セーラ、墓所を弔う
貴女の目の前に可憐な黄色い花と、天鵞絨のような風合いの葉を持った草が生えていたとしよう。そして、警戒心は他の危険にばかり向き、花は楽しむものだと決めつけていたとする。どうするだろうか。
匂い、嗅ぎますよね。乙女なら匂いを嗅いでみるのが普通ですよ、ええ。
「アリス、カイラ、大丈夫か」
お兄ちゃんが私を抱き寄せ、ほら鼻をかめと言って紙を渡す。カイラはその場にゴロゴロと転がり回り、サリーは症例症例、と呟きながらカイラを一生懸命観察している。
「遠くから何だか違和感のある臭いがしていたんですけど、皆さん気づかなかったんですの?」
「「気付いていたなら早く言って!」」
セーラの呑気な言葉に、私とカイラが泣きながら叫んだ。サリーがキシキシと笑いながら図鑑を示す。
「この植物、図鑑にはありませんがたぶんこいつの仲間でしょうかね、『ヘクソカヅラ』。糞便の臭気を放つ植物として有名なようです」
ふざけた花もあったもんだ。やっと頭が落ち着いてきた私は、自分の体に付着した臭い成分を魔法検出、分析、水の魔法で蒸気を発生させて流し落とす。ついでにカイラも。
「いきなり鼻を突っ込むのは感心しないねえ。普通、初めてのお酒はちょいと舐めてからにするだろ」
「何でも酒に例えるな酔っ払い」
セーラが冷たく言い放ち、だが真面目な顔で続けた。
「でもレティーナの言葉は事実です。少し皆さん、慎重に歩きましょう」
私とカイラはうなずいたが、お兄ちゃんとサリーは二人で首を傾げた。
「パンフレットによると、こちらの陸域はあまり観光客は来ないものの、有害なもの、極端に不快な植物は生えないと載っているのですが」
「僕もそれは読んだからアリスの選択に賛成したんだ。ちょっと予想からずれてきているな」
「陸上なんて種が風に乗ってどんどんと変わるでしょー」
レティーナの言葉に、サリーは生真面目な顔で答える。
「本土側であれば仰るような可能性も否定できないのですが、ここは離島です。種が入ってくるには限られたルートしかありません。おまけに観光客があまり来ないなら、来島者の体に付いていた種という可能性も小さくなります」
何となく不穏な空気が私たちを包んだ。だがセーラが笑顔で言った。
「つまり、予定通り冒険ということではありませんか」
サリーも怪しい笑みを浮かべて拳を握る。
「つまり観光案内ではなく、新発見が私を待っているかもしれないと」
「まあ、気分が変わるのもいいかな」
能天気にカイラが笑う。レレィーナがグラスを掲げて言った。
「では気をとり直して、我ら冒険者たちの前途を祝して、乾杯!」
先ほどまでの能天気な空気から、少し緊張の入った雰囲気の中で歩みを進める。こういう雰囲気も嫌いじゃない。生真面目な顔をしたお兄ちゃんも嫌いじゃない。セーラさんの騎士然とした姿勢は美しいと思う。
「また怪しげな臭いがしてきましたわ」
一応、とサリーが全員にマスクを配り、カイラとサリーの二人で医療系の防護呪文をマスクにかける。私は医療系魔法が使えないのでただ見ているだけだ。今回、戦闘系呪文が中心のリルはあまり出番がない。出番があればあったでとんでもないのだけれど。
つやつやとした輝き、青みがかった緑の葉をつけた大木が見えた。大木には美しい六弁の赤い花が咲いている。そこから漂う臭いは。
「なんかちょっと、気持ち悪い」
サリーとカイラはもちろん、サリーまでもが顔をしかめて頭をふる。お兄ちゃんもマスクの上から手を当てて臭いを避けようとしている。そして私は。
アリスは嫌がっているのに、リルは郷愁に身を委ねていた。ああ、懐かしい臭い。私の生きた場所の臭い。混迷してひたすら潰し合いになった、夏の戦場に漂う腐りかけた血の臭い。
アリス、と呼ぶ声とともに左手が強く握られた。はっとして見上げると、お兄ちゃんの心配そうな表情がそこにあった。
「アリスはこの臭い、わかるのか」
私が答える前に、レティーナが私たちを見回して言った。
「私、何となくわかった。人魚は体の構造が違うしね」
言って私に目配りする。そうか、レティーナだけは体の違いで本能的な拒絶感はないのか。そう思ってまた私は愕然とする。リルは、本能が壊れている。それともやはり、人間じゃない。
アリス、とまたお兄ちゃんが声を掛けて私の肩を抱いた。次へ行こう、と道を急ごうとする。でも私はお兄ちゃんの手を押さえ、みんなにわかるよう大きな声で言った。
「この臭いは、血の臭い。膠着した戦場で流された大量の血が、腐敗し始めたときの臭い。リルの馴染んだ臭い」
お兄ちゃんがまた、私の肩をぽんぽん、と優しく叩く。サリーが顔を上げて植物図鑑を調べる。そして言う。
「類似した植物が、見当たらない」
サリーは意を決したように木に近寄り、魔法陣で危険探査をした後で小刀を突き立てた。木の皮を剥がし、中の組織も削り取る。次いで地面に白布を敷いて私に向き直った。
「私、死霊術苦手なんだけど。アリス頼んだ」
「頼んだって言われても」
私は顔をしかめて木から距離をとる。だがサリーはあくまで冷静な声で続けた。
「死霊術で何かを呼び出せるか試して下さい。そういう可能性が、さっきの魔力探査で引っかかりました」
私は渋々、サリーが敷いた白布に近づくと手持ちの墨で魔方陣を描く。絶望と怨嗟の言葉を書き連ね、彷徨う霊を捕縛し使役する呪詛を白布に込めていく。白布の色が呪詛に染まって反転し、黒地に白の魔法陣が浮かび上がった。
靴を脱ぎ捨て、その場にとん、と片足立ちをする。なるべく口を小さくし、低い声で魔法陣へ呪詛の言葉をぶつけていく。レティーナとセーラの表情が凍りつく。たぶんきっと、現代では使わなくなった攻撃性の死霊術。そして私は一際高く跳び、呪詛が完成した。
サリーの削った木の表面に、血液の水滴がぷつぷつと浮き上がり、次いでそれは流れて魔法陣の白を赤く染めていく。遂に魔法陣が真っ赤に染まったとき、首のない兵士が数十人、立ち並んだ。全員が自分の首を脇に抱え、その首は虚ろな目をしており、痩せ細った肉体にはあちこちに浮腫が見える。鎧には、私の名前が。リルの名前が刻まれていた。
「大魔王リル統治下の鎧、ですわね」
脇から小声でサリーが囁く。私は頷き、彼らをもう一度見る。何を求めた亡霊なのか。それがなぜ、この木に集っているのか。
『それすらも理解できず、戦争しか知らない魔王か』
兵士が私を嘲笑した。戦いしか知らないわけじゃない。実際こうして今。私は仲間と歩いていて。
『お前に本物の仲間ができるものかね』
再び亡霊の一人が声を上げる。どっと亡霊の昏い笑いが上がる。本体の木からはもっと大人数の嘲笑が湧き上がった。私は手に、暴風の呪文を描き始める。
「お子様は下がって」
いきなり私の前にセーラが立ちはだかる。そして彼女は、その場にひれ伏した。
「この戦闘狂二名、リル・アリスと私セーラが申し上げます。現代はもう、平穏なる時代です。私は騎士でまだ戦いはありえますし、悪人成敗はしましょうが、戦争の時代ではありません」
亡霊が私とセーラを取り囲む。セーラが私を抱き寄せた。自然、描きかけた風の呪文を霧消させてしまう。セーラは私の髪を手で梳きながら真面目な声音で続けた。
「たぶんこの場で、いえ本土でも私たち二人は戦闘狂に近い人種です。生きていた時代の皆様よりもずっと。それでも今は平和の治世です。お収め下さい」
セーラは剣を置いてきて手許に無いというのに、剣を捧げる仕草を完全にこなす。死霊に戸惑いの声が広がっていく。
「この場に留まり。この場で怨嗟することにはもはや、意味はありません。誇り高き戦士、騎士としてお収め下さい」
セーラの言葉とともに、ふわりと爽やかな風が一瞬だけ舞った。兵士たちはまだ私に嫌味な視線を向けつつ、セーラには優しい笑みを浮かべる。姿が薄くなっていく。
そして、死霊術の崩壊を待たずして霊たちは去っていった。
「貴女は、何を」
私の呼びかけにセーラは優しい笑顔で答えた。
「彼らの望む慰撫を。そして彼らが遠くまで継ぎ、守ろうとした未来の平穏を語っただけですわよ」
私の中も決壊する。
セーラの胸の中で、私は泣いた。