三
花屋敷の怪人とその使いの竜の件を耳にした騎士が、馬で山を越えてやってきました。
てっきり町は陰湿になっていると思いきや、人々は怯えているどころか、「今日は柑橘の香りだ。マーマレードを煮詰めているんだ」なんて、穏やかに話しているものだから、騎士は肩透かしを食らった気分でした。
領主は言いました。「こっちが悪いようにしなければ、彼女も竜もおとなしくしている。死にたくなかったら何もやらないでくれ」
平和そのものだった町では違う噂が流れていました。花屋敷の怪人は世界中の花を育てていて、それを使って何でも治す薬を作っている。顔に塗ればきれいになる。若返る。わざわざ海を越えて取り寄せようとする上流階級がいるほど。
騎士は怪人退治を行なわないことにしました。その代わりに薬を譲るよう交渉しようと思い立ちます。彼は今、主人がいません。かつてはとある王族に使えていたのですが、姫をたぶらかした罪で城を追われたのです。事実はというと姫の方から誘ってきて、それを彼は丁重に断るも、怒り狂った姫が王に嘘を吹き込んだせいでした。本来ならば死刑だったのを、彼は信頼の部下の手も借りて命からがら逃げたのです。騎士としての身分をどうしても捨てきれず、かつての城の追手が届かない所を旅しながら、新たな主人を探していました。怪人が作る美の薬は強力に違いありません。上流階級への献上の品にはもってこいでしょう。
騎士は日が昇るのと同時に森に入りました。行く手を阻む茨は、盗賊に襲われていたところを助けてあげた骨董商の老夫婦からお礼に受け取った、どんなに硬い魔物も、幽霊のように触れられない悪魔も斬ることができる剣でなぎ払いました。行く手を混乱させる木々は、毎晩悪霊と踊り狂う娘に悩まされていたというので、悪霊を斬ってあげた宿屋の主人からお礼に受け取った、犬並みに嗅覚がある賢い馬のおかげで、花の香りがする方へ迷いませんでした。
道すがら、妖精たちと遭遇しました。妖精たちは久しぶりの侵入者がどんな奴か、相手によればいたずらしてやろうと近づいたのでした。妖精は美しいものが大好きです。騎士の美しくたくましい姿に妖精たちは興奮し、なぜ彼がこの森に入ったのか考えずに、確実に花園へと誘うように飛び交いました。
これに怒ったのが立派に成長した竜です。剣があるのはグレイシーを殺すために違いないと吠えました。騎士は正直に、彼女から薬をもらいに来たと答えました。竜は信じません。
「グレイシーだって乙女だもの。恋の一つぐらいさせてやっても罰は当たりっこないわ。恋は女を綺麗にするのよ。彼女だって綺麗になることを諦め切れていないはず」
花園に招待したい小さな妖精たちはまくし立て、大きな竜を圧倒させます。妖精たちはグレイシーが騎士を見てどんな反応を示すか、逆に騎士が彼女を見てどれだけ驚くか興味を沸かしていました。
竜は考え込みました。彼は彼女の屋敷に鏡がないことを子供の頃に知っています。泉から水を汲む時は遠くの方を見つめているということも、前に出てきた影法師には敵意の眼差しを向けることも。なるほど、グレイシーは呪いを解く努力をやめただけに過ぎません。自身の姿形を心から受け入れた訳ではないのです。
もしグレイシーに剣を向けたなら噛みちぎってやると、竜は騎士に忠告しました。剣を取り上げようとしなかったのは、少しでも怪しい動きをすれば殺すつもりだったからです。彼はこんな古ぼけた剣なんかで自分が斬られることはないと信じていました。なぜなら最高の魔法使いが贈ってくれた首飾りがあるのです。
ますます花の香りが強くなってきました。不快になるどころか、夢の中へ潜り込んでいくようです。道らしい道がなかったのが、大きな一本道ができていました。
ようやく明るみに出ました。最初に目にしたのは蝶々の舞でした。天が特別高く感じられます。城壁のように囲っている森のせいでしょう。森は花園を守っているのだと騎士はよく分かりました。日差しはまぶしく、鳥の影がさえずりと共に横切りました。
騎士は泉の水を馬に飲ませ、休ませました。敷石の道が屋敷まで続いています。侵入者を許さないと聞いていたので、人工的に作られた道には意外でした。
怪人はこちらの存在に気づいているのでしょうか。屋根からは白い煙が出て、イチゴを煮詰めている香りが漂っています。彼はつい癖で柄に触れそうになるのをこらえ、歩き出します。ずっと竜が背後でにらんでいるのがひしひしと感じられます。
騎士は扉を叩きます。反応がなかったので、もう一度叩きました。
「私は塗れば綺麗になるという薬を作っていると聞きやってきました。噂が本当であれば譲っていただけないでしょうか」
額を提示してくれればきちんと払うつもりでしたし、足らない時は稼ぐために引き揚げるつもりでした。
右の窓がわずかに開かれ、黒いレースの袖が出てくると、小瓶が落ちました。小鬢の中身は白い液体でした。試しに左の人差指に塗ってみると、あっという間に切り傷やささくれが治り、垢も落ちてつるつるになりました。紛れもなく、魔法の薬ではありませんか。彼はいくら払えばいいのか、白いレースのカーテンの向こうに問いかけました。
「ここまで来るのにさぞ苦労したでしょう。お金はいりません」
花のように儚く、根強い声でした。女性であることは頭に入っていましたが、怪人という印象からかけ離れた少女らしい声に、騎士は驚きました。
「他の方は支払っているのでしょう? 私も平等に払うべきではないでしょうか」
「では、扉の前に適当な額を置いといてくださいな」
「姿を見せてはくれないのですか?」
騎士は金を直接に渡したかったのです。そうでなければ支払った気になれませんでした。
「噂をご存じでしょう」
「昔は姿を変えて人前に現れたとか」
「昔の話です。わたしは今手が離せません。お引き取りくださいな」
足音が奥へ引っ込みました。火にかけた鍋を放置できないのでしょう。火事になっては大変です。頑なに出てこようとしないグレイシーに妖精たちは業を煮やしました。
「中に入っちゃいなさいよ!」
騎士はためらいましたが、勝手に扉を開けられた手前、怪人がどんな風貌をしているのかとても気になります。ビックリ箱を与えられた子供の気分にさせられました。彼はそそのかされるまま、イチゴジャムの香りで満ちた屋敷の中に足を踏み入れてしまいました。
椅子が四つあるダイニングテーブルにはラピスラズリの花瓶が飾られ、風と太陽が擬人化された彫刻が日光でクロスに映し出されています。木々がざわめいて影が揺らげば、青い写し絵も動いて見えました。階段には一つ一つ植物が違うリースがかけられ、上は吹き抜けになって、バラ窓がありました。
ぬくもりの感じられる屋敷。まさかここに怪人が住んでいるなんて思えません。彼女は間違いなく女性なのです。
騎士は台所に向かいました。手編みのショールをまとった黒いドレスの後ろ姿があります。鍋は隠れて見えず、きっとジャム用の小さい鍋なのでしょう。少女らしい声と打って変わって、老婆の歪曲した背中でした。騎士は亡き祖母を思い出しました。
彼女の背中がぴくりと震えました。
「失礼な方ですこと。まだ用があるのかしら」
「昔、祖母がジャムを作っていたのを思い出しまして」
「なら、ついでにジャムも差し上げましょう。棚から好きなだけ持って行ってくださいな」
騎士は棚に目をやることなく、恐る恐る彼女の横へ移動していました。怪人と目が合いました。騎士は目を見開きました。息が詰まったのを、どうにか冷静を努めて声にします。
「あなたはグレイシーですね?」
「そんなことはともかく、適当にジャムを選んで、出ていって」
「せっかくなので、何か、手伝えることがあれば、おっしゃってください」
互いが探り合うように言いました。そしてにらみ合っていました。グレイシーは、男が屋敷に踏み入れるなど黄色い魔法使い以外ありえなかったこと。彼女も動揺をひた隠しにしていました。
「結構です。ここは台所。男が踏み入れる場所ではありません」
「何よ、ケチね!」
妖精たちが二人の周りで文句を飛ばしました。
「彼はお客さんよ。何のために毎日庭を手入れしてきたの! いつでもお客を迎えられるように、でしょう!」
「見て! こんなに美男で、女なら嬉しくない訳がないじゃない!」
「手伝いなんかする必要ないわあなた! 堂々とくつろいで待っていればいいのよ! 彼女が紅茶とお菓子を運んでくるのをね!」
「グレイシー! とっとと煮たジャムをこして冷やしちゃいなさいよ! 待たせちゃ悪いじゃない!」
と、嫌がる彼女の鼻や耳、まぶたを引っ張り、騎士が慌ててやめさせる始末です。グレイシーの険悪な目に、彼は笑顔を引きつらせるばかり。
「わかりました。ここは邪魔ですから、向こうで待っていてください。戸棚に本もあります」
グレイシーは根負けしたように、肩の力を落としました。
騎士は彼女が来るまでおとなしくしていました。青い写し絵が影で消えます。窓の外で竜が見守っていました。
グレイシーができたてのイチゴジャムとスコーン、ハーブティーを運んできました。彼女は丁寧にハーブティーを二つのカップに注ぎ、騎士のはす向かいに着席すると、黙ってカップに口をつけました。騎士も一口飲みました。絶妙に調合されたハーブの香りが鼻孔へすっと流れ込み、まぶたを下ろせば花園の中心にいるようでした。また一口飲めば、香りが変化していて、目に浮かぶ花の種類も変わりました。
「こんなにおいしいお茶を飲んだのは初めてです」
「それは安心しました」
グレイシーはずっと目を伏せていました。
「すみません。勝手に屋敷に踏み入れてしまって」
騎士はそのことをまだ怒っているのだと思ったのです。
「いいえ。久々に人間と会って、緊張しているだけです」
「ずっとこの森に住まわれているのですか?」
「奴らはわたしを否定しました。ならわたしは奴らを拒絶するだけ」
「寂しくないのですか?」
グレイシーは外の方に顔を向けました。竜の他に、動物たちがこちらの様子をうかがっていました。
「薬は献上品にするのでしょう?」
グレイシーは話を変えました。
「そのままでは地味ですから華やかに飾り立てておきましょう。きっと喜ばれます。お相手の歳はいくつですか? 相応な花を選びましょう」
騎士は、まだどこに献上するか決めていないこと、なぜ一人旅をしているのかを告げました。グレイシーは顔も知らない姫を怒りました。
「何て身勝手な女でしょう。身の程を知らないのね! あなたが心を許していたとしても、王が娘の不貞を知るなり、その女はあなたの方から迫って来たと手のひらを返していたでしょうね! 安心なさってくださいな。この国の王女は聡明な方。同情してくれることでしょう。彼女は身も心も美しく、是非の弁がお有り。けして不埒な振る舞いはしません。あの子たちが保証してくれます」
彼女は小鳥たちに目をやりました。小鳥たちは視線を受けて、可愛らしく跳ねたり羽ばたいたりしました。
「動物たちは皆、あなたが好きなのですね」
「そうみたい。わたし、幸せな生活を送っていますの」
グレイシーは不気味に顔を歪ませて微笑みました。
「あなた、疑問に思っているのでしょう。どうしてその薬を、自分に使わないのかを」
騎士は肯定も否定もしませんでした。
「使っても意味がないの。その薬はわたしには効かない。言わば失敗作ってところです。だけど皆には喜ばれるから、作り続けているのよ。おかしいでしょう?」
騎士は肯定も否定もしませんでした。
「あなたさえ良ければ、またこのお茶を飲みに来てもよろしいですか? それに素敵な庭だ」
「それこそ、あなたさえ良ければ」




