ライラック広場
「聞きそびれていたんだけど」
上陸して歩きながら、お兄ちゃんは囁くように言った。
「なんで花霧島を最初の冒険に選んだの? 単に、花が好きだから?」
言いつつ、お兄ちゃんは私の目を覗き込む。村にいた頃、私は山で花を摘むのも好きだけど、何よりお菓子の材料をアデリーヌと集める方が好きだった。食べる方が優先。料理の味は自分で整えられなくても、美味しさはわかる。
まあ何よりアリスは食い意地が張っていて、リルは飢えへの恐怖が勝っていただけなんだけど。
「何か、あるんでしょ」
お兄ちゃんの探るような言葉に、私はこっくりとうなずいて答えた。
「私の、上陸できない場所だったから」
「上陸、できない島?」
「絶対戦闘禁止区域」
呟くように言って顔を背けた。お兄ちゃんは空を睨んで頭を掻き、そして自信なさげに私の言葉を引き取る。
「リル治世下で、確か内乱になった際に外交や交渉を行うための場所、だっけ」
「それ、戦闘禁止区域。絶対戦闘禁止区域は異種族も含めた交渉地。だから戦闘ばかりしていた私は、信用できないって人魚族とエルフ族に突きつけられた。だから私は、立入禁止」
私は虚ろに笑った。
「大魔王とか呼ばれちゃって、そのおかげで自分の身は守れるようになった。でもその代わり、戦闘の血の匂いのしない所には行けなくなった」
お伽話には酒池肉林の魔王とか、黄金財宝を守る龍とか沢山出てくる。でも現実は違う。
いや、私が滅ぼした貴族たちはそういう手合いだったかもしれない。
でも絶対的な大魔王は。
食事の味をも理解できずに栄養を摂取し、ひたすら戦って課税して歳出してその数字を読むだけで。
アリスはお兄ちゃんよりも、アリスの時代の娯楽を知らない。
酒も飲んでいたけれど、酔った隙に殺されるのが怖くて、アルコールを血中に入る前に分解する魔法をかけていたから、酔ったことがない。
アリスはたぶん。
セーラよりも戦闘狂で。
レティーナよりも無駄遣いで。
サリーよりも目的のため見境い無しで。
カイラよりもはるかに、先の見えない生き方をしていた。
「転生したんだから、やり直せば良いんだよ。でも、無理に忘れなくたっていいんじゃないかな」
お兄ちゃんの言葉に、私は目だけでうなずいた。
一番最初に石碑を見つけたのは、やはりサリーだった。目立たない程度の小さな石碑だけど、私には当然すぐ気付く。私の魂に、ちくりと痛みが走る。
「すごいですよ、これ。大魔王統治下の魔王三人衆、つまり現在の王家、神官家、魔道名家の源流が揃って告知した碑文で、しかも三人衆が揃っているのに大魔王リルが一切関わっていない石碑です」
風雨で掠れた石碑に、私は近寄る。そっと私が慈しむように石碑を撫でると、石碑の碑文が読みやすいように光り始め、そして私の手を焼いた。
アリス、とお兄ちゃんが叫んで私の手を引き戻す。慌てて水をかけ、次いでカイラが凍結魔法で冷却する。
「アリス、さっき自分で言っていたのに何で」
「痛みさえも、思い出の欠片なんだよ」
私の言葉にお兄ちゃんは黙り込む。でもサリーはさすが、私の手が冷やされたのを確認したら途端に私への興味を失って碑文を読み始めた。
「はあ。当地内での戦闘行為を禁ず。とくに戦闘行為の首魁、大魔王リルの上陸を当面の間、禁ず」
お兄ちゃんは私から魔法杖を取り上げ、次いでセーラに声をかけた。
「セーラさん、剣を置いていってくれませんか」
「剣は乙女の魂ですわよ?」
いや違うでしょそれ。騎士の魂ならまだしも。
「よくわかりませんが、とにかく置いてくれませんか。この島は戦闘禁止なんです」
「まるで私が剣をすぐ抜くようではありませんか」
「すみません、毎日訓練以外で剣を抜いている人はうちの寮内でもセーラさんだけです」
う、と彼女はついに折れた。サリーもうなずいて言う。
「さっきのアリスちゃんへの反応を見ても、この島はまだ古代の魔法が生きています。観光地化している地域以外は何があるかわかりませんし、何より」
サリーはお兄ちゃんに冷たい視線を送った。
「誰かさんは予想できたんじゃないですかね。古代の遺物を眠りから叩き起こすお子様が何をしでかすか」
「アリスを責めないでくれ」
「リルを責めているだけですよ」
「サリーさん!」
お兄ちゃんが食いかかったとき、カイラが叫んだ。
「戦闘禁止でしょっ!」
あっ、とお兄ちゃんが手を下げる。サリーはちっと舌打ちをした。
「何か仕掛けが見られるかと思ったのに」
苛立つ言葉を言った途端、サリーの頭から白ワインがぶっかけられた。
「下らないこと考えるより、呑んでいると楽しいよー」
ふわわ、とレティーナがあくびをしながら、ふよふよと空飛ぶ桶を操ってサリーの目の前に浮かぶ。サリーもさすがに毒気を抜かれたように唖然とした顔になる。カイラがそっと優しくサリーの頬をハンカチで拭い、サリーはくてん、と膝をついた。
「ま、たまにはただ、綺麗なお花を眺めるのもいいっすね」
少しぎすぎすした雰囲気が残ったまま歩いていたけれど、レティーナが人魚の美声で歌ったりしているうちに少しずつ落ち着いてきた。私も警戒心が何だか解けてくる。本当は私にだけは何があるかわからないのだけど、緊張が甘い香りでだらけてくる。
甘い香り。
「なんでしょう、良い香りがしますわ。私、フレーバーティーは大好きですが、それでも嗅いだことのない香り」
セーラの言葉に全員周囲を見回す。先方に何か、薄紫の木が見える。
「もう少し行ってみましょう。最初の花ですかね」
サリーが植物図鑑を片手に走り始めた。私たちもサリーの後を追う。走って軽く体が温まった頃、その薄紫のまばらな林が眼前に現れた。潅木というには少し背が低いだろうか、その木々に大量の薄紫の花房が風に揺れており、その薄紫の花から香りが漂っていた。
「ライラックですね。香りが良いはずですよ、香水の原料になるんですから」
サリーが飛び跳ねて花房をもぎ取り、私に放り投げる。甘みのある、けれど果物やお菓子とは違うきりりと締まった清楚な香りが鼻先で弾けた。お兄ちゃんも一緒になって香りを楽しみ、次いでレティーナが胸いっぱいに香りを吸い込んで笑った。
「これ、スピリッツに漬けて香りを楽しみながら飲んだら良さそうね」
「レティーナさんは飲むことしか考えないんですか」
お兄ちゃんのちょっと棘のある言葉に、レティーナはけしし、と笑って答える。
「海の中は潮の香りしかしないけれど、地上は素敵な香り、素敵な味でいっぱいだよ。それを私は楽しむのさ。この世界は、知らない楽しいことでいっぱいだよ」
知らない、楽しいこと。
いっぱいあるんだ。アリスだった時代に膨大な魔法と戦争の知識はあったけれど。あの時代にあったはずの楽しみを、私はほとんど知らない。ドレスも食事も、下手をするとサリーよりもあの時代のことを知らない。
私が転生した目的は復讐のはずだった。五百年を飛び越してしまった今、それも意味を喪って。それなら今は、単に、楽しむことに費やしても良いのかもしれない。
カイラが頭にライラックの花を千切って飾り付け、私の方に歩いてきた。何か口をもごもご動かしている。
「アリスちゃん、あーん」
私は怪訝な顔をして逆にむう、と唇を口の中に噛んで隠す。カイラは笑って大丈夫大丈夫、と言ってまた、あーん、という。私はおそるおそる口を開いた。するとカイラはいきなり私の口に草を放り込んだ。
「噛んじゃえ噛んじゃえ」
眉を潜めてこの変な草を噛む。と、口の中から鼻へと爽やかな香りが突き抜けた。ひんやりと口の中が氷の粒のように冷えた感じがする。ああ、村にいたときの懐かしい香り、お母さんが得意な。
「薄荷が自生していたの。カンヴァス君、これと蜂蜜で、来たときのドリンクをもっと作れるね」
お兄ちゃんは笑って私の頭を撫でて言った。
「一緒に摘んで帰ろう。アリス、一緒に作ろう」
また一つ、楽しいことを見つけた。