アリス、入寮する
ついに、私とお兄ちゃんは王都の魔法学校と騎士学校に入学した。桜花寮では炊事道具も貸してくれるし家具も備え付けなので、引っ越しの荷物は最小限で入学式前日に入寮することにした。
お母さんに付き添われて寮に着くと、寮は二階建てで白い壁にたくさん窓が並んでおり、門柱には素っ気なく「桜花寮」と書いてあり、玄関には革製の服に小剣を差した人が立っていた。
日焼けした肌で鼻に絆創膏を貼っているが、ちょっと女顔なのが可哀想な少年だ。お兄ちゃんよりちょっと年上だろうか。彼は私たち兄妹を悪戯っぽい目で見ながら言う。
「カンヴァス君とアリスちゃんかな?」
「とくにアリスは女の子ですし、まだ小さいのでお手間をおかけしますが、よろしくお願いします」
お母さんの言葉に、彼は笑顔で言った。
「大丈夫ですよ、お母さん。うちの寮はただ厳しいだけじゃ留学生とも調整できないし、放任でも衝突する。そこの加減をわかっているのが我が桜花寮ですから」
彼はお兄ちゃんの荷物を軽々と受け取った。ふわっと魔力が彼の腕にまとわりつく。もしかして、騎士ではなく魔法戦士というやつだろうか。彼は素敵な笑顔で言った。
「私は寮長のビアンカだよ。アリスちゃん、女の子同士仲良くしようね」
危なかった。お兄さんと言わなくてよかった。お兄ちゃんに目を向けると、やはり冷や汗をかいたような顔をしている。ビアンカ寮長は私たちの顔をじっと見て小さく吹き出した。
「いいよ。私のこと、男の子だと思ったんだろ? でもお母さん、さすがに他の子はちゃんと女の子らしくしてるから、心配ないですよ」
お母さんもちょっと焦った声でいえいえ、と返した。寮長さんの案内にしたがって寮内に入っていく。玄関は靴箱が並んでおり、蓋のついた一箇所に「カンヴァス・アリス」と名前が書かれていた。
「そこに靴を入れて。玄関で脱ぎっ放しは禁止だからね。あと無理やり靴箱に幾つも詰め込むのも不潔だから禁止」
お兄ちゃんが黙って私の頭をぽんぽん、と軽く叩く。わかってますようだ。ちょっとむくれたりしているうちに、寮長さんは、あそこがトイレ、こっちは台所と食堂、といった調子で説明をどんどん進めていく。
「左側の区画は留学生。歓迎会まではトラブル防止のため立入禁止ね」
指差した左の廊下から、確かに異質な魔力が漏れてくるのがわかる。まあ、私の本来の魔力から見れば、どれも微々たるものなので怖くはない。
ただ、薬草なのかも怪しい草を廊下で育てていたり、部屋の入口に馬の頭蓋骨が飾られていたり。何の種族の風習かリルの知識でも怪しい。留学生だから、というより奇人変人率がやはり高そうな気がする。
続けて留学生側の向かい、右側の廊下を進み、最も奥の部屋で寮長さんが立ち止まった。
「ここが君たちの部屋。トイレ、バス、台所は共同だけど、君たち二人部屋は水の出ないバスルームもある。アリスちゃんが魔法をがっちり使えるなら、バスルームを使っても良いよ」
部屋に入るときちんと二人分のベッドが並んでおり、また寮長さんの言ったとおり排水溝と浴槽だけのバスルームも備えられていた。
「これなら私、ここでお風呂できるよ」
「そんな魔法、アリス使えたの? それなら台所の洗い物をもっと手伝わせておけばよかったわね」
お母さん。私は井戸や水道代わりじゃありません。寮長さんは笑って言った。
「いいじゃないの。これから学生生活中、どうせお兄ちゃんのお手伝いするんだろ? しなきゃかっこ悪いぞ」
「大丈夫だよ! 私、何でもできるよ」
「毎日の料理と高い所の掃除以外は、だよね」
お兄ちゃんがくすくす笑った。お菓子作りも料理もお母さんから習いはしたけど、お兄ちゃんの方が先に全部覚えてしまった。私のちっちゃな手に包丁は余っちゃうし、芋を剥こうとしてもやっぱり手がちっちゃいから掴む力が足りないし。
それに。リルの記憶が悪さしていた。戦争の糧食というか、研究所で実験され、その後に逃げ回ってひらすら生きるためだけに食べていた記憶。
生じゃなきゃ大丈夫。皮を剥けば大丈夫。実験開始までに食べなきゃ。追っ手に気づかれないうちに食べなきゃ。
お母さんの料理を食べているときは、帝都でいたときのように違和感なく、ただ帝都よりずっと美味しい料理を食べられたのに。
自分でお菓子以外の食事を料理しようとすると。その記憶が私を追い立てる。慌てる。塩をとにかく増して塩分不足を避けることばかり考える。
家族みんなは一回目、美味しいよ、って言ってくれた。
お兄ちゃんとお父さんは五回目でも、美味しいよ、って言ってくれた。
お兄ちゃんは十回目でも、ちゃんと食べられるよ、って言ってくれたけど。
もう、その頃のお母さんとお父さんの残念な視線が痛くて。
痛い気持ちのまま、お兄ちゃんが炊事係か、あとは食堂かな、という話で両親は落ち着いて。
結局、私は包丁を握らなくなった。それなのに今も「まだ苦手かな」と言って待ってくれているのは。
やっぱりお兄ちゃんだけだ。
私は何気ない風を装ってあはは、と笑うとお兄ちゃんの服の裾を握った。
お母さんが帰ると、寮長さんは腕組みをして私たちの前に仁王立ちで言った。
「親が抜けたんで、改めて。うちの寮は何でもありだ。他の寮みたいに命令一下で厳格管理なんてやらないが、いきなり変な催し物があるんで、その辺よろしく」
「変なって、どんなのですか」
「例えば、夜中にいきなり山菜採りピクニックとか」
「冗談ですよね、寮長さん」
「僕はほら、男の子っぽいから細かい冗談とか苦手なんだよ。それから寮長じゃなく、ビアンカって呼んでよ」
ビアンカさんは言葉遣いも男子に変わり、挑発的な視線で言う。もしかしてこの寮、やっぱ怪しいんじゃ。
「危ないことはなるべく僕が鉄拳で抑え込むから安心してよ。騎士学校の連中なんてちょろいちょろい」
「ビアンカさんは、まさか」
お兄ちゃんの言いかけた言葉に、ビアンカさんは自慢げな顔で言った。
「僕はアリスちゃんと同じ学校さ」
お兄ちゃん、びっくりしてる。まあ私はさっき、腕力を魔法で強化したことに気づいたから納得だけど。
「それにしてもアリス。君、ちょっと怖いな。一目で僕の呪文、読み取ったろ」
「私、そんな難しいことできないよ」
「嘘つくな。僕が鞄を下ろしたとき、僕の手じゃなく魔法の流れを見ていただろ」
細かいこと気づくな。私の視線を読んだのか。寮長になるだけあって、魔法の腕前もそれなりにあるわけか。私が黙っていると、ビアンカはまた怪しげな笑みを浮かべて言った。
「さっき何でもありとは言ったけど、流石に不純異性交遊とかはダメだぞ。君たち新婚じゃないんだから」
「「兄妹です!」」
お兄ちゃんと私の声が重なる。ビアンカはまた笑って言う。
「そりゃそっか。じゃあ僕とカンヴァス君で甘い恋愛とか」
「それ、不純異性交遊! お兄ちゃんに触るの禁止!」
ビアンカさんは腹を抱えて笑った。笑いすぎてひいひい言って咳までしている。
「僕が、女の子を、恋愛の話でからかえるなんて、ほんと傑作だ!」
「そっか女の子から恋されて笑われていそうですよねビアンカさんは」
アリス、とお兄ちゃんは慌てて私の手を引っ張る。ビアンカさんはいいよいいよ、と言って笑いを止めた。
「言いだしっぺは僕だしね。アリスちゃんの言う通りなんだよ。まあ僕自身、恋愛体質からほど遠いけどさ」
今度は真面目な顔になって言った。
「ただ、冗談と違う部分もあってね。駆け落ち場所に使いたいとかいう莫迦も来るもんだから」
そうですか、とお兄ちゃんは真面目に答える。するとビアンカは私をじっと見つめて言った。
「君は不思議な魔力だから、実はずっとませてるんじゃないか、とね」
私は慌てて左右に首を振る。私の、隠蔽した魔力を読んだのか。玄関で待っていたのは、待っていたのではなく私の魔力を調べていたのかもしれない。
「大丈夫ですよ。多少ませていても、まだ包丁も大して握れないし気軽に僕の前で着替えるし」
私は無言で、軽く笑うお兄ちゃんの横腹をつねった。




