アリス、花冠を戴冠する
私にとって最大の弱点は、リル治世での普通の女の子を知らないことかもしれない。実験動物か、逃亡して抵抗する裏組織か、大魔王と恐れられるほどの絶大な王権か。
そこに普通の生活なんて、無い。
でも、お兄ちゃんが見出した「謎」を解くにはそういう何気無いものが大事な気がして。さらに今の普通だって、十歳の普通が私の普通で。大規模な開発魔法という、一見万能な魔法を使いこなせるアリスは、実は大きく欠落しているというのが、今の実情なわけ。
「それを埋めるには、やはり私たちのような常識ある大人の女性の手助けが必要だということですよ」
図鑑を振り上げながら、非常識な研究狂がものすごい勘違いを披露していた。
「それはダメですよー。サリーさんは非常識だし、大人げないし」
「お、カイラったらすっぱり言っちゃったよこのお間抜けちゃんが」
レティーナがからかいながら笑っている。お兄ちゃんは肩をすくめたが何も言わない。カイラは花の冠を完成させ、私に恭しく掲げて言った。
「私の家は元々、三人衆の血筋だから古い資料とか蔵に残っているよ。何かの助けになるんじゃないかな」
カイラの手にある花の冠はシロツメクサで編んだもので、額の当たるところには一輪、アカツメクサの花がルビーのように飾られていた。緑の優しい鎖に、白く輝く真珠と赤いルビー。私が三人衆に威厳のため、と被せられた王冠に似ている。
でもその王冠は被った途端、私の魔力と打倒した王家の呪詛にあてられて、頭を囲む金は錆び真珠は黒真珠に変わり果て、ルビーだけが血の色に紅く輝いた。そして私は蔭で魔王と唾棄された。
私は半歩だけ後ずさり、そしてカイラありがとう、とだけ言った。でもカイラは異様な素早さで私に飛びつき、花の冠を私に被せてしまった。体が硬直する。シロツメクサにこわごわと手を当てる。
「ほら、可愛く似合っているよ」
カイラは私が必死で教えた水鏡の術で鏡を現出させた。青い顔をした私が、真っ白な王冠を被っている。お兄ちゃんが似合うよ、と声をかける。青ざめた私の頬がみるみるうちに赤くなる。首をかしげてくるりと回ってみる。それでもまだ、白い花は白いまま、赤い花も赤いまま。
私の、初めての純潔な冠だ。私はやっと、大きい声でカイラにありがとう、とはっきり笑顔で告げた。
「せっかくなので、夕食は現地調達しませんか」
カイラの提案に、面白そうだと一同賛成。早速サリーが手を挙げる。
「私、野草好きなんですよ。キノコ得意ですよキノコ」
「却下」
お兄ちゃんがにべもなく答えると、サリーは食ってかかる。
「何で何も聞かずにいきなり却下なんですか!」
と、横からレティーナがサリーの図鑑を奪って頁をめくる。
「ねえサリー。何で貴女は『フライが美味しい笑い茸』とか『スープに美味な痺れホウレンソウ』とかの頁を折っているのかな」
全員の冷たい視線がサリーに集中する。セーラが胸を張って言った。
「サリーは私の狩猟の従者にしますわ。怪しい動きがあれば狩りますわ」
サリー以外が安堵したところで、お兄ちゃんは私に視線を投げて言った。
「僕とアリスは山育ちだから山菜集めるよ。あとレティーナとカイラは」
「山と肉があるなら、こちらは魚でしょう。海なら任せて」
レティーナは輝く尾鰭を天に掲げた。お兄ちゃんはちょっと迷った表情になり、私に声をかけた。
「海を見る機会ってそんなにないし、レティーナと一緒にしたら」
「じゃあ私、カンヴァスくんと二人一緒! そのままずっとうちの屋敷まで連れて行っちゃったり!」
無駄に胸の大きさを強調してみせるカイラに、私は低い声で言った。
「変な虫は海で頭を冷やしてきて」
今回は結構、まともだと思っていたけどやっぱりカイラはカイラだった。
まずはサリーがセーラに引きずられるように連れていかれ、次いでレティーナとカイラが海に向かう。セーラは島に入るときに置いてきた武器をまず回収するとかでちょっと浮き足だっていた。カイラたちはどうやって海の幸を獲るのかわかんないけど、そういうとこはレティーナ、案外しっかりしていそう。
そして私とお兄ちゃんが二人で残った。まだ半日しか経っていないはずなのに、お兄ちゃんと二人っきりになったのは何だかとっても久しぶりな気がした。錯覚に決まってる。でも、あの四人の喧騒とお兄ちゃんが何だか今まで、つながらなくて。
そして何より、この島に仕掛けられた秘密が、私の半分を五百年前に引きずり込んでいた。変わった、とダークマターは言ったけれど、本質までが変わったなんて思えない。そして転生したぶん、私は過去の罪も穢れも引きずっていて。
「アリスの冠って、何だかちょっと高貴だね」
急なお兄ちゃんの言葉に、私は意味がわからず首を傾げた。
「大魔王リルの物語、僕が色々と読んでいたの知ってるだろ。黒真珠の冠をした挿絵を観たことがあるんだ。それと似ていて、何だか高貴というか。でもやっぱアリスだよね、って」
「やっぱアリス、って何?」
「あの挿絵みたいに、全身黒革の魔法服っていうのは似合わないな、今の服が良いよね、って」
私は自分の着ている服を見回す。動きやすいようにキャミソールを着た上で、魔力を込めた桜色のジャケットを羽織り、ジャケットに合わせたレギンスに編上げ靴を履いている。あちこち魔力を、それも安定魔法だけじゃなくリル独自の魔力を込めた服だってことを除けば、その辺の女児がハイキングに出かけるような服装だ。
「子供っぽい?」
「一緒に安心して並んで歩ける服装だ」
うん、と私は軽く答える。黒革の戦闘魔法服に身を包み、恐怖とともに語られる魔法杖をふるい、ときに杖も身も流血に染まる。そんな時間は、遠く遠く過ぎ去った。
それでもお兄ちゃんにも言えないけど、私は思う。
その過去も、私は捨てられない。
新しい人生を始めるための冒険を思っていたけれど、私は私として、ずっと過去とつながっている。私が私である限り、アリスが全くリルの思考も能力も全てを喪わない限り、私は私から逃れられない。
でも今、それが少し恐怖じゃなくなっていた。
転生前の死を以ってすら、浄められたとは到底言えない私の罪をこのまま抱きしめながら。それでも私として、アリスとしてこの世界を生きていく。
やっとその気持ちが定まっていた。
私とお兄ちゃんの山菜採りが始まった。お兄ちゃんはコシアブラの芽やアケビの実を集め、私がキノコやワラビ、ゼンマイを採る。単純に身長での役割分担。見分けにくい野草とキノコは無視する約束。花霧島と言いつつ、山菜も豊かですぐにカゴへ溜まり始める。
「アリス、あーん」
言われて口を開けると、お兄ちゃんが幾つかの木の実を口の中に放り込んだ。ねっとりとした癖のある甘みが広がる。イチイの実だ。ほとんどが種だから、ぺっぺっと余った種も口から吐き出す。
「メニューどうするかな。コシアブラは揚げて、肉魚が来るならアケビに詰めて焼くと美味しいかな。キノコとワラビとゼンマイは茹でてサラダにでもしようか」
お兄ちゃんは既に自分が料理する気満々だ。まあ、サリーに預けたら実験台だしレティーナは酒のつまみしか作らないし、そうなるとお嬢様のカイラとセーラと私しか残らない。
「つまり私の出番だね!」
「みんなに食べさせるのはまだ早いな」
お兄ちゃんが間髪入れず答える。これだけはお兄ちゃん、いつもやたら厳しい。仕方がないんだけど。お兄ちゃんも笑って仕方ない、と言って私の頭をぽんぽん、と撫でた。
花の冠から、甘い香りの混じった青臭い匂いがかすかに漂った。




