アリス、回り道に向かう
「今日は、止めるよ」
私のあっさりした発言に、お兄ちゃん、サリー、カイラの三人はぽかんと口を空けたままになった。だから私は再び丁寧に言葉を繰り返す。
「今日は私、調べるの止めるよ」
私の言葉で、まずサリーが最初に硬直から解けた。
「何で? せっかく謎に挑戦できる機会を後回しにするとか、何の意味があるの? というかそれ生きてる意味あるわけですか?」
生き甲斐まで言い始めたよこの人。するとすぐにカイラも慌てて言葉を重ねた。
「今朝、私わざわざ早起きしてサリーさんのお洒落計画のお手伝いしたんだよー。それで中止って何なの?」
うん、と私は返事を飲み込みつつお兄ちゃんに目を向ける。お兄ちゃんは小さく首を傾げながら言った。
「まだアリスは、氷の大魔導士ジュピターとは、何というか、会えないみたいな」
「初代様と、会う?」
お兄ちゃんの言葉に、カイラは首を傾げて私の顔をじっと見つめた。ジュピターに似た瞳の色に、私の手が小さく震えそうになる。けれどそんなの見られたくないから、私は手を後ろ手に組む。なのにお兄ちゃんは当たり前みたいに後ろに組んだ手を撫でてから肩を抱き寄せた。
「まだアリスは、魔道王リルは、心の準備ができていない。準備、というか、育っていない」
サリーもカイラも再び首を傾げる。お兄ちゃんは困った顔で私の瞳をじっと覗き込むように見つめてくる。私も何だか気恥ずかしくなって目を逸らしつつ、それでもお兄ちゃんの言葉にうなずいてみせた。
たぶん今、言葉にしようとしても。
否、絵や音楽とか、どんな方法でも表現なんてできない。私の中で、私が理解できていないから。私って、リルでもアリスでも。花霧島にいたとき、ダークマターには対峙できたのに、何でジュピターが駄目なのかはよくわからない。わからないけれどたぶん。
私の飛び越えた時代とともに、五百年にわたって時を積み重ねて生まれたカイラがいて、そのカイラは私の友達で、そして私の吹っ飛んだ記憶ではたった十年前に私を裏切った奴の子孫で、あいつの癖や好みまで重なっていて。
それは今、友達だと思っているカイラを信用し続けられるのか、不安になって。
信用して大丈夫って笑う私と殺して滅ぼしてしまえって私が同時に相手の私を支持しているというかもう私の中がぐちゃぐしゃにこんがらかっていてそれは私自身が怖くって、だから。
「私自身が怖くって、だから」
言葉が漏れてしまう。慌てて口元を抑え、顔を背けてお兄ちゃんの胸に顔を埋める。カイラの不安そうな声が聞こえるけれど、私は耳を両手で塞いでお兄ちゃんの体に顔を埋める。たぶん、こんな私の無茶苦茶な思考はわかるはずがない。私だって、リルとアリスが同居している私だからこそであって。
それなのに、私自身はお互いどちらかを否定できずむしろ相手を支持していた。頭痛がしてきて気持ち悪い汗が背を流れる。背骨の周りに雫が溜まって気持ち悪い。
他人を信用するなんて甘ったるいことを考えるのは止めようとリルは囁く。そんなの嫌だって、カイラはおばかでお兄ちゃんに色目は使うけど、でも学校のクラスが襲われたときには前に出ちゃうほど優しくって、無謀でも勇気はあって、そして私のことを大切にしてくれて。
だから、私は。
「リルは、黙って!」
私は叫ぶ。でもアリスがリルを怒鳴っている感じじゃなく、リル自身が怒鳴りつけていた。私の中のリルの部分すら、昔のリルに戻りたくはなかった。お兄ちゃんから身を離し、自分の体を自身の両腕で抱え込んで目を閉じる。さっきのお兄ちゃんの声を思い浮かべ、また深呼吸する。
目を閉じたまま、肌と耳でこの空間を感じる。お兄ちゃんと、サリーと、そしてカイラの気配。扉の向こうには執事さんの気配も感じる。そこには私の憎んだ気配、私の懐かしい気配は無かった。
ジュピターの気配は、どこにも無かった。
当たり前だけど。
その当たり前を改めて確認したくなるほど、私は怯えてしまっていた。そして、その怯えた感情をみんなに見せてしまって、それを危険だとも思わないなんて戦う上では堕落していると思う。
でも、きっと。
アリスとしてこの時代に生きている私にとって、それは大切なものだと思う。それが何なのか、相変わらずよくわかっていないけれど。この甘えた感情は、手放しちゃいけないものだって思う。そして、それをすぐ手放しそうになる今の私はあまりに歪で。
だからきっと、今の私はジュピターになんて対峙できるわけがない。
「カイラ、もうしばらくアリスと普通の友だちでいて欲しい。ジュピターとか関係なく、ただ友だちとして」
お兄ちゃんが真面目な表情でカイラに呼びかける。カイラは全く当然といった顔で答えた。
「先祖のことなんて関係なく、私はアリスちゃん、大事な友だちです!」
サリーは肩をすくめて天井を仰ぎつつ、優しい声で笑った。
「しばらくジュピターについては放置ってことですかね」
帰路につき、サリーは少し名残惜しそうに言った。お兄ちゃんは考えながら答える。
「もう一人、爆炎の騎士スルトもいるけれど、そちらの方もすぐには動かない方が良い気がする」
私はうん、と曖昧な声で答える。お兄ちゃんは一人うなずきながら言葉を続けた。
「まだアリスは、色々と自然体で勉強した方が良い気がするんだ。勉強だけじゃなく、みんなと遊んだりするのもそう。色々と経験した方が良いと思う。別に冒険に出かけなくてもね」
「でも冒険や研究は面白いと思いますがね」
サリーは少し不機嫌な声でお兄ちゃんに答える。お兄ちゃんは私の肩に手を置いて言葉を重ねた。
「もちろん、そういうのも安全な範囲で有りだとは思いますよ。でも、まだアリスは」
言って私の瞳を覗き込んでくる。私は何だか恥ずかしくなって慌てて目を逸らしてしまった。でも、お兄ちゃんの言う通りだとは思う。リルは覚醒してほんの一年、やっぱり不安定だと思う。その不安定なままでは、この国を壊してしまいかねない。
お兄ちゃんと、お父さんお母さんと、アデルとアデリーヌと、そして王都で知り合ったみんなとの、今の甘ったれた関係に、私はもう少し浸っていたいと思う。その関係を守りたいと思う。でも今、私が最も信用できないのは私自身なんだ。だからたとえ回り道でも、私自身が暴走しないように確実に歩まないと駄目なんだ。
「アリス。もう少し、ゆっくり行こう。僕も一緒に歩くから」
私は黙ってうなずくと、お兄ちゃんの左腕をふんわりと抱きしめた。