悪霊の棲む国
「全員揃ったかな」
ビアンカさんが声をかけ、それを合図に私は最強級の防音魔法と攻性防壁を張り巡らせる。さらにその外側にサリーが普通の防壁魔法と警告魔法を張り巡らせた。
キノコあたま病騒動から一週間経ち、私たちはビアンカさんの呼びかけで寮の談話室に集まった。私、お兄ちゃん、セーラさん、サリー、レティーナ、カイラ、ルイーザ、そして遠方からくまさんことベアトリスさん。私リルのことを知っている面々全員だ。ルイーザはずっと関係なかったのだけど、先日のキノコあたま病で知ってしまったので来てもらった。
あとくまさんは今日も相変わらずくまさんの着ぐるみで、セーラさんとお兄ちゃん、私、ビアンカさんは慣れたものだけれど、他の面々は警戒している。あ、サリーは警戒というより研究対象の視線で魔法毛皮を見ていたからあれもちょっと違うんだろうけど。
ビアンカさんが再び声をあげようとしたとき、セーラさんが淹れてあった紅茶を飲むよう促してくれた。いつもの素敵な紅茶に薔薇の花びらのジャムが添えられていて、室内全体にふわりと薔薇の華やかな香りが広がる。ずっと緊張していたルイーザも表情を緩めてくれた。
でも。ルイーザは今日、私と一言も話してくれない。会釈しただけだ。こういう反応は初めてだったから私も迷ってしまう。だからと言って今のままじゃ。
「とりあえず今回の顛末に入る前に、アリスちゃんの挨拶だね」
ビアンカさんからの突然の指名に、私は飛び上がりそうになった。くまさんが机を叩いて笑っている。失礼な。するとお兄ちゃんは私の肩を叩いてぽつりと言った。
「大事な機会だよ」
そうだね、お兄ちゃん。たぶん今の私のこと、そして氷の魔道士・ジュピターとのことは、ルイーザだけじゃなく他の人たちにだって話さなきゃならない。
私は深呼吸すると紅茶を一息に飲もうとする。
「あちっ」
舌を火傷しそうになって叫んでしまい、舌を涙顔で出してしまった。みんなが笑う。今はまだ、笑っていてくれる。私は頭を掻いて前に出ると、あらためて深呼吸してから口を開いた。
五百年前の記憶、転生の魔法、アリスはアリスとして実在していること、リルの記憶は残っていても、心はむしろアリスに呑まれつつあること。私は必要な語れる限りの話を語った。
「でも、あの、魔道王様は、なぜ十歳という不便極まりない年齢に、収まられておられるのでしょう、か」
何も知らないルイーザが、最も嫌な質問をを素直に発した。もう一人、話を知らないくまさんも首を傾げている。レティーナは顔を背けると赤ワインをあおって吹き出す。お兄ちゃんも困った顔でうつむいて他人顔で算盤を意味なく弾いた。
私は溜息をついて全員の顔を見回し、低い声でぽつりと呟く。
「金庫の鍵は金庫の中」
「それは、何かの魔法語なのですか?」
とても素直なルイーザの言葉にビアンカさんが腹を抱えて笑った。私はさらに深く溜息をついて話した。
「魔道王リルは、自らが最高潮の魔力を有していた年齢で不老になる魔法を掛けた。また、幼い頃に魔法を何度も暴走させていたから、十八歳までは自分に掛けた魔法全てを解呪できなくしたの。でも、その最高潮の年齢が十歳だったことを本人も気づいていなかった」
「そうすると、永遠に十歳になってしまう。でも自分の魔法なら解呪すれば良いではありません?」
「もう一度言うよ。十八歳までは、自分に掛けた魔法全てを解呪できなくしたの」
しん、とその場が静まる。そして一同爆笑。私はその場に頭を抱えてうずくまった。くまさんなんて地面にひっくり返って笑い転げている。お兄ちゃんだけは含み笑いで済ましている辺り、むしろ優しさが痛い。
「それで、それで元大魔王なのに魔法学校に通学しているっていうわけ! せめて現代魔法でも勉強しないと!」
やぶれかぶれで一息に言う。お兄ちゃん、偉い偉いって無理して言わないで。
ようやくみんなの笑いが納まったところで私は立ち上がり、ルイーザに告げた。
「だから私はアリスであってリルでもあって。だからできれば今までどおり友だちでいて欲しいの。お兄ちゃんと過ごしてきて、今の私はたぶん、元の魔道王、大魔王リルじゃない、と思うから」
そう思いたい、と口の中で繰り返す。大魔王なんて名前は大嫌い。まだみんなに語っていない、貴族たちを虐殺するに至った私の生まれ。私自身もよく分からない出自。
本当に私は、人間だったの、だろうか。それすら自信のないリルという存在。
それに今。少しはすがっていた魔道王の肩書き、嫌いながらも独裁者としての顔すら。
無意識に。
あの、氷の魔道士に。
操ら、れて、いた、かも、しれない、だなんて。
それは恐ろしいことで。
そしてその力は、この場でふんわりと笑っているカイラという存在にも。
私は、カイラが、恐ろしい。
胸元に冷たい汗が流れ、へそに滴が溜まる。私は額に手を添えて。
「よく頑張ったね、アリス」
私の背中をお兄ちゃんが支えた。私はそのまま体重をお兄ちゃんに預ける。お兄ちゃんの体温が、私の凍りつきそうな心を溶かしてくれる。
酷く疲れたと思う。私は急激な眠気に誘われた。お兄ちゃんは私を抱き上げて言った。
「少し休憩にしてもらえますか?」
落ちるまぶたの端に、手をあげるビアンカさんの姿が見えた気がした。
目が覚めると、私はソファの上でお兄ちゃんのジャケットをお布団のようにかぶっていた。
「ほんの三十分程度だよ。大丈夫かい」
胸元にいるお兄ちゃんの言葉に、私は黙ってうなずく。ぴょこりと私の顔を頭から覗き込んだのはルイーザ。
「アリスちゃんはお寝坊さんだね」
「ルイーザ」
「なんか話がむちゃくちゃ過ぎるけど。とりあえずアリスちゃんはアリスちゃんって思った方がなんか楽っぽいなとか。できれば大魔王リルの霊が取り憑いたとかなら楽しそうなんだけど」
「勝手に怪談にしないでよ。怖いでしょ」
「自分の霊が怖いとか」
ルイーザが吹きだし、私の一緒に笑ってうんしょ、とお兄ちゃんのジャケットをのける。ルイーザが私の両手を取って立ち上がらせてくれた。
ビアンカさんは両手を打ち鳴らして一同を見回し、サリーとレティーナを指さしつつ言った。
「今回の騒動は表向き、そこのバカ二人の停学処分だけで収まっている。でも背景にあるのは五百年越しの事件だ。下手をすると魔道王治世二百年を加えた七百年の問題かもしれない。それに」
ビアンカさんはカイラに向き直って言った。
「氷の魔道士・ジュピターが未だ生霊として大魔王リルを手玉に取るような陰謀を巡らせているなんてことになったらこの国、否、世界がひっくり返る」
「私、そんな難しいこと言われても分からないよ。それにそこまでの大ごととなったら、王様の出番じゃ」
「それでカイラ、教えて欲しい。この王国の国王は誰なんだ」
唐突な言葉に私は首を傾げた。お兄ちゃんが痛いほど私の腰を抱き寄せる。他の人も驚いた表情を浮かべた。
「王国騎士見習いセーラ、君が剣を捧げる国王陛下の名前は」
「恐れ多くも慈悲深き国王陛下」
「私は国王の名前を訊いている」
黙り込んだセーラさんの代わりに、お兄ちゃんが平板な声で答えた。
「僕は今のところ、国王陛下についてほとんど習っていないよ」
背筋がぞくりとした。まさか、この国は。するとレティーナは赤ワインを再びあおって全員の顔を面白そうに眺めて言った。
「人間たちは知らないの? この国はずっと、五百年前から三人衆の国だと私たち人魚は思っているよ。でも闇の大神官ダークマターが亡くなっていたことは花の島で私も見たし、セーラの話だと爆炎の騎士スルトだってそうでしょう」
「そんな、ばかなことがあるっていうのかい?」
くまさんの言葉にビアンカは重々しくうなずく。ルイーザは顔色を青くして震え声で言った。
「ちょっとそれ、私でも気分が悪くなる怪談ですわね」
カイラは手の甲の傷をさすりながら、ようやく顔を曇らせて言った。
「一応、うちって王家の継承権はあるって聞いてるけど、私が何番目かは分からなくて」
ビアンカさんは力なく笑って言った。
「それはわかるはずがないさ。どういう形かは知らないがこの国は、この五百年もの間、氷の魔道士ジュピターが支配してきたのだから。だからこそ、私たちは誰も国王を知らないんだ」
私は呼吸が苦しくなり、お兄ちゃんの胸にしがみついて嗚咽した。