グミは忘れない
お兄ちゃんとまた新しい果物を探しにいこうとした途端、私は首筋に何か気配を感じた。慌てて振り向きざま魔法杖を抜く。お兄ちゃんも私の隣で算盤を構えた。
やっぱ算盤なんだ。まあいいけど。
すると梅の木からどさりと、一頭の熊が落ちてきた。
くま。
うん、熊じゃない。ぬいぐるみのくまさんだ。かわいい笑顔ながら、いてて、と言って腰をさすっている。中に誰か入っている着ぐるみだ。かわいい。
僕とお兄ちゃんは顔を見合わせる。もしかして、セーラさんが何かいたずらを仕込んでいるんだろうか。私が駆け出そうとしたらお兄ちゃんががっしと私を抱き上げ、足が空中を蹴る。
「お兄ちゃん、あのくまさんと遊ぶ」
「不審者だったら危ないだろ、アリス」
「不審者だったら魔法でぶっ飛ばす」
「不審者さんの命が危ないだろ、アリス」
なんか納得いかない。いや私、リルの魔力の前で抵抗できる奴なんてめったにいないのはたしかなんだけど。私がむくれて体を揺すって抵抗していると、くまさんが声を発した。
「セーラはどこかな。今日はお客さんが来るとか聞いていたのだけど」
線の細い、若い男の人の声だ。お兄ちゃんよりは年上だと思うけど、お父さんたちよりは若いと思う。お兄ちゃんは私を背中におんぶして、答えを返した。
「貴方は、どちら様でしょうか」
「僕? 僕は果樹園の管理人のベアトリス。通称はくまさんだ」
はあ。管理人ですか。管理人? つまり、この魔法の果樹園の。私は即座に彼の着ぐるみ、そしてその奥にある魔力を計測する。その魔力はこの果樹園の気候を調整している不思議な魔法と似通っていて。
まあ、ほぼ当たりだと思う。
「お兄ちゃん、この人は大丈夫だよ。きっと、セーラさんのお兄さん」
お兄ちゃんは右手で私の手に触れる。私は魔法杖でお兄ちゃんの手をつつき返した。お兄ちゃんが安堵のため息をついて私を背中から下ろす。お兄ちゃんも私が魔法を確認したことがわかってくれたみたいだ。
「僕たちはセーラさんのお招きで遊びに来ました、カンヴァスと妹のアリスです。二人ともセーラさんと同じ学生寮に住んでいまして、僕はセーラさんの後輩に当たります」
するとくまさんは突然、警戒の構えを取った。
「僕は、僕は剣術も槍術も棒術も徒手空拳も苦手だしこのくまさんの歯は果物をかじるためで人をかじるためにはできていないんだよ。だから他流試合や熊狩には付き合えないということをよくよく理解して僕を襲ったりしないようにして欲しいんだ」
お兄ちゃんは、あー、と困った声を発した。これはおそらく。ほぼ確実に。セーラさんがお兄さんを相手にこれまでも色々とやっていて。
と、くまさんの頭の上にいきなり、一本の太い杖が立った。
「ベアトリスお兄様、いくら防護を固めておられても、目前の敵のみに気を取られていてはいつでも首をかけますわよ?」
たちの悪いお嬢様狂戦士が杖の上に器用に立ち、そして地上に降り立った。
「ベアトリスお兄様、修行が足りませんわ」
「セーラ、君はどうしてそう常に血生臭い思考でいるのかな? 普通に果物狩りを楽しみなさい」
セーラさんは子供っぽく首をすくめ、そして笑いながら私たちのそばにやってきた。
「申し訳ありません、こんな姿で御目通りさせてしまいまして。お兄様は気が小さいんですの」
いやそういう問題じゃないと思う。たしかにこの着ぐるみでうろついているくまさんもどうかしている気はするけれど。くまさんはため息をついて呟くようにお兄ちゃんに声をかけた。
「少女はいつの間にか、急に変わるものだからね。君も気をつけた方が良い。とくに変な影響を受けている気がしたらすぐに対処しないと手遅れになってしまう」
「手遅れというのは、何のことですかしら」
セーラさんの声が怖い。お兄ちゃんは乾いた声で笑い、私の頭を撫でて言った。
「たしかに、ある日急に、意外なことは起きることもありますよね。でも、それでも妹は妹ですよ」
ごめんお兄ちゃん。私は本当に。お兄ちゃんは私のことを察したのか、右手を優しく手のひらで包んでくれた。するとくまさんも少し柔らかい声で付け足すように言った。
「そこは僕も否定はしませんよ。色々と言っても、私にとってセーラは今も小さなかわいい妹ですから」
「ベアトリスお兄様! 今すぐここで熊退治の杖術の練習を始めたくなりましたわ!」
いや急すぎるでしょセーラさん。首筋がちょっと赤くなっているのがかわいい。なんか今日は意外なセーラさんの姿ばかりを見ていて何が何だかわからなくなりそうだ。よく観察すると、妹なセーラさんはいつもの戦闘狂の攻撃ではなく、どこかじゃれつくような雰囲気もある。
そんなとこは、私がリルとしてのあ意識に染まりきらずにお兄ちゃんへ魔法でいたずらしちゃう、そんなときと似ている気がして、ちょっと私も恥ずかしい気持ちになった。
くまさんはもっふもっふと歩いて私たちの近くに寄ってきた。腰には桃色の袋が提げてあり、袋には白百合の刺繍が施されていた。白百合。セーラさんの部屋の椅子にあった図柄と同じだ。
「これ、新作なんだよね」
真っ赤な楕円型の粒をくまの手の中に広げる。お兄ちゃんの親指ぐらいの大きさで、表面に白い斑点がうっすらと浮いている。何となく柔らかそうで、赤みに透明感を感じる不思議な実だ。
「グミの実だよ」
私はお兄ちゃんを振り返ったけれど、お兄ちゃんも首を傾げる。くまさんは小さく笑って言った。
「算盤騎士さんには苦手な分野だよ。これは今、世の中で売られていないから。実が弱くて、干し果物にもしにくくてお金に変えられない。今の僕もちょっと難しいかな。でも」
言ってくまさんはセーラさん、私、そしてお兄ちゃんに一粒ずつ分け、最後に一粒を自分の口に放り込んだ。
「僕にとっては、お客様と一緒に食べて、珍しくて甘いね、と言えて幸せになれる特別な果実だよ」
私もくまさんの真似をして口に入れる。途端、口の中にねっとりとした甘みが広がった。ほんの少しだけ渋みがある気もしたけれど、でも本当幸せな甘み。何よりかわいい木の実。
お兄ちゃんも口に入れ、幸せっぽいね、と笑う。セーラさんは私たちとくまさんを見比べ、口に入れる。セーラさんも味わい、そして体の動きを止めた。
じっと見つめていると、ぽつりとセーラさんは呟いた。
「お母様と、食べたことがありますわ」
そしてくまさんの手のひらに両手を重ねて続ける。
「私、ベアトリスお兄様とお母様に、これじゃないってわがままを言ったことがありますわ」
「セーラも覚えていたんだ」
二人の話に話とお兄ちゃんは首を傾げる。セーラさんはさらに懐かしむように話を続けた。
「甘い果物が欲しいって言ったのですけれど、屋敷の近くにはちょうど果樹がなかったんですって。それで代わりにグミの実をお兄様が持ってききて」
「違うよ。グミの実にしたのは、お母様だ。きれいでかわいいから喜ぶだろうって」
セーラさんは目を丸くする。
「お母様だって、小さなセーラの全てを見通せたわけじゃない。セーラもセーラで型破りだったしね」
セーラさんは少し考え込み、ふう、とため息をついた。
「お母様の千里眼も、完全ではなかったのね、昔は」
セーラさんの言葉に、くまさんは足元へ視線を落とした。
「そうなんだよね。昔はもう少し、ゆるい普通のお母様だったんだけれど」
くまさんの言葉に、私は何か不穏なものを感じる。案の定、くまさんは話を続けた。
「お母様の千里眼には、やはり何か秘密があると思うんだ。僕の記憶では、お母様が花園の奥にある御社にこもったあとに始まった気がする」
私たちはセーラさんを振り向いた。セーラさんは眉をひそめながら言った。
「私がお世話している花園の奥に、小さな祠がありますの。何の神様を祀っているのかもわからない、ただ『御社』とだけ言われる祠に一時期、お母様がお参りしていたそうですわ」
私も小さかったからよくわかりませんけど、とセーラさんは自信なげに言葉を閉じる。お兄ちゃんは私を見つめ、次いでセーラさんに向き直って言った。
「もし調べるなら、僕とアリスもできることは協力できるよ」
くまさんは両手を叩いて嬉しそうに言った。
「セーラ、もしかしたらこれは、本当に大事な機会かもしれない。挑戦してみたらどうだ?」
セーラさんは驚いた表情でくまさんを見つめる。
「ベアトリスお兄様が、こんな積極的なことを仰るだなんて。いつも引き止めるばかりですのに」
するとくまさんは両手を広げて戯けるように答えた。
「警告なんてものはもう四人で食べてしまったじゃないか。なんと言ってもグミの実の花言葉は『野生美』と『用心深い』なのだからね」
ずいぶんなこじつけだ。でも、そんな言葉の優しさに私たちは笑い返して、花園の探索を話し合い始めた。




