アリス、オババと対決する
緊急家族会議の結果、私はお兄ちゃんと「オババの診療所」に行くことになった。
オババは村の長老で魔法使いで医者でもある。魔力も問題だが、私の行動がおかしいことも心配だから、ということらしい。
お父さんは仕事が休めず、おまけに私がお兄ちゃんから離れないので、お兄ちゃんが学校を休んで連れて行く、という話になった。
リル —— 私を悪く言ったお母さんと二人きりにはなりたくない。冷静になれば、きっとお母さんは今の大人の常識を語っただけだと思う。でも、この十歳の心はあまりにも脆い。
私は薄手のコートを羽織ると、お兄ちゃんと手をつないでオババの診療所へと向かった。
玄関を出ると、風は初春に温み道端には黄色や薄紫の草花が咲いている。お兄ちゃんは薄紫の花を摘むと手早く花の指輪を作って私の人差し指に付けた。アリスとしては何度もあった光景だけど、リルとしては生まれて初めての経験で、胸がほんわかしてしまう。
でもお兄ちゃんは少し厳しい顔で私を見つめて言った。
「今朝のアリス、お母さんに悪い目してたよ。ああいう顔しちゃ駄目だよ」
私は悪くない。そう言いたいけれど言葉を飲み込んで、うん、とだけ答える。お兄ちゃんはまた優しい顔で私の頭を軽くぽんぽん、と叩いた。
この幸せはたぶん、リルのままなら何百年経ってもわからなかった気がした。
オババの診療所は丘の上にある煉瓦造りの建物だ。周りにはここも沢山のお花が咲いていて、でも勝手に摘んだり荒らしたりするとこっぴどく叱られる。大魔王リルとして覚醒した今ならわかる。色とりどりの花々は芍薬、牡丹、桔梗、紫苑にドクダミ。囲いの奥にはトリカブトの葉も見えた。花壇のように作られているが、どれも薬草ばかりで、この花壇は薬草園なのだ。
「オババの花は採っちゃ駄目だからね」
お兄ちゃんはさっきの指輪をつついて片目をつぶってみせる。私を喜ばせるためだけじゃなく、私が勝手に花を摘んだりしないよう、防御線を張っていたらしい。言われなくても大丈夫だよ。お兄ちゃんより私の方がずっとこの薬草には詳しいんだから。
お兄ちゃんは診療所の玄関に立った。家と違って、重厚な扉に黒鉄の鋲が打ってあり、真鍮の輪がぶら下がっている。お兄ちゃんは真鍮の輪を握るとドアをその輪で叩いた。
「オババ、アリスがちょっと具合悪そうだから診てください」
ゆっくりと扉が開き、白いブラウスに黒いマントを羽織った、いかにも子供騙しの絵本に出てきそうな魔女の服を着た老婆が中から出てきた。ただ、体型は太めだし、顔立ちはむしろその辺の噂好きのお婆ちゃんという方がしっくりくる。つん、と鼻の奥まで通るような、薄荷に似た香りが中から漂ってきた。
奥へお入り、と言われて私たちは奥へと入った。診療所の天井には各種の薬草と薬用の動物が干してあり、机には紙の束が積まれている。机の脇にはすり鉢があり、それですり潰された草から先ほどの強い香りが湧き上がっていた。
オババに待つように言われて部屋を見渡すと、新聞が放り出してあった。中を開くと魔法軍の観閲式の記事が掲載されていた。
「アリスってそんな記事、もう読めるの?」
難しいの、と私はごまかしながら目を走らせる。記事は魔法軍最強の魔法展開を高らかに讃える記事だ。だがその魔法は。
吹き出すのを我慢するのも苦しい。この最強の魔法は、私の時代の庶民ですら最強とは言わないはず。戦争が減って退化したのか。これなら私独りで軍を壊滅させることも可能かもしれない。怖いものはない。
「変なアリス。そんな怖い記事みてにやにやして」
慌てて私はお兄ちゃんにぴとっとくっついて新聞を放り出した。するとちょうどオババが戻ってきた。
「アリスも大きくなって。十歳の誕生日かい」
オババに言われるがまま、私は木の丸椅子に腰掛けた。オババはどうれ、と言っていきなり口を開けるように言った。
「うん、喉が赤いね。あと虫歯も診ておくかい」
「オババ、今日は風邪でも虫歯でもないよ」
お兄ちゃんが溜息をついてすかさず言った。私も何を言われるがままになっているんだろう。本気で幼児化してきたかもしれない。
「アリスの魔力が急激に上がったらしくて『魔法の赤目』になってる。それは良いんだけど、何だか急に泣いたりして心配なんだよ」
「ほう、じゃあ魔力を測ってみるかい」
言ってオババはいきなりガラスと金属が融合した、法螺貝のような器具を取り出した。これはたぶん、私が開発した魔力測定器を小さくしたもの。五百年も経つとこんな田舎にまで普及しているのか。私は慌てて紅い瞳が維持されるぎりぎりまで魔力を絞り込む。これで実際の千分の一まで落ちるはずだ。
オババは私の耳穴に法螺貝の先を差し込んで覗き込む。ガラスをこするような異音が聞こえ、私は身を縮めた。ふとお兄ちゃんをみると、お兄ちゃんには聞こえないはずなのに、私の手を握ったまま一緒になって身を縮めている。
思わず吹き出すと、お兄ちゃんはぷっとふくれて私のほっぺをつついた。
「終わったよ。凄いねアリスちゃん。これならほんの数年で私の魔力を越してしまうよ」
へえ、とお兄ちゃんは自分のことのように自慢げな表情を浮かべた。だがすぐにオババは真面目な顔で声を低めて言った。
「だがアリスちゃん、あんた最近、変な魔法使いに会ったかい?」
私は慌てて首を振る。何を言い出すんだオババは。次いで今度は鏡のようなものを取り出し、私の体を映した。すると、鏡に映った私の全身に刺青のようにびっしりと呪文が浮かんでいる。私は慌てて逃げ出そうとした。
「アリスちゃん怖くないから大丈夫だよ」
どうする。呪文を見られた。ここで口封じするか。
「アリスは、どうしちゃったんですか! 誰かに襲われたんですか!」
すぐにお兄ちゃんが叫び、逆に私は冷静になって椅子に座った。今の時代の魔法は私にはわからない。少なくともあんな妙な鏡は見たことがない。情報もなしに動く方が危険だ。口封じはいつでもできる。
「アリスちゃんが生まれるとき、誰かが何かを封印したんだね。でもおかげでアリスちゃんは十歳になれたんだよ」
お兄ちゃんはもちろん、私も意味がわからずオババの口元を見つめる。オババはあやすような口ぶりで続けた。
「アリスちゃんは生まれつき、異常に魔力が高かったんだね。それがお母さんのお腹にいるうちに封印された。だから今まで暴走もせずに育った。でも今、急にその封印のほとんどが解けてしまった」
ほぼ正しい。私の呪文体系をこんな田舎の魔法使いが読み取ったのか。どこまで読まれた。さっきの新聞で油断していた。日用の魔法はむしろ進歩しているのかもしれない。
「私には難しくてよくわからないね。赤ちゃんのときから知っているアリスちゃんだから比べてわかるだけで、こんな古代の呪文の残骸、さっぱり読めやしない」
ざまーみろ。当時の魔法言語が読めても理解なんてできるものか。私は少し安堵した。だが再びオババがくつくつ笑いながらとんでもないことを告げた。
「でもまだ、変な封印が残っているよ。これは読めるように書いてある。『この者が十八歳になるまで、保護呪文の全解除を拒否する』と。そしてもう一つ『この者は十歳のまま、若さを保ち続ける』と」
私は身を固くする。お兄ちゃんは首を傾げた。オババは爆笑して言った。
「アリスを十歳のまま不老長寿にしておいて、アリスが十八歳になったら呪文が解除できるってさ! 金庫の中に金庫の鍵を保管した間抜けな魔法使いだよ」
また泣きそうになった。
診療後、一番深刻な顔をしているのはお兄ちゃんだ。オババはとりあえず、命に別状はないし不老長寿なら時間はあると慰めてくれた。でもお兄ちゃんは。
「ねえアリス、もし、もしもだよ? このまま十年後に十歳でも、お兄ちゃんはアリスのお兄ちゃんだからね」
てへ。私はお兄ちゃんにぴとっとくっついた。五百年経っているから、今更子孫に復讐するのもつまらないし、魔法の研究を始めるにも現代魔法を一からやり直すのは少し煩わしい気もするしお兄ちゃんと一緒にいられるならいいかな。
じゃなく!
どんどん思考能力が落ちている気がする。だが目標も方法論も今は思いつかない。私は少し深く考え込む。そんな私を見てオババが言った。
「確かに十年後にお兄ちゃんだと言っても、その頃にはカンヴァスも嫁をもらっているかもしれんしね。一緒に住めるかどうか」
私は振り向いてお兄ちゃんを見つめる。お兄ちゃんがぽそっと、お嫁さんか、と呟いた。途端、全くわからない感情が湧き上がってきてお兄ちゃんにしがみついた。
「大丈夫だったら。捨てたりしないよアリス」
「そうじゃないよねアリスちゃん。まだ十歳というより、十歳でもというか」
オババが嫌な視線を向けてくる。何だ井戸端会議のおばちゃんみたいな顔でこっちを見ないで欲しい。
「お兄ちゃんのお嫁さんはどんな人だろうね」
オババの言葉に胸がむかむかしてきた。何だかわかんない。リルでもアリスでもわからない。いや。アリスの部分はうっすらとわかっている。
「可愛いね、もう嫉妬しているよ」
お兄ちゃんが赤くなる。私はお兄ちゃんの腕をぎゅっと抱きしめてオババに言った。
「私、元気だから帰る」
するとオババは真面目な顔になって言った。
「アリス。本当にお兄ちゃんとずっと一緒になんて、思っていないだろうね」
そんなわけない、と即座に返すとオババは優しい目で諭すように言った。
「なら、立派な魔法使いにおなり。十歳でも王都の魔法学校なら飛び級で入学できるよ。魔法学校で進級すれば自分でも研究できるよ」
魔法学校。研究施設があって自分で研究できるなら。でも、そこで私の正体が露見したら。研究施設でまで、本当にお父さんたちが言うような昔話になっているのか。でも今のままでは。逡巡する。
「アリスを一人では行かせられないよ。まだ十歳だよ」
「アリスはずっと十歳のままさ」
オババの冷徹な言葉に、お兄ちゃんが私の手を痛いほど握る。これを理由に断った方が良いだろうか。するとオババは全く違うことを言い出した。
「カンヴァス、あんたもう少し、勉強したら成績が伸びるんじゃないかね」
「僕のことじゃなく今はアリス」
「もっと成績が上がれば、カンヴァスは中央の学校に進学できるんじゃないかね」
お兄ちゃんが私をじっと見つめる。私の頭を優しく撫でてくる。リルとして逡巡していた思考が溶けていき、甘えん坊のアリスに戻っちゃう。お兄ちゃんは立ち上がって言った。
「アリス、一緒に中央に進学しよう。一年だけ、待って」
私はもう一度、お兄ちゃんの腕をぎゅっと抱きしめた。