スパイシー・ハンバーグ
うんしょ、と柱にぴったり背中を合わせ、膝が曲がらないように体を伸ばす。お兄ちゃんが私の魔法杖で柱に傷を刻みつける。
「少しは、どうかな」
私の、ほんの少し期待の溜めた視線にお兄ちゃんは視線を逸らして言った。
「今日は何が食べたいかな。久しぶりにハンバーグにしよっか」
お兄ちゃんの優しさが胸に刺さる。その優しくって美味しいお話ってことは、うん。いや分かってはいるんだけれど。リルのばか。リルがいるから成長しない、身長だって伸びないんだ。久しぶりに私の中でアリスとリルがぴったりと分離する。いや、久しぶりってことはないか。毎月一回、身長測定の日。
「ねえアリス。魔法が解けないうちに毎月測るのって、なんていうかさ」
「無駄なことぐらいわかってるし」
私はお兄ちゃんの言葉にかぶせるように答え、口を尖らせてそっぽを向く。進歩がないことはわかってるわかってるけれど、でもやっぱり少しは確かめたいじゃない。私アリス、十歳だよ? 今は伸び盛りなんだよ。
伸び盛りのはずなんだよ。
胸の中でアリスがリルをじっと睨みつける。学校はみんな年上だし、リルの影響もあってアリスも大人っぽくなってきているけれど、こういう身長とか。体形とか。そういう話になると私はやっぱり十歳の気持ちになる。
まあまあ、と言ってお兄ちゃんは少し乱暴に私の頭をくしゃっとなで、膝の上に抱き上げてくれる。ぽすりとお兄ちゃんの胸に頭を預けるとほっとする。
こうしていられるのは、今もまだ十歳になりたての体だからかな、なんてことも思う。大人のリルの体じゃこんなの、本当ならありえないし。私の中のリルの部分が沈黙する。こういうちっちゃな幸せを知らないリル。
そんなことを思うとこの時間も大事かななんてことを思う。思っている私はアリスなのか、いやきっと。
難しいこと、考えるの面倒くさくなってきた。
このままお兄ちゃんの膝でまどろみたくなってきた。
ふんわりとうとうとしてしまう。
まぶたが落ちてくる。
「アリス、ご飯だよ」
本当に私、寝てしまったみたい。ちゃんと私はパジャマに着替えていた。お兄ちゃんが着替えさせてくれたみたいだ。私は急いで服を着直すと食卓に向かった。
食卓にはお兄ちゃんのほか、セーラさんがいて紅茶を淹れてくれていた。
「こんばんは」
セーラさんはいつもの上品な態度で着席する。今日はセーラさんを呼ぶなんて言っていたっけ。よく分からないけれど、狂戦士状態にならないセーラさんは優しいし上品だからいいっか。それどころか、落ちこぼれお嬢様のカイラよりテーブルマナーとか好きな様子。私は中に二人が入っているけれど、セーラさんも本当は中に二人入っているんじゃないかって疑いたくなる。
今日はお兄ちゃんの言ったとおり、ハンバーグだ。柔らかくて肉汁もたっぷり、ソースは私の好みに甘みたっぷりに仕上げてくれていて美味しい。他の人が出してくれるご飯が美味しいのはわかるのに、自分で作ろうとすると急にからっきし分からなくなるのは情けない。
ただ最近思う。本当に私は、リルは分からないのかなって。リルが自分でも気づかないまま、分からないって意固地になっているだけじゃないかって。分からない自分の殻にこもろうとしてるんじゃないかって。
アリスの部分がリルの内面を少しずつ侵食して、少しずつリルのもう一つの顔が見えてきた気がする。伝説にあるリル、リル自身が見ているリル、そして。
歴史にもリル自身も気づかない、本当の内側に隠されたリル。そんなリルの気持ちが、姿がこうやってお兄ちゃんたちと平和な時間を過ごすたび、少しずつ姿を現すんだ。
「ちょっとこのハンバーグ、美味しいですけれど、甘すぎませんこと?」
セーラさんがハンバーグを食べて笑顔ながらに文句を言う。食べ物や紅茶に厳しいけれど、出された手料理についてわざわざこんなことを言う人ではないと思っていたんだけど。ちょっとセーラさんに幻滅。お兄ちゃんもやっぱり意外だったみたいで、すみません、と言いつつも不満そうに自分のハンバーグを小さく切っている。
するとセーラさんは私の方をじっと見て言葉を重ねた。
「甘すぎませんこと? アリスさんに合わせすぎて」
私はセーラさんの顔を思わず見つめる。セーラさんは少し厳しい顔つきで続けた。
「このハンバーグはとても美味しいですわ。でも、もう少しスパイシーに仕上げた方が香りも味も上等になるのではなくて? カンヴァスさんも、もう少し大人の素敵な男性になれるのではなくて?」
セーラさんがお兄ちゃんへ視線を流す。その流し目に、お兄ちゃんはもちろん私もどきりとしてしまう。いや、私のどきりとお兄ちゃんのどきりはちょっと違うかもしれない。素敵なお兄ちゃん。格好良いお兄ちゃんを想像して嬉しいような、でも今のセーラさんに取られてしまいそうな。
セーラさんは右手を口に当て、くすりと笑った。
「私、今のところ恋愛はお話やお芝居で十分ですわ。恋のさや当てよりは本物の剣戟の方が……なんてちょっと恥ずかしいこと言わせないで」
どう見ても敵を抹殺する動きでナイフを動かしつつ頬に手を当てて顔を赤らめる。やっぱ駄目だこの狂戦士お嬢様。でもセーラさんの甘すぎるという言葉の意味が、少し重く私の中に落ちてきた。
「もちろん、アリスさんも素敵なレディを目指すべきですわ。だってお兄様と釣り合う妹でいたいのでしょう?」
何だかんだ言っても、ほんと優しいなセーラさん。これで狂戦士モードさえなければ理想のお姉さんなんだけど。思っていたらセーラさんにハンカチで口元のソースを拭われてしまった。ちょっと恥ずかしい。
「それで甘口のご兄妹に相談なのですが、来週末、私ちょっと実家に戻ることにしましたの」
セーラさんの実家。先日、行ってみたいと言っていた場所だ。
「小旅行、一緒に行ってみませんか?」
私とお兄ちゃんは当然、行くと即答する。するとセーラさんは少しだけ陰のある表情になって答える。
「以前、お話しましたね。私にとって実家は、あまり好き好んで行く場所ではありませんと。でも貴女たちが一緒にいてくれると気持ちが晴れそうな気がするんですの。それに」
セーラさんは少しだけ意地悪な表情を浮かべて言った。
「私の実家は特殊ですから、ご兄妹にはちょっとした刺激になるかもしれませんわ」
「それは、先ほどのお話とも関係するのですか」
お兄ちゃんは慎重な声つきで尋ねる。セーラさんは真顔になって答えた。
「何というか、私が帰りたくないような家ですから。それに私の本家は大魔王リルの配下、爆炎の騎士・スルトの血筋にあたります。私自身はもう名乗るのも恥ずかしいほどの遠縁ですけれど」
リルの部分が体を硬くする。でも遠縁と聞いたのと、スルト本人とセーラさんのあまりの雰囲気の違いに、カイラに感じたような抵抗は全くない。だからこそ、向こうに待っているかもしれない試練は、受けなきゃ駄目だと思った。私は今のままだと本当に不完全だ。あの学校探検での色々な暴走、使えなさ。
アリスの子供だから当たり前の弱さと、リルの狂気がもたらす暴走。でも。このまま、今いる場所に立ち尽くしていたら駄目なんだ。学校に行こうと決めたときの想いが蘇ってくる。
ふと、アデリーヌの笑顔が目に浮かぶ。
私はきっと、大丈夫。
「安心してください。一緒に頑張ってみましょう」
お兄ちゃんが優しい笑顔で私とセーラさんに声を掛ける。セーラさんはほんの一瞬だけくしゃっとした表情を浮かべ、すぐに上品な笑顔で答えた。
「それでは週末の夜、旅立ちの準備をしてくださいませ」
小旅行という名の、また小さな冒険が始まった。