは未熟さゆえの中途半端な魔法が多くて。
でも。
急に、梅の咲く頃、の課題図書を思い出した。苦しさが幸せで。その雑多な感情は何なのだろう。
アリスの、ただお兄ちゃんが好きという気持ちと違って。
魔道王リルの、ただ生存と支配を志向する意思と違って。
最近ずっとごちゃごちゃしてる。でもこのごちゃごちゃが私を作り上げている、そんな気がする。でもそんなごちゃごちゃを捨てたりしたら、きっとジュピターに酷い目に遭わされる気がする。
私はあらためて自分のつくった塩とにがりを交互に舐め、純粋なだけだとまずいね、と先生に笑った。




