馬車は走る
セーラさんのお誘いから一週間が経った。今回もカイラが参加したいと申し出たのだけれど、家の儀礼的なパーティーが入ったそうで泣く泣く欠席となった。レティーナも興味はあったようだけど、セーラさんの家は内陸なので流石に人魚としては怖気づいたみたい。あとサリーは肉々しい一族なんて真っ平ごめんと興味なし、といったことで、付いていくのは私たち兄妹のみとなったんだ。
セーラさんの実家までは乗合馬車で行くこととなった。セーラさんはお嬢様だから専用馬車を使えるはずなんだけれど、セーラさん自身が乗合馬車に乗りたいということらしい。曰く「乗合馬車の方が血湧き肉躍る何かが起きるかもしれませんもの」とやら。他のお客さんから見れば、ずいぶんと物騒なことを考えている。でも、お兄ちゃんは専用馬車なんて気を遣うと心配していたし、私も実家とこの街まで以外の乗合馬車なんてほとんど乗ったことがないから、楽しみっていう気持ちは同じだ。
そんな訳で、私たち三人は早朝から乗合馬車待場で馬車を待っていた。セーラさんはいつもの優雅な笑みで優雅に立っているけれど、私とお兄ちゃんは眠い目をこすっている。とくに私は昨日、緊張しちゃって寝ついたのが遅かったから、ちょっと油断すると立ったままでも眠ってしまいそうになっちゃって、さっきからお兄ちゃんが背中をぽんぽんしてくれている。
「もう少しで馬車が来ますから、辛抱ですよ」
セーラさんは私に小さなコップを持たせるとハーブティーを注いでくれた。湯気とともに少し酸味のある爽やかな香りがふんわりと広がる。促されて口に含み、暖かさと香りで少し気持ちがしゃっきりとしてきた。
「セーラさん、アリスには馬車の中で寝させようかと思っていたのですが」
「大丈夫ですわ。これはレモングラス、気持ちがすっきりするだけで、紅茶のように眠れなくはなりませんわ」
セーラさんは心配性のお兄ちゃんへ即座に答えた。お兄ちゃんはほんと心配性だよと思いつつ、その先まで考えていたセーラさんには感心してしまう。
私たちの他には、毛皮の腰巻をした筋肉質のおじさんと眼鏡をかけた線の細いお姉さんの二人が待っていた。おじさんは私の背ほどもある箱を横にして地面に置き、それに腰掛けている。お姉さんの方は二十歳ぐらいだろうか。左脇に何か重そうな書類挟みを抱えていた。
「あんな何もない田舎に旅行かい? 物好きだね」
おじさんがいきなりお兄ちゃんに声を掛けた。友人の家を訪問します、とお兄ちゃんは短く答える。おじさんもセーラさんと同じ町に住んでいるそうで、今回は山で獲った鹿や山菜を王都で売り、その代金で必要物資やお土産を買ったそうだ。おじさんは日焼けてがさついた大きな手で腰掛けていた箱を開け、中から可愛らしいうさぎのぬいぐるみを大事そうに取り出した。
「娘に何を買ってやれば良いのかさっぱり分からん。だからと言って嫁に訊くのも癪だからね。でも結局は店員さんがおすすめしたぬいぐるみを買っちまったよ」
ちょっと情けないことを、でも優しい笑みを浮かべて語る。ふと私も、お父さんのことが懐かしくなっちゃう。ぎゅっとお兄ちゃんの服の裾を握り込むと、お兄ちゃんが優しく私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。何となく胸のざわつきが静かになる。ぽすりとお兄ちゃんの背中に顔を埋め、セーラさんに目を向ける。
けれどセーラさんは、ほっこりする場面のはずなのに少し険しい表情を浮かべていた。でもすぐにセーラさんは私の視線に気づいたのか、狂戦士じゃないときの柔和な笑みに変わって小首を傾げる。
変なの。
私の中のリルの部分は無関心なんだけど、アリスの部分はまた、そんなセーラさんに胸がざわついた。何ていうか、胸がきゅっとする。ふと振り返ったときにお兄ちゃんにもうちょっとで手が届かない場所にいたときの寂しさ。お母さんって声を掛けたとき、声が届かなかったときの不安。
なんかそういう、大したことじゃないって分かっているのにお布団に顔を埋めたくなるような、変な寂しさをセーラさんに感じちゃったんだ。
でも、私には。
アリスには、この気持ちと予感を言葉にできなくて。
リルには、この気持ちを理解すらできなくて。理解できない自分自身が気持ち悪くて。
私はまた、黙ったままお兄ちゃんの背中に顔を埋めた。
私たち四人を乗せ、馬車は走り始めた。お姉さんは馬車に乗ってすぐ書類を開いて読み始めたけれど、すぐに額を押さえて眉根をひそめて書類を閉じ、窓の外をぼんやりと眺め始めた。馬車の揺れで酔ったのかもしれない。
一方、おじさんの方は違う意味で軽く酔い始めた。そう、お酒を飲み始めたのだ。私たちに絡んだりはしないけれど、上機嫌できつそうな茶色い液体を飲んではぷはあと息を吐く。お父さんはお酒をほんの少し、それも秋祭りや私たちの誕生日とか、特別な日にしか飲まない人だったし、リルはこういう、知覚の鈍るものは全部避けていたし。だから私もお兄ちゃんも酔っ払いは苦手。私とお兄ちゃんはお互いに目配せして、なるべくおじさんから目を逸らした。
おじさんは大きめのガラスの器を取り出すと、それにまた茶色の酒を入れて水で数倍に薄めた。そしてその真ん中になんと、黄色い花を浮かべたのだ。
「たんぽぽって苦いよね」
こっそりお兄ちゃんに耳打ちすると、聞こえてしまったのか、おじさんは大きな声で笑った。
「これはたんぽぽじゃないよ。菊の花だ」
おじさんは私の目の前に酒を持ってくる。ふわりと漂うアルコールの匂いに一瞬だけ顔をそむけたけれど、好奇心が勝ってあらためてグラスを覗き込んだ。たしかに、よく見るとたんぽぽとは違う花だ。
「荒地に菊が咲くってね。俺の田舎じゃ縁起物なんだよ。あと、水に浮かぶ月という人もいるね」
たしかに、丸く咲いた菊が水面に揺れる姿は満月みたいにも見える。するとセーラさんがそっと歌った。
「荒地の菊に水を遣ろう。咲いた花を手折らず愛そう」
「よくその歌を知っているね。若い子は知らない者も増えているというのに」
「私は好きですわ、この歌。私はハーブティーが好きですけれど、ただ咲いている花を愛してあげるような気持ちは素敵だと思いますの」
「優しいんだね、あんたは」
「いえ、勇ましいのですわ。手折らず愛するならば、その土地を丸ごと守る必要があるのですから」
セーラさんは窓の外に視線を彷徨わせた。おじさんはふむ、と唸って考え込んだ。
「そうか、土地ごと守ってやらなきゃならんのか。それはまた、騎士様の考えだな」
二人が和んだところで、書類を抱えていたお姉さんが急に顔をあげてセーラさんをじっと見つめ、そして言った。
「掘り返して家の中の鉢に植えれば、手折らず守れるでしょう」
「閉じ込められた菊は、太陽や月、夜風を喪って悲しくなるわ」
セーラさんは即座に言い返した。書類のお姉さんは苛ついた声でさらに言い募った。
「閉じ込めるのではなく、大切にするの」
「大切にするなら、束縛しないはずですわ」
再びセーラさんが言い返し、拳を握り締める。様子がおかしい。ちょっと苛ついた感じで、でもいつもの狂戦士化する空気でもない、むしろ何かもっと陰鬱な空気が馬車の床底を這い始める。お兄ちゃんは私の肩をしっかりと掴み、口にそっと手を当てた。
お兄ちゃんも何を言えばいいか分からないみたい。そして私にも黙っているようにって。でもこの陰鬱な空気を、またおじさんが破った。さっきの花入りの酒を飲み干し、笑ったんだ。
「大切なら一緒にいたい、でも大切だから自由にしてやりたい、うちの嫁も子供らのこと、どっちも言っては俺に考えてねえって言いやがる。まあ俺は飲んで稼いで好きにしろってなもんよ」
赤ら顔になったおじさんはまた豪快に笑った。お兄ちゃんはちょっとだけわざとらしいけど、おじさんに合わせて笑う。そしてお姉さん、セーラさんも笑って。
何だか分からないまま、私たちはおじさんの調子に乗せられてしばらく笑って、そのまま楽しい気持ちになって本当に気持ちよく笑っていたんだ。