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架空戦記

帝国陸軍護衛船一号

作者: 山口多聞

 1904年から1905年に掛けて戦われた日露戦争では、10年前の日清戦争と同じく戦場は日本本土から海を隔てた中国大陸が主戦場となった。このため日本陸軍は膨大な兵力ならびに物資を、日本本土から朝鮮半島、或いは遼東半島へ海路で運び込む必要に迫られた。


 しかしながら、その輸送には少なからぬ犠牲を払わなければならなかった。10年前の日清戦争時と違い、ウラジオストクならびに旅順を根拠地とするロシア艦隊は艦艇の数も多く、戦術も巧妙であった。


 そして、その内ウラジオストクに本拠地を構える三隻の巡洋艦が、日本を恐怖のどん底に突き落とすこととなった。


 この三隻の巡洋艦「ロシア」「グロモボイ」「リューリク」は他の巡洋艦や水雷艇と共に日本海や、時には大胆にも太平洋の日本沿岸部に出没し、日本や中立国の輸送船を攻撃していた。


 その最中に起きたのが、近衛後備歩兵連隊を輸送していた貨物船「常陸丸」が1904年6月に玄界灘で沈められた事件である。この事件は国内に物議を醸し出したが、取り分け日本海でウラジオ艦隊の掃討を行なっていた第二艦隊と艦隊司令長官の上村中将に非難が向けられた。


 一方近衛連隊を戦わずして海の藻屑とされた帝国陸軍も、大きな衝撃を受けた。幾ら精鋭の兵士であっても、海上の船の上では攻撃を受ければ手の施しようが無い。


 ウラジオ艦隊はその後8月に発生した蔚山沖海戦で第二艦隊に捕捉され、巡洋艦「リューリク」を撃沈し、他の2隻にも打撃を受けて壊滅した。これによって第二艦隊は汚名返上をしたが、だからといって失われた陸軍兵の命や装備が帰って来るわけでもなく、加えて残存艦艇(特に水雷艇)による通商破壊の脅威が完全に拭い去られたわけではなかった。


 加えて、遠くヨーロッパから接近するバルチック艦隊の存在も気がかりであった。陸軍としては、この時莫大な戦力を大陸に展開しており、それを支えているのは日本海や黄海経由で日本よりもたらされる補給物資であった。


 特に、この時陸軍は旅順要塞攻略のために多数の兵員や重砲、要塞砲を展開していた。もし海上補給が絶たれれば、これらの戦力は戦わずして干上がってしまう。


 このため、陸軍は海軍に海上補給路の維持を重ねて申し入れると同時に、一部の徴傭船の武装化などで対応することとなった。


 この補給線断絶の恐怖は、翌年の日本海大海戦の勝利まで、常に陸軍首脳部を悩ませる材料となった。


 そして日露戦争から10年後に発生した第一次世界大戦において、再び問題が再発した。場所はドイツ租借地の中国・青島でのことだ。同地の要塞を攻略するため、陸軍は部隊を派遣した。もちろん、海軍も艦隊を派遣してドイツ艦隊の殲滅と、陸軍部隊の護衛を行なった。


 ところが、この地にただ一隻だけ配備されていた潜水艦と、数隻の水雷艇によって、日本陸海軍はまたも辛酸を舐めることとなった。


 これらの艦艇によって巡洋艦2隻と輸送船3隻が沈められてしまったのである。


 潜水艦はその後機関に不調を来たして修理不能となり自沈。水雷艇も海軍の駆逐艦と水雷艇との戦闘で全滅し、それ以上の被害拡大は防がれたが、沈められた輸送船の内2隻が揚陸未了船であり、しかも1隻は鉄道連隊用の資材を塔載しており、要塞攻略の物資輸送に必要な鉄道建設に甚大な被害を被ってしまった。


 さらに陸軍を慌てさせたのは、水雷艇はともかくとして潜水艦に対抗できる手段を海軍が持ち合わせておらず、陸軍輸送船は青島の敵潜水艦自沈後も、不必要なまでに敵潜水艦の存在を恐れることとなった。


 それと同時に、被害を防げなかった海軍の無策振りを罵った。


「海防は任せておけと言っておきながら、この体たらくは何だ!」


 とは言え、海軍側にも言い分はあった。この時点で潜水艦はまだ未知の平気であり、その対策手段は列強海軍でもようやく開発されたばかりであった。そのため、日本海軍は潜水艦に対抗する手段を持ち合わせていなかった。


 ただ陸軍にしてみれば、海軍に任せるしかない海上の守りで大被害を被っているのだから、怒りは収まらない。そして、その流れ上「海上においても自らを防衛する方策」の研究に入るのは、仕方が無い流れであった。


 折りしも、この第一次世界大戦においては連合国が行なったガリポリ上陸作戦から、敵前への上陸研究の必要性が出てきた。すなわち、海上における陸軍の機動性への研究が本格化したわけだ。


 そこで陸軍はそれまで船舶と鉄道を運輸部で一括運用していたのを、新たに海上に置ける防衛と強襲上陸研究のための部門を船舶兵部へと分離独立させた。


 もちろん、海軍からしてみれば自分達への裏切りと見られて仕方が無い処置だけに、この陸軍の施策を批判したが、実際の所日露戦争に続いて、二度も海上防衛に失敗した以上、余り大きな口を叩けない。それに加えて、海軍もこの頃から上海特別陸戦隊と言った陸上専門部隊の創設を始めており、結局陸海はそれぞれに技術供与をすることでお茶を濁した。


 こうして、陸軍における船舶の研究がスタートした。この研究は大きく分けて二つ。一つは上陸作戦に必要な舟艇の研究。もう一つは、上陸地点までの輸送船を護衛し、上陸を掩護する船であった。


 前者は後に傑作上陸用舟艇である大型発動艇と小型発動艇として完成することとなるが、後者に関しては海軍の協力を得たものの、非常に困難な研究課題であった。


 と言うのも、帝国海軍にはこれに類する艦艇がなかったからだ。そもそも敵艦との戦闘を主眼において設計されている海軍艦艇と、今回の陸軍の仮称掩護船(後に護衛船と改称)とでは設計思想が違いすぎていた。


 陸軍としては本土から上陸地点までの護衛と、上陸地点における上陸掩護を主眼とするから、必要とされるスペックは商船(徴傭輸送船)と同程度でも構わない速力と、ある程度の砲力と対潜兵器となる。(初期計画段階では対空は考慮されていなかった)


 こうした艦艇は所謂コルベットやフリゲートに類別される艦艇を指すが、この時点の帝国海軍にはこれに該当する艦艇はなかった。強いて言うなら掃海艇や敷設艇などがこれに近い所であるが。


 また陸上砲撃だけに特化するなら、英海軍のモニターもある。ただし、モニターは基本浅海で使うので、護衛任務には使えない。


 このため、陸軍は海軍や造船会社の協力を得ながら、この新艦種の研究に着手した。とは言え、この計画が始動した第一次大戦後は不景気に加えて軍縮期であるから、潤沢な予算は望むべくも無く、加えて同じ上の物では上陸用舟艇の計画も進んでいたため、こちらの研究は低調にならざるを得ず、最初の数年は研究どまりであった。


 そして時は流れて、上陸用舟艇の研究が一段落し、さらに満州事変の発生で大陸への派兵が再度必要となった昭和6年になり、ようやく設計と建造のための予算が付いた。もちろん、兵士の教育もである。ちなみにこのために、新たに船舶兵と言う種別が設けられている。


 船舶兵は後に船舶工兵と混同されることがままあったが、一応基準では船舶兵は舟艇より大なる船舶を操作する兵士と既定された。つまり、舟艇は船舶工兵。後の護衛船や運送母船は船舶兵という具合だ。


 この教育には海軍の支援が行なわれ、転科した人間は海軍兵学校や各海軍学校、海兵団で教育ならびに訓練を行なっている。


 一方、彼らが乗る船の方の開発も進められた。この開発には海軍艦政本部と民間の藤永田造船所や石川島造船所が参加した。民間会社が参加したのは、予算や船の性能上民間規格でも構わない部分があると思われたからだ。


 実際、陸軍が求めたのは輸送船の護衛と上陸支援用船であるから、最高速力は25ノット程度と低く、代わりに長大な航続力が求められた。また武装も魚雷は必要とされず、強力な砲とこの頃徐々に脅威となっていた航空機や高速艇対策の機銃、そして潜水艦対策の爆雷とされた。


 こうした要求から、速力を妥協して最高23ノットにした上で船体の大部分を民間規格とし、エンジンをディーゼルとした。武装は海軍から流用した15cm砲を主砲とし、対空火器も海軍が採用した8cm高角砲(後に25mm機銃を追加)とした。


護衛船一号型

全長95m   排水量2000t   速力23ノット(なお竣工時点ではロンドン軍縮条約を批准していたので、速力19ノットと発表されていた)


武装15cm砲2門

  8cm高角砲2門

  92式重機関銃四挺(後に25mm連装機銃2挺と単装4挺に交換)

  爆雷投射機一式 爆雷48発


 設計がまとまると、石川島造船所で建造が始まり、昭和8年11月19日に同船は竣工し、陸軍護衛船1号となった。


 護衛艦ではなく、護衛船となったのは艦艇はあくまで海軍所属の船に用いられる言葉であるからだ。


 竣工した護衛船第一号は陸軍船舶部隊の拠点である広島県の宇品港に儲けられた陸軍船舶総司令部に所属し、各種の実用試験に入った。


 当初は配置された将兵の不慣れや、新造船であるがゆえの不具合に悩まされたが、それも1年ほどで解消し、昭和10年初頭には運用の目処が立った。このためこの年からは南洋諸島や遼東半島への遠洋航海訓練や、台風などでの災害派遣と言った任務に参加するようになり、こうした経験が陸軍船舶兵の練度を後押しした。


 一方舟艇研究に関しても、この時期大いなる進展があった。昭和7年に第一次上海事変に際して行なわれた七了口上陸作戦において、上陸用舟艇の上陸に際して、輸送船からの降下では時間が掛かりすぎることが判明し、専用の揚陸艦が求められることとなった。これが昭和9年に竣工した「神州丸」である。


「神州丸」は船体内部に上陸用舟艇を収容し、艦尾の扉から軌道に沿って舟艇を着水させていくため、これまでの輸送船のようにデリックで一々降ろす必要がない。よって、短時間で舟艇を展開させられた。後の時代で言う「強襲揚陸艦」とも言うべき船であった。ただしこの時点の陸軍における呼称は、運送母船であった。


 この護衛船1号と「神州丸」という陸軍船舶の活躍の舞台は、ほどなくして訪れた。昭和12年7月7日、盧溝橋での衝突に端を発した日支事変である。


 そして「神州丸」がその威力を遺憾なく発揮する機会はすぐに起きた。8月の太沽上陸作戦、そして続く11月の杭州湾上陸作戦である。


 杭州湾上陸作戦は約3個師団の兵力を上陸させる大作戦であり、護衛船1号も援護射撃や船団護衛に大活躍した。特に空襲を行なう中国軍機や、出動してきた中国海軍水雷艇への反撃などで、大いなる働きをした。


 この作戦を通して、陸軍上層部は運送母船とそれを護衛する護衛船の増備を決定、護衛船は新たに三隻の建造が認められた。


 その後護衛船1号は、大陸向けの輸送船団の護衛や、沿岸部の中国軍、或いは河を俎上してその川岸を進撃する友軍の掩護をと活躍した。


 この間、敵機からの攻撃を受けるなどして、対空機銃の増設や近接火器として軽機関銃や迫撃砲の塔載を行なったりしている。


 たった1隻ではあったが、陸軍は船舶の運用法や乗員の訓練に同船を最大限活用した。この結果、後に竣工する護衛船や運送母船の運用を容易ならしめた。


 昭和13年から14年に掛けて、新たに2号から4号の護衛船が竣工すると、これらと第一護衛船舶隊を編成して活躍を続けた。その後の南北仏印進駐にも出動している。


 ただし、陸軍の運用では少数による護衛が基本で、通常は1~2隻での行動が基本で、4隻全てが揃って行動することは、一度もなかった。


 陸軍護衛船は民間規格の船体やエンジンを塔載したため、防御性能や加速性能などは劣っていたが、量産性(民間造船所でも建造可能)や経済性では後に海軍が設計・建造した海防艦などより優れていた。


 そして昭和16年12月8日から始まった大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)では、2号と共にコタバルに上陸する味方部隊の掩護をしている。この際に、輸送船に対して対空砲火を提供して、適切な護衛を行なっている。


 ただし、一号護衛船の活躍期間は短かった。南方攻略作戦終了後、同船は日本での整備の上、今度はソロモン諸島方面への作戦に投入された。そして昭和17年10月のガダルカナル増援船団輸送中に、敵航空機の攻撃を受けて大破、沈没を避けるためにガダルカナル島にのし上げてその生涯を閉じた。

 

 しかし同船は完全に破壊されるその瞬間まで残った備砲で対空・対艦戦闘を続け、5隻の輸送船の揚陸を完了させ、脱出させることに成功した。


 日本最初の陸軍護衛船は、その任を全うしたのであった。


 陸軍護衛船は、戦争中に16隻が整備された。ただしこの内の4隻は海軍の二等輸送艦と交換される形で、海軍に移管されている。これらは、海軍で砲艦となって活躍した。


 しかし、その多くの船の乗員は戦時下であるがゆえに充分な訓練を行うことが出来ず、敵航空機や潜水艦の好餌となってしまったものが多かった。


 それでも、これらの陸軍護衛船は数少ない船団護衛船として、或いは強行輸送を行なう船団の護衛船として活躍した。


 最終的に、陸軍護衛船で生き残ったものはわずか2隻のみであった。しかしながら、この2隻は幸運であった。何故なら、当初採用した商船規格の船体のおかげで、非武装化による民間転用が占領軍によって認められたからであった。


 陸軍護衛船は、陸海軍のセクショナリズムの産物と後世において批判されたが、それでも黙々と上陸支援や船団に護衛に活躍した彼らの功績は、不滅のものとなった。

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[良い点] 流れに無理がなく読みやすいです。船舶工兵関連の本はあまりないので、勉強も難しいですよね。しかし戦史・歴史に詳しくない人間に読ませたら本当か嘘か分からんかもしれませんな。 [気になる点] 私…
2014/05/06 12:08 退会済み
管理
[良い点] 陸軍の輸送はどこの船がやるのか、というとたいてい海軍なのでしょうが、日本においては事情が違った感じでしたね。 いびつな形になりますが山口先生の書かれたように陸軍でやればよかったような気もし…
2014/02/22 12:49 退会済み
管理
[一言] お疲れ様です。 護衛船のスペックに少々疑問が。 護衛船一号型 全長95m   排水量2000t   速力23ノット 武装15cm砲2門 これ明らかに、速度の点でロンドン条約違反です…
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