ツユクサの記憶
死んで花実が咲くものか、という言葉がある。当たり前の話なんだけど、私みたいに死んで転生したものは何なのだろう。なるべく考えないようにしていたことが、先ほどのセーラの祈りを見ていて蘇ってしまった。
村にいたとき、アデリーヌから借りたお伽話の本。生まれ変わって恋が実るお姫様や、転生術を使った賢者が子供のうちから活躍する話があった。昔との格差にちょっと悩みはするけれど、結局は色々とある知識のおかげで大した苦労もなく生き延びてというか成功していく、どれも宝石みたいにきらきらした物語。私もそういう方に行ってもいいか、なんてことを思っていた。
浅はかだった。
彼らは過去に暗いものなんて持ってなかった。
ちょっとだけ不都合のあるだけで、基本的には普通の人が転生して、さらに他人より上をいくだけのお話。
でも私は。
私はこの国、否、この世界には大きな負い目があって、そして恨みと恐怖は澱のように私の中に残ったままで。
それを抱えたまま、陽の光が当たる英雄やお姫様のように振る舞える、そんなはず無いのに。
いつも私の大きな判断は、正確で、冷静で、合理的で。
そして怯えたまま。
怯えて噛みついて噛み殺しにくる、そんなはた迷惑な動物は駆除されて当たり前かもしれない。だからと言って、私リルを殺した三人衆を許す気なんて毛頭ないんだけど。だけど、この五百年後に、その恨みをどこで晴らせるのか。晴らさなきゃならないほどの怒りがあるんだろうか。
私は今も過去に囚われたままで、そして。
お兄ちゃんの手を離せないほど。
怯えた猛獣のまま。
私は怖い。
いつか。
いつか怯えた勢いでアデリーヌやカイラやお兄ちゃんを手にかける日が来るんじゃないかと。
だからこそ私は。
私はお兄ちゃんの手を離せない。
「アリス、顔色が悪いな。疲れたかな」
お兄ちゃんが私の顔を覗き込んだ。私は知らんぷりしてだいじょぶ、と言いつつ俯いた。私の中のどろどろした部分は、私がお兄ちゃんに絶対見せたくないもの。過去の大魔王リルの行状はもう、歴史に残ってしまって隠しようがないし、今さら隠しても仕方が無いと割り切っちゃった。
でも今でもそんな危ない汚いものを内側に隠しているなんてこと、絶対に知られたくないから。だからこそ、この場所を選んでしまったのかもしれない。穢れなく花咲くこの島を。
穢れなく咲いているはずだったこの島を。
「何か、悪いものが在る感じがしますわ」
セーラの言葉にレティーナが案外と真面目な表情でうなずく。
戦いに身を置いたことのある者ならわかる、肌のひりひりする感覚。背筋を伸ばさずにいられない緊張。でもその対象が未だ掴めない。そして、この戦場の感覚を持っているのはおそらく私とセーラ、そして何故かレティーナだけだ。その上、私はこの島に来てから色々考え込んでしまうせいか、どこか自分ですらおかしいと思う。
「そういうけど、綺麗だと思うけどな」
カイラは笑顔で一面に広がる青い花の海を両手で指した。ぷちり、と一筋の草を千切り、私の傍に寄ってくる。青く可憐で、儚い花びらが目の前で揺れる。サリーも一輪摘んで図鑑と見比べながら説明を加えた。
「ツユクサですね、普通より花弁が大きいので、咲いている全面が青く見えるのでしょうか」
確かに、私の知っている花よりもずっと大きい。カイラはそっと花びらを摘んで擦り合わせた。花びらが溶けるように崩れ、汁で指先が真っ青に染まる。
「インクみたいだよね、ほんときれい」
カイラはその指先を白いハンカチにつけ、悪戯なのか二重丸を描いた。
と、ハンカチが空中に浮き上がり、青い光を放った。円の下に何か動物の姿が浮かび、そしてすぐにハンカチはそのまま花畑の下に落ちた。
「カイラ、幻術使えるようになったのかい」
サリーの驚いた声に、カイラはさらに驚いた顔で首をぶるぶると振る。私はハンカチを拾って魔力を嗅ぎ取ろうとしてみる。だがそこにカイラの魔力はなく、かと言って誰か人間の魔力も無い。ただ何となく、土地全体に染み込んでいる天然の魔力のようなものが妙に濃く残っているだけだ。
「危険、なのかな」
お兄ちゃんはぽつりと言う。私はお兄ちゃんを見上げる。
「危険かどうか、わからない」
わからない危険に、お兄ちゃんは巻き込めない。口にしかけ、でも何となくそれは言っちゃいけない気がした。私にとってお兄ちゃんは大切だけど、この言葉はお兄ちゃんをむしろ傷つける気がした。
改めて私はお兄ちゃんを見上げる。お兄ちゃんはふいっとセーラに視線を向けた。
「冒険は慎重さが大切だと聞いているのですが」
「慎重さの無い冒険者など、愚者としか言いようがありませんわ。でも」
セーラは言葉を切って、サリー、レティーナ、カイラ、お兄ちゃんの順に視線を向け、そして私に向かって強い調子で言った。
「一緒に冒険しようと仲間に頼めない冒険者は、信用できない臆病者ですわ」
私は口を引き結び、全員の顔を見回してから、ゆっくりと言った。
「一緒に、冒険しましょう」
みんなが私の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
ツユクサを私とお兄ちゃん、カイラで大量に摘み、その花びらを潰してコップに溜めていく。サリーはその汁を色々な魔道具で随時測定、状況監視する。セーラとレティーナは周囲の警戒。試しに小さい円を描くと、先ほどの映像が小さく現れる。水で薄めると一瞬で消えるか、さらにぼやけた像しか結ばない。
サリーは幻影関係の魔法陣をこれで描こうと提案したけれど、私は猛反対した。何が起きているかわからないうちに、さらに余計な要素は加えたく無い。
余計な欲張りして最高の魔力時期を狙って十歳で止まっちゃった例があるわけだし。
なんか自分で言っててみじめになってきた。
とにかく気分を切り替え、先ほどの円を描くことにする。
「でね、アリス。ちょっと深呼吸した方が良いと思うんだ」
お兄ちゃんが変なこと言って、筆を握った私の右肩を押さえた。首を傾げると、お兄ちゃんは予備試験に準備した布を指差す。
「うん、お兄ちゃんが上手に描けてる。隣に私が可愛い。何が問題だっけ、お兄ちゃん」
「今、何をやろうとしていたんだっけ、アリス」
「綺麗なお花でお絵描き……じゃなーく!」
やっと私はリルの方の心に戻った。何だか疲れてぼんやりとして。いつの間にやらお絵描きに。お兄ちゃんは私を立たせ、目の前で腕を振り上げて深呼吸する。私も合わせて深呼吸する。ぼんやりした頭がすっきりとしてきて、同時にリルの鬱々とした部分も軽くなって。
私はお兄ちゃんの胸に頭をこつん、とぶつけた。あはっ、と笑う。こんな失敗、リルはするはずが無いのに。私はいったい、どうして。
「だってまだ、アリスは十歳だからね」
私はお兄ちゃんを見上げる。一年前より少し、お兄ちゃんの顔が遠くなったことに気づいた。お兄ちゃん、まだ背が伸びているんだ。でも私は伸びることは無い。そして、私は体どころか、もしかしたら心も。
「アリスは成長したと思うけどな、こうやって沢山の仲間と冒険しているんだから」
カイラと目が合った。何も考えてない顔で、でも優しい笑顔で私にひらひらと手を振って筆を持ってくる。村にいたときは暴走したけれど、今はそんなことも無くて。
成長、しているんだ。
改めて筆をとる。心を集中させ、自分の魔力を細く絞り込んで筆に混じらないよう遮断する。純粋なツユクサだけの魔力を見通し、広げた敷物に一息で丸を描きあげた。
ふわり、と敷物が浮力を起こす。私は転げるように飛び降り、そして宙に浮いた敷物を見つめる。青い光が丸く落ち、そして光の中心に像が結ばれた。
醜悪に腐乱し、肉の一部が焼け焦げ内臓を零している死人の兵の集団が現れた。私は魔力を込め、兵を焼き払おうとする。
だが途端、目の前にアデリーヌの姿が現れた。
『アリス、久しぶりだね』
そんなはずはない。アデリーヌがここにいるはずがない。構わず私は焼き滅ぼそうとして。
炎が天上に暴走した。
「アデリーヌを、私は、焼けない!」
莫迦だ。戦いなのにありえない幻想なのに私は手元を狂わせた戸惑いが生まれて心が悲鳴をあげてアリス黙れ! やめてリル止めて!
「私は!」
叫ぶ。絶叫しながら、凍結魔法を組み上げ。アデリーヌごと。
「大切な人を滅せない!」
嗚呼。リルが崩壊する。リルがアリスに抑えつけられ屈服し。
屈服した自分に。
満足した。気が遠くなる。もう、意識を掴んでいられない。
「アリス! アリス大丈夫か!」
ふと意識が呼び戻された。青い光はそのままで、お兄ちゃんが私の体を後ろから抱きしめていた。
光の中に一人の僧侶の姿が浮かび上がる。サリーが叫んだ。
「ほう、あの像は三人衆の一柱、闇の僧侶ダークマターだったのですか」
私は光の中を見つめる。間違いない。ダークマターだ。私リルの配下にして、リルを殺した元凶。
今度こそ魔力を破滅的に組み上げて。
「陛下が、心をお持ちになった」
いきなりダークマターが語りだしたので、私は魔法を止めた。
「リル陛下の魔力が満ち満ちているのに、この記憶魔法が潰されぬ。陛下が、敵を倒すよりも大切にすることを覚えられた」
私は周囲を見回し、ばつが悪くなって足元の土を蹴った。もうとっくに死んでいるくせに、私のことを評価するなんて、ダークマターはやっぱり嫌な奴だ。
ダークマターは、私が見たことのない柔和な笑みでこちらを見つめて言った。
「陛下がこの島に来られるようになったとき、花の美しさを理解できるようになったとき、さらに人の心を持てるようになったことをご確認できますよう、小さな悪戯をさせていただきました。まだ、これのみではわかりませんが」
「うるさいやい!」
通じるわけもないのに、私はダークマターに向かって叫んだ。ダークマターはまた柔和な笑顔を見せ、そして青い光となって溶けていった。
「アリスちゃん、ハンカチ」
カイラが私のそばに来てハンカチを頬に押し付ける。何だろう。ハンカチが濡れる。ああ、私は泣いていたんだ。何で泣いているのだろう。もう一度、ダークマターが映っていた場所を見つめる。
もう見られないのか、ダークマターを。彼と話せないんだ。私は時代を超えてしまったんだから。
私は、彼をただ憎んだままここに立っていたはずなのに。もう一度、彼の声が聞きたい。私のお兄ちゃんだよ、って、子供っぽい恥ずかしい言葉をぶつけてやりたい。
ほんの少しだけ、幸せを知ったって報告したい。
でももう、彼は。
遠い遠い五百年の月日の向こうで過ぎ去って。
「私だけ、独り転生しちゃった」
「でも僕と会えたでしょ」
お兄ちゃんの優しい言葉に。私はそのまま洟が出るのも構わず泣き叫びながら、お兄ちゃんの胸に縋りついた。