冒険してみよう
私がアリスで、大魔王リルでもあると知られて何か変わったことがあるかと言えば、魔法を使うと簡単になりそうなお手伝い、例えばマッシュポテトを作るのに一気にジャガイモを潰すとか、そういうほんとに小さいお手伝いが増えた程度だろうか。
お兄ちゃんって呼ばれて気持ち悪くない、と聞いたら、頭がくしゃくしゃになるまで撫でられた。ほっぺをお兄ちゃんの首筋にくっつけて、泣いた。
私はアリスでリルだ。そしてお兄ちゃんは、リルの部分も受け入れてくれようとしている。でもお兄ちゃんは言った。昔の責任なんて忘れちゃえって。今、ここに生きているんだからって。
リルかどうかなんてどうでもいいって。
カンヴァスの妹だってことの方が今はきっと大事だって。
どれだけ自信家なのかお兄ちゃん。世界の歴史より自分の妹だってことの方が重要だなんて。でも本当に、今の私たちにとって、それが一番大事なんだと思う。
「じゃあ二つ目の大事は何だろうな」
お兄ちゃんは私の甘ったれた想いに攻撃を仕掛けてきた。魔法学校の勉強かな。
「アリスはまた大魔法使いになりたいの?」
お兄ちゃんの問いかけに、私は思いっきり首を横に振る。そんなのどうでもいい。例えば、そう。アデリーヌともう一度、一緒に遊びたい。
「でもいつまでも子供じゃないぞ。まあ、アリスは呪いの問題はあるんだけどさ」
私がいつまでも子供でいても、アデリーヌは大人になってしまう。私を追い越していく。成長して、大人になって、家庭を持って、そして。
老衰して逝ってしまう。
アリス、と優しい声が私の肩を抱き寄せた。深呼吸する。そんなのはまだ、時間がある。お兄ちゃんも傍にいてくれる。大丈夫。私は大丈夫。
「アリスって今、実業魔法コースだっけ? そこ卒業したらどうするの?」
「大人になる研究に使えるかなって選んだだけだから、わかんない」
言ってから思う。本当にそれだけだったかなって。基礎研究は散々やった。戦争絡みも大規模工事関係も魔道王として、大魔王として色々やった。医療系は望むだけ無駄。そしてリルのいた時代にやっていないもの。
リルとして、アリスとして本当に未知で、何か希望がありそうなこと。それが私の選んだコースだ。
「飲んで美味しい魔法薬を作るとか面白いかな」
「アリスはまず、食べて美味しい食べ物を作る方が先かな」
適当な思いつきを言った途端、お兄ちゃんに冷水をぶっかけられた感じ。でもお兄ちゃんは笑ってる。
「他に何かないかな、思いつきで」
言ってお兄ちゃんは私を手招きして窓の外を見るように指さす。アリスとして育った村とは違う風景。リルとして整備した帝都の面影がほとんど残らない王都。そういえば、赤眼ばかりが住んでいて虐待を受けていた、私の解放した村は今、どうなっているのだろう。生娘の赤眼を弄んでいた屑貴族。あいつを磔にして血族を皆殺しにしたあの都市は、今もああいう馬鹿者のいないまま保たれているのだろうか。
「旅に出たい」
お兄ちゃんは笑顔のまま首をひねる。私はお兄ちゃんを正面から見つめて言った。
「あちこち、旅に出たい。リルとして通ったあの街、戦ったあの場所を見たい。リルが知らなくてアリスも当然知らない、でも楽しくて美味しい場所をお兄ちゃんと歩きたい。そして何するのかわかんないけど、とにかく旅してみたいの」
旅か、とお兄ちゃんは確認するように言った。近場からどこか連れて行くか、と呟く。ここぞと遊園地、と叫びたかけて慌てて呑み込む。それは今じゃない。じゃあどこに。
先日の実習で乗った漁船を思い出した。漁師のおっちゃんは怖かったけど、一緒に食べたお魚のお汁は美味しくてお兄ちゃんと一緒に食べたかったけど私に作れるはずがなくて。
遠く、潮の匂いが部屋に漂った気がした。
「海に行きたい。船に乗ってどこか遠くに行ってみたい」
「いきなり大きく出たな」
「だって王都は港町が目の前だよ。ちょっと前、漁船にも乗ったんだよ」
「じゃあ、行ってみるか」
私は二つ返事でうなずいた。
どうしてこうなったんだろう。色々旅を巡る練習みたいな感じで、お兄ちゃんと二人旅だったはずなんだけど。
「海の妖獣はお任せ下さい。私が皆様を守って差し上げますわ」
戦闘狂が海に似合わないピンクのフリル付きドレスを着て剣を研ぎながらニヤニヤしている。
「そうしたら私の研究サンプルも集まって仕事がはかどるね。誰か襲われないかな」
研究狂が腰にサンプル瓶ぶら下げて双眼鏡で沖を睨んでる。
「そういう危ないことは止めましょうよ。世の中楽しく飲むに限るよー」
酔っ払いが船の周りを泳ぎながらワイン瓶をラッパ飲みしてる。
「ほら、常識人の私が一緒で安心したでしょ」
非常識なアホお嬢様が満面の笑みで大きい胸を私に押し付けてくる。
どうしてこうなった。
「アリスって人気者だね。みんな一緒に旅行したいだなんて」
空気を読む能力が低いのかな、お兄ちゃんは。いや、眼を逸らした。
「お兄ちゃん、元凶はどこ行ったの」
「なんか魔法学校の特別講習で講師手伝いをサボっていたらしくって、先生が引きずっていった」
あのビアンカさんを引きずっていくとは、魔法学校も有能な先生が多いらしい。
ビアンカさんに外泊届を出す際、今回の船旅を話したそうだ。そしたらビアンカさんが安い船を紹介してくれて。そこまでは良かったんだけど、あの子たち旅行だってと触れ回ったらしく。
それで集魚灯に群がるように選り抜きの変な奴らが集まってきた。寮生じゃないカイラは、ビアンカさんと名家同士の繋がりがあるそうで、その縁で現れたらしい。
「何だか賑やかで華があっていいじゃねえか。坊主も女ばかりって幸せもんだな」
「ええ、幸せすぎてドキドキしますよ」
お兄ちゃんは船頭さんに溜息で返す。この面子で出航。ただ事で済むとは思えない。
「ところで目的地はこの『花霧島』で間違いございませんこと?」
セーラの質問に、私は気を取り直してにっこりとうなずいた。
「そうだよ、年中薄い霧に包まれていて、それなのに色とりどりのお花が咲いている不思議な島」
「そうか、その霧を全て取っ払う魔法実験とか、魔法具開発とか面白そうだよね」
「そんなこと言っていると、サリーだけ下船禁止にしますわよ?」
環境破壊の権化に狂戦士が秒速で牙を剥く。お兄ちゃんはまた溜息をついて二人に分け入った。
「今日は単に、ちょっとしたお泊まり旅行練習。危ない妖獣も出ないし環境破壊の実験も禁止です」
危ない二人が頬を膨らませる。レティーナが能天気に言った。
「呑み明かす準備の酒は忘れずに積んだよ?」
私とカイラはお泊まりセットを眺めながら、変な寮生たちに溜息をついた。




