別離をもういちど
目が覚めると私は飛び起きた。同じ時代、この五百年の刻をともに超えたスルトがいる。たとえ私を殺したとしても、その本人が今ここにいるなら。誰かが私に寄ったが一瞬で払い退けてスルトの気配を探す。左側に感じ、即座に飛行魔法でその場に飛んだ。そして私は声をかけようとして。
紅い鎧を纏った、骸骨を目にした。
私は声を上げる。声にならない声をあげ、両手に無意味な破壊魔法を握り込み呪文を舌に乗せた。
「アリス!」
うるさいな。
「アリス!」
うるさい……うるさい? お兄ちゃん。
私は。
私は詠唱しかけていた呪文を止め、握り込んだ魔法を霧消させた。
自分の体を抱きしめる。震える。
震えを止めるために指に力を込めた。
足りずに爪を立てる。両方の二の腕に血が滲む。無意識に噛んだ唇から血の味がする。
「ねえアリス」
そっとお兄ちゃんの手が重ねられた。とつっ、と頭をお兄ちゃんに預ける。涙があふれた。なんで涙があふれてくるのかわからない。私アリスにはこんな複雑な気持ちが理解できないから。
私リルは、悲しいという感情が壊れているから。
言葉を発しようとして、何を言えば良いかも分からない。
「あ……う」
まったく言葉にならない呻き声だけをあげる。しゃくりあげ、お兄ちゃんが私の頭を撫でた。私は反転してお兄ちゃんの胸に顔を埋める。今、何が起きていたのかはまだわかっていない。それでもたった一つだけあらためて理解できたことはある。
五百年の刻を超えてしまったのは。私リル、独りぼっちだということを。
「ここはきっと、墓所だと思うのですよ」
三十分ほど経ってようやく私が落ち着いた頃、ベアトリスさんがゆっくりとした口調で言った。私たち残り三人は首を傾げる。ベアトリスさんは続けた。
「花崗岩の中で色の黒っぽいものは御影石と言って、よく墓石に用いられるのですよ。あと、花園ですね。墓所は花を飾るでしょう。それにこのダンジョンを隠す我が家の家訓はどこか死の匂いがします」
言われてみればそんな気もする。でも確証が足りない。ベアトリスさんも苦笑して言葉を続けた。
「確証はありませんよ。ただ、そう考えれば少しは整合性がとれるということです」
私はうなずきかけ、だがすぐに頭を振る。
「じゃあ、先ほどのスルトは。霊が迷っていたとか言うわけ? そんな気配ではなかった」
言って私は立ち上がり、スルトの遺骨に近寄って見つめる。あれは明らかに実体を持っていた。だからこそあれほどの剣技を放っていたのに。
と、私はその遺骨に違和感をおぼえた。あらためて遺骨を冷静に観察する。すると薬指に見慣れない指輪がはまっていた。こんなものを付けているのは見たことがない。そもそも剣を使うとき、その邪魔になるようなものは身につける男ではなかったと思う。
セーラさんが横に立って悲しそうに微笑んで言った。
「昔話どおりですわね。スルトは愛妻家で、妻との結婚指輪をことさら大切にしていた、と」
私リルの知らない話。リルを殺害したあとの話だろうか。何かが頭にちりっと反応する。私はそっと指輪に触れると、いきなり刺すような痛みが走った。
『私は、たとえ大魔王と対決してでも妻だけは護ると心に決めた』
スルトの声が聞こえ、私は目を見張る。他の三人も周囲を見回した。お兄ちゃんは呟くように言った。
「洞窟の水晶が、振動している」
たしかに、水晶がうっすらと魔力を帯びて声を発していた。だが私にはわからない魔法だ。
『大魔王リルにはわからない魔法だ、と氷の魔道士ジュピターは語っていた』
再びスルトの声が語り始めた。
『子孫と戦えて楽しかったわ。まだまだだが、少し前に来た女性よりは歯応えがあったな。さらにまさか、陛下が私を護るようになるとは、素晴らしい』
「それは、お前を問い詰めたかったからだ!」
『その前に、貴女は私たち二人の誇りを守ろうとした。滅することしか知らぬ大魔王が』
喉がひどく乾いていた。私は言葉を続けられない。
『残念ながら、この残留思念もここで役割を終える刻だ。陛下に幸あらんことを』
声が止み、完全に水晶たちが振動を止めた。もう一度指輪に触れると、指輪は砂のように崩れ落ちる。私もまた、その場にくずおれた。
ベアトリスさんには、お兄ちゃんから私のことを説明してくれた。ベアトリスさんはむしろ私の放った魔力も見ていたおかげですんなり納得してくれたし、秘密を守ってくれるそうだ。曰く、果樹園は生活魔法の一つで同じ生活魔法を志す者同士だからだと。まあそれは話半分としても、私リルの話を世間にしてもにわかには信じられないし厄介事で果樹園に迷惑をかけられそうなのが嫌だというのが本音だと思う。あとはセーラさんがすごい視線で睨んでいたし。
私たちは焼け残った水晶のうち、色の綺麗なトルマリンを幾つか拾って戻ることにした。ここが墓所であることもしばらくは私たちだけの秘密にするつもり。
地面の花崗岩を魔法で掘り込み、周囲にあった水晶を板状に切り出した。セーラさんは私の意図をすぐに理解してくれて、そこに白百合の絵柄を描いてくれた。これまで散々にみてきた、白百合と蔓草の模様。
「この意匠は我が家の紋章ではあるのですが、爆炎の騎士・スルトの軍勢でも用いていたという伝承があります。本当なのですか?」
ベアトリスさんの言葉に私は首を傾げた。それはたぶん、私リルが倒れたあとの話だ。この場にあるスルトにまつわる話の一つ一つが、私の知らない話と結びついている。そのせいもあるのか、今はスルトに対する恨みの気持ちが薄くなっていた。
むしろ。私リルがあの時代。
独りだったと理解してしまう。理解させられてしまう。
だからこそ私アリスは。爆炎の騎士スルトはこの場所に埋葬して隠してしまわないと、私リルが保たないって思ってしまうんだ。今はアリスがリルを支えていた。非力で幼くて無知なはずのアリスは、強大で老獪で博識なリルよりも今は強靭だった。この時代に、支えてくれる手がたくさんあるから。
洞窟を直接掘り込んで水晶板を張りつけた石棺に、私とお兄ちゃんはスルトの遺骸を横たえる。遺骨を守り続けたジュピターの魔法がまだ残っており、骨は分解することなくひとつながりで横たえることができた。最後に私は水晶の巨大な柱を切り倒して分厚い板をつくり、石館の上に被せて蓋とする。
表面に、爆炎の騎士・スルト、と彼の名前を書いた。そして少しだけ迷ったけれど、下にサインを書き入れる。
かつて、禍々しく穢れた支配者が用いていた正規の名、魔道王リル、その名を。
お兄ちゃんに手をひかれながら墓室を離れる前、最後に振り返ったとき、一陣の爽やかな風が私の頬を撫でた。
帰路は単純に戻るだけで何の困りごともなく進んだ。何の、は少し言い過ぎかな。私はちょっと魔法の扱いが少しおかしくなっていた。リルの部分がまだ心乱れていて集中できずにいたんだ。あと、元々の目的のセーラさんのお母さんの件はよく分からないけれど、スルトの残留思念とやらが言っていた「少し前に来た女性」のことだとは思うので、あらためてセーラさんがお母さんに直接聞いてみることにした。
「とにかく、僕は家に帰ったらビワかミカンをお腹いっぱい食べたいね」
「お兄様、実はくまさんが本体でその人間の体が着ぐるみなのではありませんか?」
「酷いな? お兄様は君が小さいときにお世話もしてあげたのに!」
相変わらずセーラさんとベアトリスさんは仲が良い。ただ、最初に出会ったときのようにセーラさんがお兄さんに攻撃する感じではなく、かと言って無理にじゃれる感じでもなく、なんだか普段のセーラさんになっている気がした。
管理舎を抜けてようやくセーラさんの花園の中ほどに着いた頃、セーラさんが立ち止まって申し訳なさげに言った。
「お母様に薔薇の花束を持って行ってあげようと思うのですの」
私とお兄ちゃんはどうぞ、とうなずく。ベアトリスさんは優しく微笑んで言った。
「セーラはお母様に自分から進んでは花束を贈らなかったと思うんだけど」
「いつもは、また最初から見越されてしまうのが嫌で贈りませんでしたわ。でも今日はもしかしたら見通されないかもしれませんし、それに」
言葉を切ると私を正面から見つめて言った。
「同じ時間を共有するなら、わかり合える方がずっと良いことのように思えてしまいましたの」
私はまた、ちょっとだけ泣きそうに揺れつつ微笑みを返す。この痛みを私はずっと抱えていくのだろうか。でもこの痛みはきっと、私にとってかけがえのない宝物のような気がした。
セーラさんは素敵な歌を口ずさみながら、剣と剪定鋏の両方を使って薔薇を刈り取り花束にしていく。なんていうか、うん。剣士の花屋さん。ちょっとした曲芸だ。思っていたらお兄ちゃんが拍手していた。
できた花束は紅白の花束で、その中に見慣れない薔薇以外の花が中心に置かれていた。それは鮮やかで濃厚な撫子のピンクで、頼りないほど薄い花びらと中心に黄色いおしべが見える。
私とお兄ちゃんが首を傾げると、セーラさんはいたずらっぽい表情で説明した。
「この花はローズヒップティーで使う、ローズヒップの花ですわ。花としては、ハマナス、と言った方が知っている人もおられるかもしれませんわね。この花の花言葉は、楽しい旅、美しい悲しみ、ですの」
言葉を切って私たちを見回し、そして頭を下げて言った。
「今日は皆さん、ありがとうございました。今日の気持ちを、そのままお母様にもお伝えします」
私たち三人も慌てて礼を返す。
顔をあげたセーラさんをみたとき、なぜか私は、五百年前のスルトの面影をみた気がした。




