潮風の匂い
「漁業実習?」
私の言葉に、お兄ちゃんは意味がわからない、という表情になった。私は苦笑して説明する。
「私が狙っている実業魔法コースって、色んなお仕事で使う魔法を作るの。だから色んなお仕事を体験できるんだよ」
「それにしても、何でいきなり漁業なんだ?」
「実習には先輩たちが先生の助手に付くんだけど、今回は人魚のレティーナさんが当番なんだって」
酔っ払い人魚なのにワイン工場じゃないんだ、とお兄ちゃんが真顔で言うので笑ってしまった。
まあ、それはそれとして、海を使った魔法実習について、人魚ほど適任な者はいない。私たち地上で生活する者は海の中に潜ったり浮くためだけでも体力や魔力を消費するのに、人魚には何の造作もないことなんだから。
「人魚族はレティーナさんしかいないし、各コースの海関係は全部レティーナさんが関わるから、日程調整で実業魔法コースが最初なんだって」
「それって危なくないのか?」
「大丈夫だよ。嵐なら海に出ないし、みんな出席するよ」
私は当然のようににっこり笑顔で答える。でも「みんな」っていうのは嘘。実業魔法コース志望なんて一年生には少ないし、別に全てのお仕事体験が必要なわけじゃない。
でも、リルとしては戦争と汚い政治、そして研究しか知らず、アリスとしてはそもそもお仕事を知らない私にとって、漁業というか海のお仕事というのはとかく魅力的に映ったわけ。
そして何より、私はほとんど海を知らない。リルですら海戦はほとんど無かったし、アリスの村は山の中。海の魚をどうやって獲ってくるのかもよくわからない。
「お土産にお魚もらえるんだって」
お兄ちゃんは、じゃあムニエルの準備をしておこうかと言って笑った。
実習の当日。私たちは全員作業服を着せられ、夜明け前に港へと集まった。港内の潮風は学校とは全く違って冷たい。けれどその冷たさは目が醒めるような清洌さで、うっすらと磯の香りを含んでいた。
まだ夜明け前だというのに、漁師さんたちは既に次々と船に乗り込んでおり、中には出航していく船もある。夜目の効く私の目には、帆をかけて港外を走る船も見えた。岸壁の背後にある小屋では、魚屋さんが木の樽に魔法で氷を詰めており、魚を収める木箱を積み上げている。
石積みの岸壁と防波堤に囲まれた内側は、普通の波打ち際と違ってほとんど波が無く静かに船を泊めておけるようになっている。船からは数本の太いロープが出ており、岸壁に立てた係船柱で係留されていた。
「船に乗るときは気をつけてねー。静かに見えても揺れるよー」
岸壁の周りをレティーナさんが泳ぎながら指導している。私たちはただの木板を渡って二隻の船に乗り込んだ。船に乗ってみると、ほとんど動いていないように見えた船が、ゆっくりと上下左右に動いている。
「航行中は動くな。あとポケットに手を入れる奴はその場で殴るからな」
船長が荒々しい声で言い、私たちを睨めつける。レティーナさんは沖側の舷側に手をかけてぶら下がりながら補足した。
「出航すると揺れて危ないから、万が一のためにポケットに手を入れるのは船の掟で禁止なの。私たちだと水に落ちたら泳げば良いよね、と思うけど、人間族には無理でしょ」
そりゃ無理だ。ま、私は水中呼吸の魔法も使えるのでそれほど困りはしないけど、ここでそういう逆らい方をするのも野暮なので黙っておく。
出航、という船長さんの声で船の帆がゆっくりと開き、魔法風を受けてがゆっくりと動き始める。左右に揺れ、私は手近にあった手すりに慌ててつかまった。
船は港内をぐるりと回ったあと、港から出る。途端、がくりと船が揺れる。深く、浅く。左に右に。ボールの上でバランスを取るかのように休みなく上下左右に揺れる。ざばり、と波を切る音が聞こえ、潮風とともに霧状の海水が頬を叩いた。
「ちょっと、気持ち悪い」
右隣に座っていた、お兄ちゃんと同い年の男子が呻いた。でも私が平気な顔をしているのを見て、すぐにやせ我慢して平気そうな顔をしてみせる。でもさらに追い討ちをかけるように声が聞こえた。
「ほんと、気持ち悪いです。でも自分で希望しちゃったし頑張るです」
左隣に座っていたカイラが言葉を零し、泣きそうな顔で私を見つめてきた。
「何でお嬢様で医療コース志望で漁船なんて乗ってるの。やっぱりアホだよね」
私の言葉に右隣の子もうなずく。先週一週間の授業で、カイラが実は優秀どころか劣等生に近いことがばれてしまったのだ。まあ実際、簡単な魔法実習で失敗しちゃうんだから、隠そうって方が無理な話だけど。
でもカイラは真剣な顔で沖合を見つめて言った。
「お嬢様かもしれませんけど、先生に医療コースは成績から難しいだろうって言われちゃったんです」
「実業魔法コース志望していても、この漁業実習は避けちゃう人多かったでしょ」
「それはそうだけど、お嬢様で育てられて私、何も知らないから。だからなるべく、何でも知ってみたい。私バカだから、本で読んでもわからないから、だから実習はなるべく受けるの」
ちょっとだけ見直した。でも真面目にメモを取ろうとしてまた船酔いが酷くなったのか、気持ち悪い、と呟く。
「今は体験だけにしときな、魔法使いの卵ちゃんたち。船の中で文字を読むのは俺らだって酔いそうになる奴もいるんだぞ」
船長の言葉に、カイラは諦めたのかメモ帳とペンを鞄に押し込んだ。私はちょっと退屈になり、船の後ろにずりずりとお尻だけ動かして移動しようとする。
「トモに行くチビ助! 船が走っているときは動くなと言っただろ!」
船長がいきなり怒鳴る。私たちはみんなで顔を見合わせた。
「だからチビ嬢ちゃん、あんただあんた」
船長がずかずかと私の方に寄ってくる。カイラが果敢にも、トモ、と呟いた。
「ああ、トモがわからないのか。船尾を艫って言うんだよ」
なるほど。カイラの言う通り、私たちは確かに何も知らない。私も魔法以外は、お嬢様のカイラ以上に知らないかもしれない。船がさらに沖へと進み、波音が強くなる。港はもう遠く、魔法抜きでは防波堤の先に灯した常夜灯の明かりだけが方向を知る唯一の手段だ。
何も知らない海のど真ん中。私はもし万が一海に落ちても、魔法で呼吸は困らないけど。
船長が私たちを睨めつけて短く、板子一枚下は地獄、と言った。
お兄ちゃんの、危なくないのか、という念押しを思い出す。
カイラがそっと私の左手に右手を重ねた。小さく震えている。
「アリスちゃん、怖くないよ。みんな一緒だから」
怖がっているのはあなたでしょう。言いたいけれど、私も戦場や実験台にされるのとは全然種類の違う、何とも言えない不安を感じる。他の実習生もさらに口数が少なくなる。
だが再び、船長が呟くように言った。
「明けてきたな」
黒一色の沖合にうっすらと赤い線が見える。海と空の曖昧な境界が分かれ始めた。橙色の光がゆっくりと空に広がり始める。
「夜明けです」
カイラが呟くように言う。続けて他の生徒も夜明けだ。日の出だと口々に言い始めた。空が青みを帯び、果てまで続く波の動きが見える。太陽の光が空へと広がりながら昇っていく。
船の両側をイルカが飛び跳ねながら泳ぎ去り、再び戻って船の周りを飛び跳ねた。
「何だか、すごくきれい」
私は素直にうなずき、カイラの手を握り返す。カイラの手は意外に、お兄ちゃんの手のように暖かだった。
船の頂点が船長なら、漁獲労働の頂点は漁労長と言うそうだ。漁労長さんは普通の一年生より五つぐらい上、二十歳といったところだろうか。
漁労長の指示で網を引き上げるのだが、私は少し離れて見学ということになった。体も体重も小さいから、夢中になった他の生徒に弾き飛ばされたりすると危険だからだそうだ。
網が全部引き上げられると、網から魚が獲れてきた。私たちは歓声をあげて魚を眺める。と、カイラが首をかしげて言った。
「何で同じような魚ばかりなんですか? これでは、好きな魚の料理が食べられないかもしれないでしょう」
「網も、網を刺す海域も違うんだよ。他の港にある船は違う海域で、別な網で獲っている」
へえ、と私たちは漁労長さんの説明にうなずいたが、実際のところはよくわからない。たぶん、一度こうやって実習をした程度ではわからないことなのだろう。
完全に夜が明け、今度は暑くなってくる。潮風が無ければ具合が悪くなりそうな暑さだ。太陽を遮るものがないのは当たり前だが、海水が鏡のように日光を反射して私たちを炙っていた。
それでも漁師さんたちは氷魔法をひたすら魚にかけ、自分たちは汗だくになって働いていた。
一緒に働かせてもらえない分、私は全体を見渡していた。乱暴な言葉ながらも明確な指示が下され、生徒たちは戸惑いながらも指示に従って働いている。船長は船が無駄に動かないよう、魔法風を上手に操って天然風を打ち消したり帆を動かしたりしていた。
網に魔法をかけてもっと魚を獲れるようにしたらどうだろう。この暑さと寒さが大きく変わる船でも平気になるような魔法を作ったらどうだろう。いや網を巻き上げる魔道具が良いだろうか。
「色々考えているみたいだけど、あの漁労長についていける?」
舷側を泳いでいたレティーナが跳ね上がり、船に上がってきて言った。彼女の指差した先にいる漁労長は、網を上げると素早く船長に指示を出し、漁場を変えて今度は網を海へと放す。漁労長は何かを魔法抜きの肉眼で見て、網を差す場所を決めていく。
「わからないです。魔法の速さも強さも自信はあるけれど、彼の判断に柔軟に対応する魔法は、すぐには作れない気がする」
私の言葉に、レティーナは優しく笑顔を向けた。
「今はまだ、それがわかれば十分だと思うよ」
私はちょっとだけ悔しい気持ちになる。本当は大魔王と呼ばれたほどの大魔法使いなのに。
今考えると、私の魔法は戦争と要塞を建築するような技術ばかりで、足元の日常は三人衆に任せっきりだった。そういう役割分担が必要なほど、世界は荒れていた。それほど私は忙殺されていた。
それに興味も適性も小さかった。だってアリスの年齢だった頃、食事は餌のように渡されるか、獣のように獲って喰らうだけだったから。そんなリルと違って。
幼いアリスでも平凡な日常を知っている。
平凡な日常の大切さを知っている。
平凡な日々を支えるたくさんのものの大切さを知っている。
大魔王リルなんかよりもずっと。
「こういう現場を知らないで貴族とか言って威張るのって恥ずかしいよね、アリスちゃん」
船酔いに耐えながらも魚の網外しを終えたカイラが、極上の笑顔を私に向けた。私は劣等生だと思っていたカイラを眩しく思えてしまい、とりあえず彼女の頬に張り付いた魚の鱗を払ってあげた。
「カイラって、尊敬できるかもしれない」
思わず呟いてしまい、私は恥ずかしくなった。